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あかつきに咲く花

9、

先日、オーディンの地図を見ていた時に、オスカーがどこに住んでいるのか、父の書斎にある紳士録をこっそり調べた。それによるとコールラウシュ邸とは別の高級住宅街にある邸宅が彼の住まいらしかった。ヘル・フォン・コールラウシュであれば、この地区の住民は比較的新しくこの地に移り住んだ、新興の貴族が多いと知っていただろう。地上車でやって来たエルフリーデは単に、コールラウシュ邸より新しく建てられたと思われる、趣のことなる邸宅群を物珍しく思っただけだった。
地上車はエルフリーデが指示した番地の前の通りに停車した。
車を降りて、エルフリーデはそのお屋敷の様子を通りから眺めた。ぴったりと門扉を閉ざした向こうに、遠く屋敷の表玄関が見えた。玄関ポーチの横には幹の太い背の高い木が立っており、そのうっそうとした木の葉が暗い陰を落としていた。正面に向かってたくさんの窓が見えたが、どれも固く閉じられて暗く、まるでこの家の主のように取り付く島もない。
エルフリーデは今さらながら、ひとたび彼の家まで飛んで来れば、オスカーが両手を広げて待っていてくれるように考えていた自分の甘さに気づいた。
屋敷は無人であるかのように静かだった。オスカーはもうすでに宇宙に飛び立ってしまったのだろうか。新聞にはいつ、彼が出征するかまでは書いていなかった。長く留守をすることになるのであれば使用人も休暇を取ってしまい、屋敷は締めきってしまうのかもしれない。
せめて誰か中にいるのであればことづけを頼むこともできるだろう。エルフリーデはいったん家に帰って、手紙を書いて持ってこようかと考えた。
その時、眠るようだった屋敷の正面玄関が開き、突然、何もかもが動き始めた。
門の側の塀の内側にはロッジのような小屋が立っていたが、そこから銃を構えた数人の兵士が現れた。お仕着せの従僕が玄関扉を全開に大きく開いた。黒服の執事らしき年配の人物が手に書類鞄を持って現れて、玄関内に振り返った。
オスカーが玄関から外に歩み出た。
その後から急ぎ足でレッケンドルフ大尉が出てきて執事から鞄を受け取り、上官の側に立った。オスカーは執事と話している。それを見ていたエルフリーデの姿に、衛兵と思われる兵士が気づいてやって来た。
「フロイライン、ここはあなたがいていい場所じゃありません。どうぞお帰りください」
エルフリーデはその兵士の愛想のない顔を見つめて、何と言えばこの屋敷の中に入れてもらえるか考えた。
だが、彼女が何か言う前に、レッケンドルフがこちらの様子に気づいて門扉まで小走りにやって来た。
「フロイライン! どうなさったのですか? こんなところにお一人でいてはいけません」
それは兵士と同じ言葉だったが、口調は思いやりにあふれて心配そうだった。
「オスカーに会いに来たの。出征すると聞いて、どうしてもお話したくて…」
レッケンドルフが兵士に「お通ししろ」、とひとこと言うと、兵士は抗わずに彼女が通り抜けられるだけ門扉を開いた。
門の中に入り、レッケンドルフの腕に手を預けて、玄関まで歩いて行った。門の外からは気づかなかったが、車寄せまでの砂利道の脇には色とりどりの花が咲く花壇があって、その奥はみずみずしい緑の芝生が広がる、気持ちの良さそうな庭園になっていた。奥に小さな木陰があって、その木々の間からきらりと東屋の屋根が見えた。
玄関前には、突然門に向かって走り出した副官が連れて来た人物を見て、眉をひそめるオスカーがいた。
エルフリーデはオスカーの前に立つと、彼の顔をじっと見上げた。何を言ったらいいのか、何を彼と話したかったのか、忘れてしまった。
「何をしに来た」
オスカーの言葉は感情のこもらないものだったが、その表情には微かな戸惑いがあった。エルフリーデは深呼吸して、なんとかしっかり頭を働かせて言った。
「出征すると聞いて…。気を付けていってらっしゃいって、言いたかったの。元気でいてって」
何か言いたげに薄く口を開いたが、オスカーは何も言わなかった。
「そうか」
ひとことそう答えただけだった。
エルフリーデも言葉をつづけることが出来ずに、ただ頷いた。彼に再び会ったらもっといろいろ言いたいことがあったはずだった。
