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あかつきに咲く花

3、

 

お茶の席で青年はレッケンドルフ大尉だと自己紹介した。それがいったいどういう役職か不明ながら、オスカーの副官という地位にいるらしい。ケーラー男爵夫人が今日の視察はないことをエルフリーデに伝えていなかったと知って、レッケンドルフ大尉は憤慨した。
コーヒーを飲みながらオスカーが鼻で笑った。
「こちらから今日の予定を知らせた時、だいぶむくれているようだった。前日にわざわざパーティーをキャンセルして、時間をかけて視察先の調査をしたのに、どうしてくれるなどと言ってな。自分がそうされた時にはひどい剣幕で怒っておきながら、自分以外の者の場合はどうかなど思いつきもしないのだろう」
「私はいつも水曜日には協会に来ているから。夫人もお忙しい方だし…」
鮮やかな色合いの人参のフランを疑わし気につつきながら、レッケンドルフが口を挟んだ。
「我々の視察に連れまわして、それでいてなんの労わりの言葉もない。あなたにひとこと言葉を掛けるくらい、時間が減るわけでもないでしょうし…」
「いや、あの夫人のような輩にとっては目下の者に気遣いの言葉を掛けるなど、時間の無駄でしかないのだ。一見、親切そうに見えるが、底のところでは他人に対する軽侮があるから、こういうちょっとした時に馬脚を現す」
エルフリーデはかぼちゃのクリームが乗ったガトーショコラにフォークを差した。おまえは誰それに馬鹿にされている、と言われていい気分のはずがない。オスカーこそ、もう少し優しい言い方をしてくれればいいのに。
黙って俯いているエルフリーデの気持ちを察したか、レッケンドルフが上官に向かって人差し指を振って言った。
「閣下、そんな言い方をして、フロイラインに失礼ですよ。夫人がフロイラインをないがしろにされるなら、閣下が代わりに労わって差し上げるといいでしょう」
オスカーがコーヒーから顔を上げて、その珍しい色違いの瞳でエルフリーデを見た。
「まあ、ご苦労だな」
澄まして軽い口調で言ったので、レッケンドルフが「閣下!」と呆れたように言った。二人の様子がおかしくてエルフリーデはくすくすと笑った。もし、このオスカーに面と向かって褒められでもしたら、赤面するどころの話ではなくなるだろう。泣き出して、立ち上がれなくなるかもしれない。
「ありがとう、オスカー。別に無理しなくてもいいから。気持ちだけで十分」
オスカーは肩をすくめて、再びコーヒーを一口飲んだ。エルフリーデも真似して紅茶を一口、口に含んだ。
温かい芳香が二人の間に漂って、エルフリーデはようやく突くだけだったトルテを食べる気になった。

 

