top of page

あかつきに咲く花

6、

 

兵たちが音をひそめて静かに学校の敷地を包囲した。建物の中に工作隊が侵入した。わずか数分の後に、人質を無事確保したという連絡が入った。
犯人たちのうち一人は人質を盾に激しく抵抗したため射殺、他の者は重傷を負ったが生きているとのことだった。
学校前に設営された作戦本部に人質とされていた婦人二人が丁重に連れてこられた。走り出して迎えたエルフリーデをフラウ・ライマンが抱き留めた。
「…フロイライン! これはいったい!?…。あなた、軍隊を連れて来たの…? まあ、あの状況でよくやったわね。あなたのお話をじっくり聞かなくてはね」
フラウ・ライマンの顔色は真っ青だったが助け出された興奮からか、エルフリーデを抱きしめ、さかんにまくし立てた。ケーラー男爵夫人は黙って体に巻き付けた毛布を握ってじっと座り込んでいる。
そこに少将の軍服を着た若い男がやって来た。
「あなた方を無事助けられてこれ以上の喜びはありません。犯人は全員捕えましたし、厳しい処罰をお約束しますので、どうかご安心を」
フラウ・ライマンが少し苛立ちの見える表情で若い男を見た。
「あなたの部下の強引なやり方のお陰で肝を冷やしました。私たちが無事だったのは本当に神様の定められためぐりあわせのお陰です。ところであなたは…?」
「私はフレーゲル少将と申します。こちらのフロイラインのいとこのフランツの友人で。ちょうど彼がこのフロイラインを保護した時、共におりましたので、こうやってあなた方を助けに来ることが出来たのです」
ケーラー男爵夫人が初めて顔を上げて、フレーゲルを期待に満ちた表情で見た。
「まあ、ではあのブラウンシュバイク公のご親戚の…? そのような立派な方に助けていただいて、私たちはなんて幸せなんでしょう」
その言葉にフレーゲルは胸を張って頷いた。フラウ・ライマンは腕組みしてケーラー男爵夫人を睨み付けていたが、フレーゲルに向き直った。
「ここは帝国の未来を担う、立派な子供たちが学ぶ学校です。私には子供たちを無事に守るという帝国に対する義務があります。どうか、早く学校を安全な場所にしてください。そして、私を早くひとりにしてください」
まくし立てられて、フレーゲルは不快そうに夫人を見ていたが、フラウ・ライマンの顔色が真っ青なのにようやく気づいた。
「もちろんです。ひとまず部下が安全な場所にお連れします」
「お願いしますわ。―もう倒れそう。フロイライン、どうか一緒にいて」
「ええ、ここにいますから大丈夫…」
エルフリーデはフラウ・ライマンの肩を抱いて、フレーゲルの部下が案内するテントの中に入り、ガタガタする椅子に夫人と共に一緒に座った。弱々しげだったフラウ・ライマンは部下がお茶を求めて立ち去った途端、元気な顔を上げてエルフリーデを見た。
「いったいなぜ、あんな立派な軍隊が出動することになったの? しかも、突入前に『きさまらは完全に包囲されている』なんて警告までして、そのせいで、あのこそ泥たちは自暴自棄になって、あなたの恋人は本当に殺されかけたわよ」
エルフリーデは激しく首を振った。
「私が口を出す暇もなかったの。私が少し説明しただけであのフレーゲルと言う人が全部自分でことを進めてしまって…」
エルフリーデは恐れつつも聞かずにはいられなかった。
「フラウ・ライマン、まさかオスカーは…」
「ロイエンタール様は無事よ。そもそも、彼がもう間一髪と言う時に拘束を解いて、そのおかげで私も助かって…」
「えっ?」
「本当に、『えっ!?』と思ったわよ…! ずっと縛られた振りをしていたのかしら…!」
フラウ・ライマンはタガが外れたように笑い出した。
「突然立ち上がってあの男たちをあれよあれよという間に殴り倒して、そ、そしたら、そこにあの部下の青年がやって来て…」
「レッケンドルフ大尉が? 大尉も無事だったの!?」
フラウ・ライマンは笑いを止められずに、涙を流しながら息も絶え絶えに言葉をつづけた。
「そうなの…、ぴんぴんして、どこかに、ひ、ひそんでいたのよ…! 『閣下、フレーゲル少将が軍を率いてやってきます』って、いったい、どこで軍隊が来るのを見ていたのかしらね…! それに、な、なぜ指揮官の名前まで分かったのかしら」
あははは、とついにフラウ・ライマンは大きな声で笑い出した。苦しそうに真っ赤になって涙を流しながら笑っている。フレーゲルの部下が驚いて手に水筒を持って現れた。
「落ち着いて! 大丈夫です…」
「だ、大丈夫に決まっているじゃないの…! だ、だって、こんなひどい目に会っても生きているんだから…!」
夫人は急にわあーっと子供のような声を上げて泣き出した。エルフリーデと部下がそれぞれ夫人の背中を撫でたり、水を飲ませたりして何とか慰めた。