しかし、彼の顔を見ただけでエルフリーデは満足した。
オスカーもまた、じっとエルフリーデを見下ろしていたが、「待っていろ」と言って屋敷の中に戻って行った。
レッケンドルフ大尉が側に立って、上官の後ろ姿を見ていた。
「レッケンドルフ大尉、ご無事だったのね」
副官はエルフリーデに振り返って、にこりとした。
「もちろん。あなたを心配させてしまいましたか」
「はい。でも、きっと助けを呼びに行ってくれたのだろうと思ったから…」
「そう言っていただいて、恐縮です。フロイラインのほうこそ、本当に大活躍されましたね」
エルフリーデは強く首を振った。
「いいえ…! 私、オスカーが助けられたくない人を連れて行ってしまったみたいで、オスカーを怒らせてしまった…」
だが、レッケンドルフは穏やかにエルフリーデの言葉に反対した。
「閣下は怒っていらっしゃいませんよ。どうせフレーゲル少将がでしゃばったのでしょう。貴婦人を救い出す英雄になりたくてね。でも、危険な目に合いながらあそこを逃げ出して救助を求めに行ったのは他でもないあなたですからね。あなたが助けを求めに行ったおかげで、奴らにも隙が出来たわけです」
そういうレッケンドルフの言葉を完全に納得したわけではなかったが、エルフリーデは彼女に理解を示してくれる人がいることに感謝した。
「ありがとうございます―」
二人が話している間にオスカーが戻って来た。手に何か封筒を持っている。エルフリーデに歩み寄ると、何も言わずにその手の中の封筒を彼女に突き出した。
「―何…?」
それは全く何の変哲もない公用の封筒で、口をくしゃくしゃと折りたたんで閉じている。少し真ん中が膨らんでいたため、皺になってしまっていた。
「開けてみろ、
それはあんたの物だ」
封筒の中には何か固いものが入っているのが手触りでわかった。封を開き、その中身を手のひらに出した。
ダイヤのパヴェのピンキーリングとネックレスがきらりと転がり出た。
「…どうして…?」
「あの男から取り返した。案外素直に寄越したことから察するに、あんたから物を取ることに抵抗感があったようだな」
それはあのロルフと言う男に、逃げ出す前に渡したものだった。オスカーに手出ししないことを約束させるために男に差し出したつもりだった。
まさか手元に戻るとは思っていなかったエルフリーデだったが、黙って封筒の中に戻した。
「あの男の人って抵抗して死んでしまったのでしょう…?」
オスカーは眉をひそめてエルフリーデが封筒の口をきれいに二重三重に折りたたむのを見ていた。
「おれがあいつと別れた時はぴんぴんしていたがな。もっとも、五体満足とは言いかねたが」
「閣下が思いっきり殴りつけましたからね」
上官の言葉を受けてレッケンドルフが言った。
「フロイライン、死んだ男から取りあげたわけではありませんよ。我々が逃げ出した時、奴らは拘束されてはいたものの、健康そのものでしたから」
エルフリーデは混乱して二人の軍人を交互に見た。エルフリーデの懸念がいずこにあるのかに気づいて、オスカーは頷いた。
「死人の手から奪いなどしない。やつらを拘束して、現場にようやくやって来た救助隊の隊長に生きたまま引き渡した。後日、このレッケンドルフが調べたのだが、あの兵どもは奴らを取り逃がした」
「…え…、まさか、だって抵抗して死…」
「兵たちは逃げた奴らの後ろから銃を乱射した。その場にいた人質に危害を与える可能性には考えが及ばなかったようだな。ロルフは即死だったそうだ」
オスカーたちが引き渡した時は生きていたのだ。レッケンドルフがエルフリーデの思考に同調するように頷いた。
「油断せずに虜にしていれば彼は今でも生きていたでしょう。恐らく、死んだほうがましだと言う思いをしたでしょうけどね」
フラウ・ライマンの改装中の執務室―。夫人は彼女に何も言わなかった。恐らく、そのむごい結末を言えなかったのだろう。
エルフリーデは再び、封筒から指輪を取り出し左手の小指にはめた。ネックレスはハンカチに包んで、ハンドバッグにしまった。
エルフリーデは左手を右手で覆って、指輪を撫でた。
「オスカー、ありがとう。指輪とネックレスを取り戻そうって思い出してくれて」
オスカーは肩をすくめた。
「戦場に行く前に借りは返しておく主義だ。最期の瞬間にさっぱりした気分で逝きたいからな」
