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あかつきに咲く花

2、

 

次の週、約束の時間ちょうどにオスカーは先週と同じ部下を伴ってやって来た。ともかくこれから毎週彼と会うことが出来る。直接話すことが出来なくても、夫人が側にいれば、誰に咎められることなく彼の隣を歩くことが出来るのだ。
夫人は怒っていた。前日オスカーの部下から希望の視察先のリストが送られてきたが、そのうちどの施設を視察するかの連絡がなかったのだ。それであれば夫人の方から連絡を取ればいいようなものだが、困るのはオスカー達の方だと思って放置していたものらしい。
「これでは前もって確認することもできないではありませんか…! 視察先でもお客様を受け入れるための準備があります」
夫人の言葉にオスカーと部下は、ちらりと目を見合わせた。オスカーがあくまで落ち着いた声で言う。
「先日のように根回しをされては本当のところを見ることは出来ない。抜き打ちで訪れて支援先での実態を確認したいのです」
「抜き打ち…!? あなたは私どもが選んだ施設を信用していないのですか…!?」
「ありていに言えばそうです。僅かな金額という訳ではないのだから、寄付を受けるにふさわしいかどうか確認するのは当然でしょう」
蔑むような視線で夫人はオスカーを見上げた。
「寄付をした以上、お金の使い道まで詮索しません。ちゃんとした使い道を弁えているはずですもの」
「あなたがそう思われるのは結構。しかし、私は元帥閣下への任務を全うするために、私が必要と思う方法を取るつもりです」
そしてリストの中から2、3の施設を今日の行く先として示した。
協会の車寄せに帝国軍の仕様らしい地上車を見つけて、夫人が不審そうにオスカーに言った。
「協会から地上車を借りておりますが」
オスカーが扉を開けて夫人に向かってお辞儀した。
「どうぞご遠慮なくお乗りください」
扉を開けて待つオスカーの視線を感じつつ、エルフリーデも夫人の後に続いて地上車に乗った。
最初の施設は民間経営の寄宿学校だった。入り口のところでインターフォンに向かって、オスカーの部下が「今朝ほどご連絡した者です」と言ったので、夫人は厳しい目つきをしてオスカーに振り返った。夫人の案内を待つまでもなく、オスカーとその部下がすべて自分たちで手配してしまっているのは明らかだった。
緊張気味の校長と教師の案内を受けつつ施設内を見て回った。
この時間は教室に行って不在の子供たちの部屋を見ている時、ふとすぐ近くに彼の存在を感じた。エルフリーデが顔を上げると彼と目が合った。
「それは?」
エルフリーデが手に持っているものを指して言った。
彼が声をかけてくれたことが嬉しくて、夫人の言いつけも忘れて答えた。
「この子の机の上にあったの。この子のお父さんと、お母さん、小さい妹か弟と一緒の写真ね」
それは幸せそうな一家の写真だった。軍人の逞しい父親と、赤ちゃんを抱いた優しそうな母親、その間に挟まれた誇らしげな表情の少年。きっと今ではこの赤ちゃんも大きくなっていることだろう。そして、その子の父親はもうすでに亡いのだ。
エルフリーデはふと気づいて、父親の軍服を見た。オスカーに出会ってから、彼女は軍人の服装に敏感になっていた。未だに軍服の徽章や勲章の意味がよく分からないのだが…。
「オスカー、あなたの軍での階級は何?」
オスカーは片方の眉を上げてエルフリーデを見下ろした。
「何故そんなことを聞く? 軍に興味でもあるのか?」
―私が興味があるのはあなたのこと。
だが、オスカーの皮肉めいた口調と表情の前では口に出しては言うことが出来なかった。
「…少しだけ。だって、このお父さんは一般の兵士ではないのじゃないかしら。わりと立派な軍服を着ているから…。私も協会に参加して日が浅いのだけど、協会が支援するのは一般兵士の遺族だったはずだと思って」
オスカーはエルフリーデの手から写真立てを受け取ると、じっとその写真を見つめた。
「この男は中尉だな。士官の遺族には十分とは言えずとも寡婦年金など軍からの支援がすでにある。受給者の実態が協会の趣旨といささか違うようだな」
オスカーが鼻で笑って写真立てをエルフリーデの手に返した。腕組みして部屋の中を改めて見回している。何か他に落ち度でもないかと探しているかのようだ。
エルフリーデは慌てて言った。
「まさか、この子の資格を取り消させるようなことしないわよね。きっと、協会か、この学校の規則に何か手違いがあっただけだと思う」
オスカーは肩をすくめた。
「そんなことはしない。おれにそんな告発をする権利があるとも思えん。だが、この少年が受給したことで、真に資格のある者が寄付金を受けることが出来ずにいたかもしれない」
エルフリーデは心臓がしんと静まる思いがした。
「でも、分からない。そんなこと…」
「この帝国ではどこでもあることだ。一家全員で働いてようやく毎日の暮らしが成り立つ貧しい家庭から、徴兵により父親が兵士に取られてしまう。そうすると危ういバランスで保たれていた一家の家計は崩壊してしまう。父親が帰ってくるまではと、何とか遣り繰りをするが、結局父親はどことも知れぬ戦場で戦死してしまう。そうなったら、どうにもならない。一家離散だ」
父親がいなくなっただけでそんな風になってしまうのかどうか、エルフリーデには分からなかった。
「…でも、銀行に行けば…」
「銀行?」
鋭い口調に、開いていた口を閉じて、エルフリーデは首を振った。
「何でもないの」
眉をひそめて彼女を見るオスカーの肩越しに、ケーラー男爵夫人の姿が見えた。こめかみに怒りの筋が見える。
「フロイライン・フォン・コールラウシュ、こちらへ来なさい」
オスカー達とはしばらく一緒に過ごさなくてはならないのに、夫人はエルフリーデを彼に紹介もしない。それでいて、話をしたら叱られるなど納得しがたいことだった。しかし、そう思いながら、オスカーの鋭い視線から逃げられてよかった、夫人のお陰だ、と感じるのは我ながら情けないことだった。彼は時々人を怖がらせるところがある。