エルフリーデが帰宅して自室で着替えているところに義母がやって来た。
「エルフリーデ、この頃ずいぶんとトゥテラリィ協会のお仕事に熱中しているのね。再来週のパーティーのドレスの準備を忘れているでしょう。自分でしっかり確認すると言ったのはあなたよ」
ジャケットを脱いだまま、ぼんやりとベッドに座っていたエルフリーデは義母の言葉に慌てて答えた。
「…忘れていないわ、お義母さま。今、確認する」
義母は疑わしそうな視線を隠しもしなかった。
「エルフリーデ、トゥテラリィ協会にあまり通いつめないでちょうだい。若い娘が何かに熱中し過ぎるのははしたないことだわ」
「だって…。トゥテラリィ協会のことはお義母さまのご紹介なのに、あまり行くべきじゃないってどういうこと?」
「行くなとは言っていませんよ。熱中し過ぎてはいけませんと言っているの。トゥテラリィ協会でどんなことをしているか、パーティーで男の方にお話しはしてはいけませんよ。みっともないから」
眉の間にしわを寄せて不快そうにする義母の様子に、エルフリーデは混乱した。
「だって…。もし私が協会に通っていることを知っている男の方がいて、そこで何をしているかと聞かれたら?」
オスカーを思いうかべながら義母に聞くと、義母は品を作って手で口を覆い、淑やかに笑った。
「『あら、取り立てて決まったことをするわけではありませんの。理事の奥様方のお申し付け通りにするだけです』、とでもおっしゃいなさい。それ以上のことは必要ありません。それで相手の方はあなたを優しい淑やかな女の子だと思うでしょう」
エルフリーデの脳裏にオスカーが鼻で盛大に笑う様子が浮かび上がった。パーティーで出会った男性に、トゥテラリィ協会での出来事を事細かに話し、『あなたもご一緒に活動に参加してみない?』と勧誘してみたら、どうなるだろう。
「でも、お義母さま、ケーラー男爵夫人はとても熱心に活動していらっしゃるわ。あの方は熱中していても問題ないの?」
「エルフリーデ、口答えはおやめなさい! あの方は未亡人になられて久しいし、年齢的にもトゥテラリィ協会の活動に参加されることは相応しいことです。あなたとはお立場が違います」
夫人の年齢が問題であるならば少しは分かる気がした。エルフリーデのような若い娘がこういった事柄に熱中していることを見せてはいけないらしい。
エルフリーデは義母の言葉に納得したわけではなかったが、追求し過ぎると義母に叱られるか、延々と講義を聞かされる羽目になる。
代わりにケーラー男爵夫人はどんな人か、義母に聞いてみた。人物批評―つまりゴシップ―なら義母はそれが淑女らしいたしなみかどうか、考えもせずに答える。それによると、夫人は実子がないまま若くして夫と死別したとのことだ。可愛がっていた姪が数年前に幸せな結婚をしてオーディンを離れて以来、トゥテラリィ協会や別の集まりで慈善に取り組むことで毎日を過ごしているらしい。
「その姪御さんは夫人がお世話をなさったということ?」
「そうですよ。綺麗で背の高い優雅なお姿のお嬢さんでね、とても盛大なパーティーを開かれて、それこそオーディン中の独身男性が集まったものでしたよ。大変幸運なことにさる年配の伯爵とご結婚されて、ケーラー男爵夫人もとても喜んでいらしたものですよ」
「年配の? お年が離れている方と?」
義母は頷いた。
「確か、50歳くらいの方だったか知らねえ。エルフリーデ、お気をつけなさい。同じ年頃の若者と結婚などしたら恥ずかしいことですよ。エルフリーデ、まさか、あのいとこのフランツのことを本気で考えているのではないでしょうね」
突然の義母の問いに目を剥いた。
「まさか、なぜ!」
「なら、良かったわ。フランツは男爵家の跡継ぎですけど、最近、良くない仲間と一緒にいると聞いて…。あなたなら、もっとしっかりした資産がある男性といくらでもおつきあい出来ますからね」
エルフリーデはふと、義母に聞いてみたくなった。
「10歳くらい年上なら? おうちは裕福だと思うけど、でも、爵位はない方なの」
「資産があっても爵位がない? そうねえ…。エルフリーデ、その方は何とおっしゃる方?」
自分が何を言ったか、その結果がどうなるかに気づいて、エルフリーデは急いで両手を振って義母に答えた。
「別に特に誰という訳ではないの! そういう方はどうなのかなと」
「10歳くらい年上なら、あなたのような若い娘にとってはちょうどいいお相手でしょうね。でも、エルフリーデ、多少お年を召していらしても、資産に余裕があって、さらに爵位がある方をあなたは望むことが出来るのよ。若い娘としては同じ年頃の男性を面白いと思うのは仕方がないわ。遊び相手としてならそれでもいいけど、でも、結婚はそういうものではないのよ」
エルフリーデは何も言うことが出来なかった。義母はいとこのフランツをエルフリーデの相手にしようとは、本気で考えたことはなかったのだと分かった。義母が考えているのは恐らく、ケーラー男爵夫人の姪の相手のように50歳くらいの、資産も爵位もある誰か。

 

