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子供の遊び 2

店の外へ出たつもりだったが、そこはきれいな絵や置物が置かれた分厚い絨毯がひかれた廊下で、すぐそこに化粧室があった。だが、エルフリーデは足がもつれて化粧室にはたどり着けず、廊下の壁にもたれかかった。震える手で口元を押さえて浅く早い呼吸を繰り返す。心の中では―バカ、バカ、バカ…と、誰にともなく繰り返していた。
「おい、大丈夫か」
エルフリーデはぎょっとし、次いでキッとなって彼に振り向いた。
「…どうして…! 見ていたなら助けてくれてもよかったじゃない…! 大丈夫かなんて今更…」
とたんに口元が震え、涙があふれた。止めることもできずに、エルフリーデは両手で口を押えて嗚咽をこらえた。
とどまることを知らない涙で塞がれた目を必死でつむっていたため、実際には見ていないが、彼が途方に暮れているのが気配でわかった。
「ひ、ひ、ひどい…、ただ見てたなんて…、男なんてみんなバカ…」
「…何か手助けする暇もなかったではないか。あっと思ったら、すぐ手が出た」
「フ、フランツが近づいた時に、すぐ…! すぐに来てくれればよかったのに…! そしたら私、自分で戦わなくてすんだのに…」
彼はその言葉に苦笑した。
「戦ったか…。おれは別にあんたの騎士ではないからな、言っておくが」
それでも彼はエルフリーデの握りしめられた手にハンカチを押し込んだ。そのハンカチは記憶にあった彼の香りを忍ばせていた。ハンカチで顔を覆ってその香りに包まれ、ようやく気持ちが落ち着いた。
「…ありがとう」
彼が肩をすくめたのがわかった。ハンカチの中にため息をつく。
「…どうしよう。帰りたいけど、フランツとはもう会いたくない。まだあの席にいた?」
「いるだろうな。少し待て」
彼は店の中に入って行ったが、じきに廊下に戻って来た。
「あんたの連れは酔っぱらって管を巻いている。あちらから出ない方がいいだろう」
「だって、あっちに外へ出る扉があるのに…」
「店の者と話をつけてある。従業員用のリフトが廊下の先にあるそうだ。そこから出ることが出来る」
彼はエルフリーデの手を取ると、廊下を歩き出した。涙の海の中で彼を見上げると、はっとするような明るい青い瞳がそのすっきりとした横顔に見えた。
「…ありがとう」
もう一度言うと、感謝の気持ちが胸に迫って、また涙があふれた。涙が視界を遮りまっすぐ歩くこともできない。縋るようにして彼の手をしっかり握った。
彼がため息をつく。
「もう泣くな」
握った手を引き寄せ、彼女がまっすぐ歩けるように腕を取った。エルフリーデは見る役割を彼にすっかり任せてしまい、ハンカチに顔をうずめて、涙に浸った。
彼の先導に従って立ち止まり、リフトに乗って下に降りていく。降りた先は数歩歩いてすぐ外への出口だった。彼が扉を開けると、エルフリーデは夜の冷気に震えた。春とはいえ夜はまだ肌寒い。そういえば店の中に毛皮のケープを置いてきてしまったのだ。だが、あそこに取りに戻ることは出来ない。
「タクシーを呼ぶ。ここで待っていろ」
彼はそういうとエルフリーデの肩に自分のジャケットを無造作に掛け、車道の方へ歩いて行った。気温の低さと、ショックのせいで冷えていた体が暖かさに包まれた。
昼間、家を出たときはいつも通り屈託ない楽しい外出になると思っていた。映画を見た後、帰ればよかった。いや、今思えば先ほどのレストランですでにおかしな兆候はあった。あの時、思い切って一人で帰るべきだったのだ。だが…。
「エルフリーデ!」
はっとしてエルフリーデは自分を呼んだ人の方に顔を向けた。彼が車道のタクシーの脇に立って、腕組みしている。そういえば彼女が考え込んでいた間、「おい、おい!」という呼び声がしていたようだった。どうやら彼はしばらく彼女を呼んでいたらしい。
彼女は彼が立つところへ小走りに近づいた。彼の自分を呼ぶ声が耳に残り、胸がひどくとどろいていた。彼が自分の名前を呼んだのは初めてだった。
彼はエルフリーデをタクシーの後部席に座らせると、自分も隣に乗り込んだ。タクシーはすぐに走り出した。
静かにオーディンのネオンの海の中を自動運転の無人タクシーがすすむ。エルフリーデは彼の方へ視線を向けた。
「どこへ向かってるの」
「…少し気分を落ち着けてから自宅へ帰る方がいいだろう。しばらく流してからあんたの家へ向かうがそれでいいか」