その後、夫人は保護者としての立場を思い出したかのように、エルフリーデの脇にぴったりとくっついて彼女を一人にさせなかった。オスカーもあえて彼女に声をかける必要性を感じないようだった。寄宿学校の教師たちに様々な質問をして、相手に冷や汗をかかせていた。
視察から協会に帰るとケーラー男爵夫人は軍人たちには冷ややかに挨拶をして、前回と同様、エルフリーデを引っ張って協会の奥に引っ込んだ。協会のキッチンで進行中のスープづくりのグループの中にエルフリーデを預けると、夫人は何も言わずに行ってしまった。エルフリーデは料理の仕方を知らず、今までこのグループに参加したことがないので困ってしまった。スープづくりのグループのご婦人方や令嬢たちもびっくりしている。
「あの…ちょっと失礼…」
キッチンから後ずさりつつ抜け出し、ご婦人たちの目からすっかり隠れると、足早に廊下を歩いて玄関まで行った。もう、彼らは行ってしまったかもしれないが…。
近道をするつもりで渡り廊下から庭に出て、表門に向かったつもりだったが、途中で垣根に阻まれた。庭から直接、表まで行けないようだ。仕方なしに、急いで元の廊下へ戻ろうとして、人声を聞いた。
「…何も知らない若い娘に関わるのはおやめなさい」
「私が頼んだことではない。同行させなければいいでしょう」
どうやら垣根の向こうにケーラー男爵夫人とオスカーがいるのは明らかだった。エルフリーデは踵を返して、足音静かに垣根から離れようとした。
「経験を積むためにも同行させなさいという理事会のお申し付けです。あの子のことは放っておおきなさい。あなたは元帥閣下のお言いつけ通り、さっさと視察だけ済ませてしまえばいいんです」
オスカーが鼻で笑ったので、彼の皮肉をひそめた笑顔が見えるようだった。
「経験ね…。あれであの娘も口を開くとなかなか面白い意見を言う。あなたも聞いてみたらどうです」
「エルフリーデはいい子だけれど、まだ子供です。どこかで聞きかじった言葉を言っているのでしょう。そんな無垢な娘に恥をかかせるようなことはやめて、放っておきなさい」
廊下に戻りかけていたエルフリーデは夫人の言葉に立ち止まった。彼女自身、自分が世慣れた知性豊かな女性だとは思っていない。だが、エルフリーデを良く知りもせずに彼女を馬鹿にするとは、あまりではないか。しかも、オスカーに向かってそのようなことを言うとは…。
「あの娘は世間知らずではあっても自分の頭で考えた意見を率直に言う。世間で流行りの言葉をそのまま受け売りして、それが自分の意見だと思っているご婦人方よりよっぽど上等ですな」
「まあ! あなたの言葉は誰か特定のご婦人を指して言っているかのようです。失礼ではありませんか」
「そうですか?」
ふいに廊下の向こうのキッチンから人々の話声が聞こえて、エルフリーデははっとしてその場から立ち去った。小走りに走って、そのまま、表門から通りへ出てしまった。
オスカーの声音が頭の中に響いて、何度もその言葉を繰り返した。それは彼女を子供扱いした言葉には違いない。だが、彼はエルフリーデを蔑むケーラー男爵夫人から彼女を弁護してくれたのだった。