エルフリーデはパーティー用のドレスと髪飾りをベッドの上に広げた。亡きおかあさまから譲られた、エナメルと模造石で作った小さな赤い花と白い花の髪飾り。一つ一つの花は直径5センチほどしかなく、それをいくつも髪に散りばめて飾るのだ。エルフリーデは自分で上質なシルクの赤い布地を手に入れ、それを髪飾りのイメージをそのままに花の形に形作り、白い布地のドレスに取り付けた。それは自分で想像した以上にドレスの光沢を引き立てた。髪にはいくつもの花飾りをちりばめて、シンプルな形のドレスには一つだけ大きな花飾りをつける。これを着てパーティーに行くのが待ち遠しくなった。来週、もし、同じパーティーにオスカーが来てくれたら…。
エルフリーデは先ほど義母から聞いた話についてもう一度考えた。義母が考えるような人物がそうたくさんいるとは思えない。エルフリーデにすらそれは分かる。だが義母なら思い通りにするかもしれない。最近、父はお役所の重要な地位に就いて、とても忙しそうにしている。それは義母が大伯父のリヒテンラーデ侯爵にお願いしたおかげだと義母自身が言っていたのだ。今度はエルフリーデの相手に良い人物を紹介してくれるよう、大伯父にお願いするかもしれない。あるいは、義母はもうそのお相手を選別済みで、後は大伯父がそのお相手に話をするだけ、というところまで行っているのかもしれない。
エルフリーデはこれで何回目か分からないが、オスカーはいったい何者なのだろうと考えた。あのレッケンドルフ大尉の上官であるからには、軍隊での地位は少佐以上であるのは確かだ。もう、名前が何であっても構わない。それより、彼自身がどんな人であるかが重要なのだ。
枕を抱いて、ベッドに倒れ込む。そして目をつむって、オスカーの姿を心に呼び起こし、その声の響きを再現した。
「エルフリーデ? 入ってもいいかな?」
「お父様…! ノックしてから入ってっていつも言ってるでしょう…!」
エルフリーデは慌てて起き上がって部屋にやって来た父親を見た。
ヘル・フォン・コールラウシュはぽっちゃりとした50代の小柄な男性で、頭部はフワフワとした白髪に覆われていた。それは若いころは色の薄い金髪だったが、近年ではまるで白い鳥の巣のように見えた。いつも笑みを絶やさぬ人のよさそうな表情は若々しく、彼の緩んだ体型と乱れた頭髪により、ますます子供じみた印象を与えた。
「ごめんよ。君とお話したいなあと思ったら居ても立っても居られずに、飛び込んでしまった。―ああ、この髪飾り、今度のパーティーで着けるのかい?」
父が嬉しそうにベッドの上に置かれたドレスと髪飾りを指さしてにっこりしたので、エルフリーデも微笑んだ。
「そうなの。おかあさまのこの髪飾りとぴったり合うドレスが欲しいと思って。ほら、このシルクの花の飾りは自分で作ったのよ」
「すごいねえ、エルフリーデは。やっぱりお母さんの娘だねえ。このドレスも形はシンプルだけど、織りのある生地がいいニュアンスを出しているねえ。そうだ、ちょっと待っていて―」
父はエルフリーデにウインクをすると、ばたばたと小走りして部屋を出て行った。やがて戻って来ると、今度はその手に小さな箱を持っていた。
「ほら、これを見てごらん。私のお気に入りのブローチだよ」
それは小さく、白いエナメルの中央にさらに小さなダイアモンドを散りばめたものだった。ブローチのデザインはエルフリーデの白い花の髪飾りとそっくりな意匠だ。父は幅広のシルクのネッククロスを何重にも首に巻いてその裾をベストの中に粋な感じに入れ込んでいたが、ささっと洒落者らしい手練の技でブローチが引き立つように巻きなおした。胸の中央に小さく輝く白い花は父を余計に可愛らしく見せた。
「綺麗ね、お父様。今までこのブローチをしていらっしゃるところを見たことがなかったわ」
「ほら、これは君のお母さまが私のために作ってくれたものだからね。大事に取っておいてある」
そう言って、父は部屋の外を悪戯そうに見てウインクした。さすがにこの父にも義母に対する遠慮があるらしい。
「この髪飾りの一つが少し壊れてしまったのだが、それに君のお母さまが綺麗なダイヤの飾りや、留め金を付けて、私にプレゼントしてくれたんだ。素敵だと思わないかい?」