言われてエルフリーデは大きくため息をついた。今は涙は止まっていたが、まだ嗚咽が横隔膜を震わせて、いつでも機会があれば涙が出そうだった。
「そうね…。ありがとう、オスカー」
彼は窓の方に頬杖をついてもたれかかっていたが、少しだけ顔を彼女の方へ向けた。
「名乗った覚えはないが」
「だって聞いて知ってたから。あなたの方こそ、私の名前を知っているでしょう」
「おれの名前を誰に聞いた。あんたのあのご立派な母親か」
なぜだか彼は怒っているように聞こえた。まるで義母と自分が仲良く彼の噂話をしたとでもいうかのようだ。
「違うわ。お義母さまは紹介されていない男の人の名前を知ろうとしてはいけませんて、教えてくれなかった。あのパーティーの夜、あなたと一緒だった女の方があなたを『オスカー』って呼んでいたじゃない」
彼はしばらく黙っていたがやがて呟くように言った。
「あんたの母親は賢明だな。そんな状況で知ったというのならば、尚更、あんたもおれの名前など知らないふりをした方がいいだろう」
「そんな状況って…。あの時いったいあの女の方に何をしていたの。それに知らないふりをした方がいいってどういうこと?」
オーディンの繁華街を通り抜ける地上車の中は暗かったが、窓から外のネオンの明かりがさしていた。彼のその呆れたような表情がはっきり見える。
「分からんのなら説明する気はない。あんたの母親が言うように、正式に紹介されないうちは他人のつもりでいる方がいいだろう」
「でも、もう知ってしまったのに知らないふりをするのはおかしい。それに最近はそういうことにはこだわらないのよ。自分たちで紹介しあえばいいでしょう。私はエルフリーデ・フォン・コールラウシュ。よろしくね。あなたはオスカー・フォン…?」
エルフリーデの女学生風の自己紹介に、彼は乗らなかった。先ほどと同じように窓枠に頬杖をついて彼女の方を見ている。その呆れたような表情は、彼女を面白がっているようにも見えた。
「あんたはいかにも能天気な貴族の無邪気さかと思えば、違うやり方も知っているのだな。その自主性でさっきの男もさっさと振ればよかっただろうに」
彼が自分のことを話したがらず、わざと話題を変えたのははっきりしていた。エルフリーデは彼の最初のほうの言葉は理解できなかったが、後の方は気にしていたことだっただけに言葉に詰まった。
「それは…。でも、フランツは親戚だし男爵の息子だから、おかしなことをするとは思わなかった。私、信用してたの」
「あんたのはただ人を見る目がなかったということだろう。男爵だろうが公爵だろうが、男が考えることは皆同じだ」
「変だなとは思ってたのよ。さっきのレストランでも無理な注文をしようとしていたし。私に相談もしてくれない人だったなんて、いい兆候じゃないもの。早めに見極めてあの時帰ればよかったのかもしれない」
「相談?」
そこで、エルフリーデは彼にレストランで何があったか話した。彼女はメニューについて彼と一緒に相談したり、考えたりしたかった。そうやって決めるものだと思っていたのに、彼が自分の希望だけで事を進めようとしたので、彼はそうは思わないらしいと気づいてびっくりしたのだ。
「シーシュルトクルーテとやらを食べたいならそれでもよかったのだけど、それなら、私にも興味があるか聞いてくれてもよかった。結局その後、フランツはご機嫌ななめでお酒を飲んでばかりで、せっかくのお料理も楽しんでいなかったみたい。私も早く帰りたかった。デザートを食べずに帰ろうかと思ったくらい」
「…おそらくもっと世慣れた女なら、その時点で帰っただろうな」
「でも私が途中で帰ったら、お店の人が自分たちがよくなかったのだと思ったかもしれないでしょう」
彼は相変わらず窓に頬杖をついてこちらを見ていた。外を流れるネオンが逆光になって彼の表情はよく見えなかったが、急にその手で目を覆ってから自分の顔を撫でた。口の中で「なぜおれがこんな助言を…」などとつぶやいてエルフリーデに向かって言った。
「その店の者はあんたの話から察するに、困っているあんたの味方になってくれただろう。そうだな…。化粧室に立つふりをして店の者を呼んで、そこまで案内させるんだ。そして男には聞こえないところで、実は具合が悪くなったから帰りたい、男にはうまく言っておいてほしいと言えばいい」
「それじゃああんまりお店の人に迷惑ではない?」