 

次の週の水曜日、エルフリーデは再びオスカーに会うことに対して、ある種の畏怖を覚えつつ協会の建物に入って行った。彼が何をエルフリーデに話して、そして彼女がオスカーに何を答えるか。その結果が恐ろしくもあり、楽しみでもあった。
だが、その日はいつまでたっても縫物のサークルが集う広間にエルフリーデを呼びに来る人はいなかった。聞けば、今日はケーラー男爵夫人も来ていないとのことだった。
夫人がいないということは、オスカーも来ないのだろうか。それならば、夫人が連絡をくれても良さそうなものだが、協会の婦人達は誰も、何故、今日は夫人が来ていないのか知らないのだった。
その日の縫物が終わり、裁縫箱を片付けてエルフリーデは協会の建物を出た。予定より少し早いので迎えの地上車はまだ来ていない。到着するまで周辺を散歩しようと門を出た。
塀に沿って歩いて行くと、車道の駐車区域に地上車が停まっており、そこからオスカーの部下の青年が降り立った。エルフリーデを見て、にこりとして彼女の方にやって来た。
「ごきげんよう。これからお帰りですか」
「ごきげんよう。少しお散歩してから帰ります。―あなた方は今日も協会においでだったのですか」
青年は首をかしげてエルフリーデを見た。
「ええ、夫人に今日はいつもの視察はお休み、とお伝えしておりましたが…。先ほどまで事務室で協会の活動に関する決算書など、お金の書類を拝見していました」
「そうだったんですね…」
夫人からそのような話は聞いていなかった。おそらく、エルフリーデに連絡することを忘れてしまったのだろう。だが、忘れられたことが恥ずかしく、エルフリーデは口をつぐんだ。
青年は気を取り直したように、言葉を継いだ。
「お宅までお送りしましょう。それとも…、ご一緒にお茶でもいかがですか。閣下も私も酷い帳簿を見せられ…、いや、まあつまり疲れてしまいました。きっと閣下も、フロイラインと楽しいお茶を飲んだら疲れも吹き飛びます」
「オスカーもご一緒なの?」
エルフリーデが青年の後ろの地上車をのぞき込むようにしてみたので、青年が頷いた。
「これからちょうど帰ろうとしていたところで、あなたの姿が見えたものだから、急いで下りて来たのです。マンダリンホテルにある、最近話題になっているカフェでお茶とトルテでもいかがでしょう」
「マンダリンホテルの。それはもしかして、『四姉妹』のカフェですか」
「そうです、さすがよくご存じですね。野菜を使ったトルテとかで、若い女性にたいへん人気があるとか」
青年が笑ったので、エルフリーデも笑った。
「野菜のトルテなんて、美味しいんですか? なんだか、サラダみたいなものでも食べさせられそうだ」
「美味しいですよ。男性のお口に合うか分かりませんけど、私は好きです」
青年の胸元から、端末のビジフォンの着信を知らせる、鐘のような音がした。青年はエルフリーデに「失礼」、と断ってからビジフォンに出た。彼がやって来た地上車の方に振り返り、相手に「ヤー、ヤー、ヤー…」と言っている。
青年は端末をしまうと、エルフリーデに片手を差し出した。
「喉が渇いたから早くしろと閣下がご催促です。行きましょう。話題のサラダのトルテをご馳走します」
「お野菜を生のままじゃないですよ。ペーストにして生地に練り込んでいるんです。きっと召し上がったら美味しいって思いますよ」
「ではぜひ、挑戦して見なくては」
青年の腕に軽く手を乗せて、エルフリーデは彼らを待つ地上車に向かった。

 

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