「オスカー、そういうこと言わないで―」
困惑して、エルフリーデが両手を揉んで諫めた。二人の邪魔をしないようにという心遣いからか、花壇の花を見る振りをしていたレッケンドルフも口を挟んだ。
「閣下! お口にお気を付けください!」
「分かった、分かった。いい加減、もう行くぞ」
オスカーはエルフリーデの肩を軽く押すと、彼を待ち受ける衛兵と地上車に向かった。エルフリーデはオスカーの手が添えられた肩から意識を引きはがし、足元に注意を向けて彼と並んで歩いた。
「あんたはここまでタクシーで来たのか?」
「いいえ、家の地上車でお出かけ中だったのだけど、あなたが出征すると知って…」
「一人で来たのか」
エルフリーデが頷いた。オスカーは立ち止まり、眉をひそめてエルフリーデを見ていたが、副官に振り向いた。
「レッケンドルフ、フロイライン・フォン・コールラウシュを自宅までお送りしろ」
「はっ」
エルフリーデは慌てて両手を振った。
「…いいの…! 一人で帰れる…! だって家の地上車だし、危ないことなんてないんだから。レッケンドルフ大尉もお忙しいでしょう」
「閣下を―…。我々を安心させると思って、送らせてください。私のことは心配ありません。私が行くまで少しくらい出航はお待ちいただけますよね、閣下」
オスカーは腕組みして厳しい表情をして見せたが、すぐににやりと笑った。
「1時間くらいならな」
「今日出航するの…!?」
驚くエルフリーデに二人が頷いた。どうやら本当にぎりぎりのところでオスカーに会うことが出来たらしい。
「それならなおさら私のことは気にしないで。兵隊さんたちも待ってるし。ここで二人を見送るから…」
一生懸命に訴えるエルフリーデに、オスカーがすっと手を伸ばした。彼の細い指がエルフリーデの頬にかかったおくれ毛を彼女の耳に掛けた。冷たい指が頬に優しく触れ、エルフリーデのピンク色の耳介の上を撫でるように動いた。エルフリーデはびっくりして言葉の途中で目を見開いて静止した。
「これはなんだ?」
オスカーが彼女の耳の後ろを撫でた。オスカーが何を差して言っているのかに気づき、エルフリーデは真っ赤になった。
「…あっ、これ…! 馬鹿みたい、気づかなくて…!」
フラウ・ライマンの部屋で頭に飾ったカメリアのブーケをすっかり忘れてそのままにしていた。エルフリーデは両手で耳の後ろを探って、急いで頭からカメリアの花を外そうとしたが、ピンが引っ掛かって髪の毛がもつれるばかりだった。
「無理に取るな。ピンで止まっているだけだな―。動くな」
オスカーがエルフリーデの手をぴしりとはたいて、彼女の耳の後ろに手を伸ばした。エルフリーデは子供の頃に戻ったような気がして、両手を体の脇に浮かせたまま、困り切ってオスカーを見上げた。
オスカーが無造作にピンを外して、すっと頭が軽くなった。オスカーの手がエルフリーデの手を取って、その中に何本かピンを落とした。
手の中のピンから視線を上げると、白いカメリアの小さなブーケを手に持ったオスカーと目が合った。
「これはなんだ?」
オスカーがもう一度尋ねた。
「夏に咲く、カメリアの仲間ですって。この間のパーティーに付けていたのは寒い時季に咲く赤いカメリアだったけど、これは白いの―」
ふーん、と小さく唸るとオスカーは白いブーケを手に持ったまま、地上車に向かって歩き出した。
衛兵たちが敬礼する中地上車に乗り込むと、バタン、とドアが閉まった。地上車の中でオスカーは前を向いて座り、外の様子には一瞥も与えなかった。衛兵たちもバタバタと地上車に乗り、彼らを従えてオスカーは行ってしまった。
「我々も行きましょうか」
レッケンドルフが声をかけて、ようやく、エルフリーデは目が覚めたようにオスカーの副官を見た。コールラウシュ家の地上車の他にもう1台、地上車と衛兵が残っている。彼女を送ったらその足でまっすぐにオスカーの元へ戻るのだろう。
オスカーは一人、すでに戦場への道をたどっている。エルフリーデにはいずこで行われる戦なのか、その行く手に何があるかも分からなかった。
だが、彼の手にはエルフリーデが飾った白いカメリアがあることを、彼女は知っているのだった。


 

Ende
 

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