「彼らは客のために便宜を図るのが仕事なんだ。少なくともあんたが一人で考え込むよりましな、何かいい知恵を出してくれただろうことは疑いない」
エルフリーデはなるほどと思いながらも、そんな風にできるかどうか、自信がなかった。同じ状況になることが今後あるかどうか分からないが、彼が言いたいのは周りのものを上手く味方につけろ、と言うことではないだろうか。
「きっとあなたのあの女性なら、そんな風に、しかも洗練された態度でできたでしょうね。私は練習が必要みたい。あんな目にはまた会いたくないけれど、もし次があったらもっと上手に立ち回る」
そこで彼女は気づいて、彼に振り返った。
「今夜一緒だった女性はあのパーティーの女性? なんだか、違う気がするけど…」
彼はしばらく黙っていたが、やがて「おそらく違うだろう」と言った。分からないはずがないのに『おそらく』などと、おかしなことを言う。エルフリーデはネオンを背にした彼の横顔をじっと見た。
「今夜のあの女性…。あの人、泣いていた。もしかして…、聞くべきではないだろうけど…。あの人と別れたの?」
彼は何も言わずに、彼女の方へ目を向ける。それはあのカウンターに座ってアルコールを飲んでいた、あの時の落ち着き払った様子を思い出させた。エルフリーデはなんとなく胸が悪くなる思いがした。
「あの人、素敵な女性だった。泣いているみたいなのにきれいな笑顔だった。優しくて思いやりがありそうな、でも一緒にいたら楽しい人なんじゃないかしら。だって、表情がはっきりしていて活発そうな雰囲気だったから」
「…確かに生き生きした表情がきれいな女だった」
「それなのに、振ってしまったのね。そうでしょう。だって、あの人の笑顔と涙、まだあなたを愛しているって言ってたもの」
彼は鼻で笑った。頬杖をついていた手を下して、相変わらず窓枠に寄り掛かったまま両腕を組み、彼女の方へ向き直った。
「素敵な女性だとか、優しくて思いやりがある、だったか? 活発だの、まだ愛しているだとか、知りもしないことをよくまあ、分かっているかのように言えるものだ」
「あの女性の性格は違うかもしれないけど、私の目で見たことは判断できるもの。まだ彼女は愛しているのに、あなたはもう会ってくれない」
なぜだかエルフリーデは泣きたくなってきた。先ほどフランツから受けた衝撃による動揺が、別の形に姿を変えて彼女の心理を揺さぶった。腕組みをしてこちらを見ている彼の、陰になってよく見えない目のあたりを見つめた。彼の目がもっとよく見えれば、今、彼が何を考えているか判断できるだろうに。
「もっと、もっとずっと一緒にいたい。でももう決して会ってはいけない…。あなたを愛しているのに…」
その言葉は二人の間で宙ぶらりんに浮いて、漂うかのように思えた。
彼と別れる時に見せたあの女性の健気な笑顔と涙が、まるで自分に乗り移ったかのようだった。エルフリーデの目にも、あの女性と同じように涙が浮かんだ。ただ、彼女は笑顔をつくることはせず、ぼんやりとして彼の目を見つめていた。
明かりがないため見えないはずだが、彼もエルフリーデの目を見つめているようだった。やがて彼が組んでいた腕をほどいて言った。
「それほどの洞察力があるならば、おれがどういう男か分かるのではないか? 先ほど、次は上手に立ち回ると言っていただろう。今こそ、そのようにするべきだと思うが」
「…何…? どういう…」
「つまり、こういうことだ」
彼はエルフリーデとの距離を詰めると彼女の手を取り、自分の方へ引き寄せた。二人の状況は先ほどエルフリーデがフランツに迫られた、その時と似ていた。だが、彼女は驚きに心臓をわしづかみにされて、身動きすることさえできなかった。彼が彼女の耳に近づきささやいた時その唇が耳朶に触れて、エルフリーデの身体は震えた。
「なぜおれについてきた。あの店でおれには感謝だけ示して、後は給仕にでも地上車を呼ばせて一人でさっさと帰ればよかったのだ。だからそうしろと言っただろう…?」
それはさっき聞いたばかりのアドバイスで、あの店では思いつきもしなかった―。エルフリーデの頭の中のどこかでそのように言う自分がいたが、それは言葉にならなかった。
彼の暖かい息が自分の顔の前に降りてきて、そして唇に柔らかいものが触れ、しっかりと封じられた。

 

 

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