軍医が鞄を持って慌ててテントに走り込んで来て、夫人に薬を処方した。
その日は学校に戻ることは出来なかった。フラウ・ライマンの家族が地上車で迎えに来た。エルフリーデも夫人やその家族から是非にと言われて、一緒に地上車に乗り込んだ。彼女も一人で帰りたくなかった。フラウ・ライマンの自宅で気持ちを落ち着けてから、おうちの方に迎えに来てもらいなさい、とフラウに強く言われた。
自分の家の安全なソファの上に腰を落ち着けて、ようやくフラウ・ライマンはエルフリーデに続きを話した。
「指揮官の名前を聞いて、ロイエンタール様はひどく怒っていたわよ。どうしてか知らないけど。部下のあの青年の話を聞いて、その後すぐに出て行ってしまったわ。あの指揮官と顔を合わせたくなかったのね」
フラウ・ライマンはじっとエルフリーデの顔を見つめてつづけた。
「彼は行ってしまう前に、あの男たちが私の学校に忍び込んだのは、ケーラー男爵夫人の手引きだろう、と言って夫人を糾弾したの」
エルフリーデは愕然としてフラウ・ライマンの真面目な表情を見た。
「だって、そんなことあり得るかしら。夫人だって危険な目に…」
「夫人が首謀者とは悟られずにロイエンタール様を痛めつける、ということだったらしいわ。でも、どこかで目的が逸れて、私の学校で金目のものを手に入れて、ついでに彼を痛めつける、と言うことになったようね」
「でも、どうしてオスカーを? 確かに夫人はオスカーが嫌いみたいだったけど、危険な人たちに声をかけるほどだなんて…」
フラウ・ライマンは頷いて、お茶のカップを両手で囲むようにして持ち上げた。温かい湯気の向こうに夫人の気づかわし気な表情が浮かんだ。
「ケーラー男爵夫人には姪御さんがいたんだけど、どうやらその方とロイエンタール様はかつてお付き合いしていたようなのね。私は以前のお二人ともを知っているけど、恋人同士だったとは知らずに…」
「オスカーを前からご存じだったの?」
エルフリーデが驚いて聞いたので、フラウ・ライマンは笑った。
「残念ながら直接の面識はなかったけれど、当時は社交界であの方を知らない娘はいなかったわよ。今はどうやら軍務で忙しくされているようで、パーティーなどではお会いするのも稀になったけど。近頃はあなたとお付き合いをしているのね」
お付き合いをしているとは言い切れないが、エルフリーデは説明するのももどかしく、フラウ・ライマンに続きを促した。
「ケーラー男爵夫人がロイエンタール様に喚き散らしていた内容から察するに、そのせいで重要な縁談が破談になりかけて、大変だったらしいの。つまり、姪御さんはロイエンタール様と別れたくなくて、いろいろあったらしいのね。それを言い含めて今のご主人と結婚させた。でも、姪御さんはあまり幸せではないらしいわ。それもこれも、ロイエンタール様が姪御さんを誑かしたからだって言うのよ。そりゃあ、一時でもあの方の恋人だったとしたら、別の男との結婚なんて最悪でしょうよ…」
そのせいもあって、ケーラー男爵夫人はトゥテラリィ協会の理事室でオスカーに再会した時から、彼に敵意を燃やしていたのだ。それが、もっと物理的に彼を痛めつけたいと言う願望に変わった…。
「お二人の様子を見ていて思ったのだけど、恐らく男爵夫人自身がロイエンタール様を…」
エルフリーデのぼんやりした表情を見て、フラウ・ライマンは言いかけてやめた。
「とにかく、急に体調が悪いと言って部屋に戻らせて、あまつさえ彼女は倒れて、ロイエンタール様が運ぶことになったでしょう…。そのうえ不用意に騒ぎ立てて(とあの時は思ったのだけど)、あの部下の青年の存在をあの男たちに知らせてしまった。―それにしても、あなたを逃がそうとロイエンタール様も頑張っていたわね」
「私を逃がそうと…?」
フラウ・ライマンは頬杖をついて小さく笑った。
「そうでしょうよ。男たちの興味があなたに行かないよう、さかんに挑発していたわね。お陰であんなに血だらけになって…。でも、私たちみんな無事で、すべて終わって良かったわ」
そこに女中が現れて、フロイラインの迎えの地上車が来たと伝えた。
「…エルフリーデ…!」
小柄でまるっこいヘル・フォン・コールラウシュがフラウ・ライマンの居間に駆け込んできて、娘を抱きしめた。
「おとうさま…!」
「まったく、何もなくて良かった…! 君が危険な目に合ったと聞いて、私はひどく恐ろしい思いをしたよ」
父は娘をしっかりと抱きしめた。父は小柄でお腹は出っ張ってたるんでおり、オスカーのように背が高くもなく、がっしりもしていない。だが、その手は十分大きく、エルフリーデにとってこれ以上温かく彼女をなぐさめてくれる存在はなかった。
父の腕の中で泣き出した娘の頭を優しく撫でて、コールラウシュはフラウ・ライマンに礼を言って帰途についた。