娘が嬉しそうに頷くのを見て、ヘル・フォン・コールラウシュもくすくすと笑った。
「でも、これはとても綺麗なのに、もう着けていただけないのは残念だわ」
「そうだね…。お役所に行くときにこっそり着けようかな。実はね、これは君が結婚したらお婿さんに譲ろうかと思って、それもあってしまってあったんだ。―それで思い出したが、エルフリーデ、誰か好きな人でもいるのかい?」
優しい父にさりげない口調で唐突に聞かれて、エルフリーデは真っ赤になってしまった。これでは黙っていたくても、すべて白状してしまったも同じだった。
父もまた、白くてたるんだ頬の肉を赤く染めて、「そうか―」と言った。
「お義母さんが心配していてね。それで私もちょっと知りたいなあと思って…」
エルフリーデが誰かを好きなのではないかと義母は疑っていたのだ。先ほどの会話から察したに違いない。エルフリーデが打ち明けることはないだろうと義母は知っている。そこでエルフリーデに直接聞くように父をせっついたのだ。
父に言えば、義母もすぐに知るところとなるだろう。父に沈黙を要求しても10分と持たないことをエルフリーデは知っていた。強く問いただされると黙っていることが出来ないたちなのだ。だが、エルフリーデが本当にオスカーを欲しいのであれば、義母にもいずれ話さなくてはならない。父を見ると、エルフリーデを励ますようににっこりして、何度も頷いた。
エルフリーデは父に話した。
少なくとも、娘が父親に話せる程度に端折って、彼女がオスカーについて知る事実を話した。あるパーティーで出会ったこと。フランツが乱暴をしたときに(父はそれをなぜ打ち明けなかったのかと言って真っ赤になって怒った―「もう、フランツと会ってはいけないよ。父の男爵も、最近、フランツが付き合うべきではない仲間と付き合うようになって、困り果てていた」)、彼女を助けてくれたこと。トゥテラリィ協会で偶然再会して、会って話をすることがとても待ち遠しく、嬉しいこと。彼も彼女をケーラー男爵夫人から庇って、彼女の話を真面目に聞いてくれること…。
オスカーの名前と、彼がローエングラム元帥の部下の軍人であること、左右の瞳の色が違うことを聞くと、父は唸った。
「エルフリーデ、どうやら私は君が言うそのオスカーが誰だか、分かった気がする」
娘の顔が驚くほど輝きを増したのを見て、ヘル・フォン・コールラウシュは彼らしくなく、眉根を寄せた。エルフリーデが本当にこのオスカー某なる男を好きなのだと、娘の心の動きに敏感とは言えない父親にもさすがに分かったのだった。
「君のこのオスカーが君に対してとても紳士的で親切なのは確かだね。エルフリーデ、私は何も保証はしないが、君の望みを叶えることが出来るかやってみよう」
「私の望み…?」
「君はこのオスカーと結婚したいのだろう?」
娘は母親譲りの白い頬を可愛らしく染めて首を傾げた。
「私、分からない…。だって、会ったばかりでどんな人かも良く分からないのに…。でも、もっとお話したい。どんな人か知りたい、それだけ」
父はなぜか寂しそうに微笑んだ。それは娘の母が望む結婚の理由ではないだろう。だが、女が男を手に入れたいと思う理由としては十分だった。その結婚が娘に相応しいかどうかを決めるのは娘自身ではない。それは親の役割なのだ。
ヘル・フォン・コールラウシュはこのオスカー某は彼が思うとおりの人物に違いないと確信していた。この男は隠しようがないあまりに特徴的な容貌をしている。とすると、この男の結婚は政治的に重要視される可能性がある。問題はこの男の上官とコールラウシュ自身の縁戚であり庇護者である、リヒテンラーデ侯爵との関係が今後、どのように転ぶか分からないということにあるのだ。
上手く持ち掛ければ、娘とこの男の結婚をリヒテンラーデ侯爵とかの元帥との間の架け橋とさせることが出来るかもしれない。
「エルフリーデ、君が幸せになれるよう、私は精いっぱいのことをするよ。だから、君は焦って軽率な真似をしてはいけないよ」
エルフリーデは軽率な真似をすでにしてしまったことを自覚していた。だが今はもう、笑顔以外の表情は忘れてしまった。父がとても好きだと思った。

 

 

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