 

エルフリーデはその夜は彼女を心配して見守る2頭の愛犬に挟まれてぐっすり眠った。次の日、父の書斎に呼ばれて、いったい前日に何があったのかを話した。
エルフリーデは解放された後、自力でこの屋敷に戻ろうとした。だが、自分がどこにいるか、どのようにして帰ればいいのかも分からなかった。運の悪いことにタクシーは走っていなかった。しばらく通りを走って行くと、見覚えのある道に出て、それはオーディンの中心街に出る幹線道路の一つだった。ようやく、自分が自宅とはまったく違う方角におり、自宅に戻っていてはとても約束の時間に間に合わないと悟った。
「ちょうどその時、無人タクシーが通りかかったの。すぐ思いついたのが、フランツのフラットがこの近くにあるはずだってことだった」
「…フランツ…!」
父が唸るのを聞いて、エルフリーデは赤くなった。よりによって先日、嫌な目に合わされた相手に助けを求めることになってしまったのだ。だが、それ以前のフランツは親切で優しい幼馴染で、その記憶が彼女をフランツの元に走らせたのだった。
「フランツのフラットに行ってみたら、彼は部屋に何人かの友達と一緒にいて、私がひどい恰好をしているのを見て、とてもびっくりして心配してくれた。それで、トゥテラリィ協会のケーラー男爵夫人とフラウ・ライマンが人質になっていることを話したの」
エルフリーデの話は焦燥感に煽られてかなり分かりにくいものだったが、フランツは真剣に聞いて彼女の話が本当だと即座に理解した。同席していたフランツの友人がすぐにもご婦人方を救い出そう、と言って軍に掛け合ってくれたのだった。
「君のオスカーの話はしなかったのだね」
エルフリーデは頷いた。貴婦人が囚われているという方が、軍人が人質になっていると言うより通りがいいのは彼女にも分かった。その時はそこまでは考えず、フランツにオスカーの話をしたくなかったと言うだけだったのだが。
「オスカーはロイエンタールと言う名前なのよ。逃げる時に教えてくれた」
「…そうか、やはりね。君の想い人はあの容貌のせいで社交界ではつとに有名なんだよ。それで、フランツの友人が君たちご婦人方とロイエンタール中将を助け出したわけか」
エルフリーデは首を振って、フラウ・ライマンから聞いた話を父に伝えた。
ケーラー男爵夫人の企みについて父は驚いたようだったが、娘にはそのことで心配しないように、と言って安心させた。
「…それよりも、ロイエンタール中将は囚われの身を救われるのは名誉にかかわると思ったのかな。せっかく頑張った君のことを褒めて欲しかったな…」
「オスカーはミッターマイヤー中将と言う人を呼んで来い、と言ったの。なのに私はフランツに助けを求めて、彼の友人のフレーゲルという人が助けに行くことになってしまった。だから、きっと私のことを怒ってるんだと思う…」
エルフリーデは空っぽになった左手の小指を撫でた。彼女の指輪とネックレスはあのロルフに与えてしまった。男は激しく抵抗したため射殺されたと聞いた。彼女が助けを求めて走り出した時、あの男の運命は決してしまったのだろうか。彼女のせいであの男は死んだとも言えた。そのような相手から、指輪を取り返したいとは思わなかった。
「フレーゲル…!? フレーゲル男爵のことかい? フランツの友人とは…」
「少将と名乗っていたから爵位のことは分からないけど…」
父は首を激しく振った。
「なんてことだ、エルフリーデ。彼の父から話を聞いてはいたが、フランツは付き合うべきではない友人と付き合っている。しかも、ロイエンタール中将が逃げ出した意味が分かった」
「何か重大なわけがあるの…?」
ヘル・フォン・コールラウシュは娘の無邪気な顔を見て悲しそうに微笑んだ。
「そんな友人と付き合っているフランツが悪いんだ。フレーゲル男爵はブラウンシュバイク公の甥だ。ブラウンシュバイク公は君の大伯父様のリヒテンラーデ侯爵とはあまり仲が良くない、と言ったら分かるかな」
娘は眉をひそめて頷いた。
「そして、フレーゲル男爵とロイエンタール中将の上官、ローエングラム伯爵は有名な犬猿の仲だ。そんな相手をロイエンタール中将が快く思わないのも分かるだろう?」
ヘル・フォン・コールラウシュは娘の顔色が徐々に変わるのを見ていた。彼女を世間から守るため、これまで彼は娘に政治上の話をしたことがなかった。する必要があるとも思っていなかった。
「…私、オスカーが会いたくない人を連れて行ってしまったのね…」
「悪気があってのことじゃないんだ。ロイエンタール中将もそのことは分かっているだろう。気にすることはない。重要なのは君も彼も無事だったということだ」
父はそう言ったが、オスカーが誰であれ、会わずに逃げたことが気にかかった。彼があの時エルフリーデに告げた『ミッターマイヤー中将』という人は、危機の時に頼れる彼の大切な友人に違いなかった。
だが、エルフリーデはせっかくオスカーが彼女に託した信頼に、きちんと答えることが出来なかったのだ。

 

My Worksへ   前へ   次へ 

bottom of page