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子供の遊び 1

そこに彼がいた。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュがさんざん義理の母にひっぱりまわされ、連れていかれたパーティーではついぞ彼とは会うことがかなわなかった。軍人として任務に忙しくしているのだと義母は言った。それでは彼は本当の軍人で、彼にとって軍務は貴族の若者の余技ではないのだ。
彼は今、帝都で一番と話題のオシャレなバーのカウンターにいて、連れの恋人らしき女性とグラスを傾けていた。
エルフリーデは従兄のフランツと一緒だった。従兄のフランツは、本当は遠い親戚に過ぎないのだが、従兄と言っている。このところ、彼はさかんにエルフリーデをあちらこちらへ連れて歩いていた。
どうやら結婚を前提としたおつきあいを彼女の義理の母に申し込んだらしいのだが、そのようなことは彼女自身には何も伝えられていなかった。もし、本当に結婚を申し込むつもりなら、自分に直接言ってほしいとエルフリーデは思った。
毎日、いろいろな場所に連れて行ってくれるのは楽しかった。フランツは彼女が知らない面白い話をたくさん教えてくれて、一緒にいて飽きなかった。おおむねエルフリーデは彼とのデートを楽しんだが、家に帰りつくとその日何をしたか、たいして思い出しもせず寝てしまうのだった。フランツの話の中身はフワフワとしてその場限りのものばかりで、深い感興を呼び起こすものではない。エルフリーデとしては毎日が楽しいので気にしていなかった。そもそも彼が本気で結婚したがっているとは思えなかった。
フランツはその夜映画鑑賞の後に、予約が取りにくいという人気レストランにエルフリーデを連れて来た。エルフリーデはわくわくしてメニューを吟味した。彼女がフランツに聞いてみようと顔を上げると、彼は何を思ったか給仕を呼んで、「シーシュルトクルーテはあるか」と言った。給仕が困って旬の料理などをさりげなく勧めるが、なぜかフランツは「いや、僕はシーシュルトクルーテが食べたいんだ。出来ないはずがない、僕の父はバイアー男爵だと分かって言っているのか?」と言い張った。
なぜフランツはシーシュルトクルーテとやらにこだわるのだろう。エルフリーデは知らなかったが、フランツの様子は父親の男爵がレストランでとる態度に似ていた。無理と思われる要求をして、最後には男爵の位を持ち出し、レストラン側から特別扱いを受けようというのだ。
エルフリーデはなんとか、フランツの注意を自分に向けようとした。自分の意見を聞いてほしかった。フランツは強情な目つきで腕組みして座っており、彼女の方を見向きもしなかった。
やがて厨房からシェフがやって来ると、申し訳ないが、シーシュルトクルーテは仕入れが困難なうえ、入念な下準備が必要なため、10日以上前にご予約いただく必要がある、と言った。ついては自信を持ってお勧めできる本日のお任せ料理を提供させていただきたいがいかがか。
フランツは渋々と言った様子でその言葉を受け入れた。そして彼女に向かって言った。
「つまらない店に連れてきてしまったようだね、エル。まあ、お任せとやらの味見をしてみようか」
フランツのゆがんだ口元を見て、昼間は彼のこんな表情に気づかなかったことにエルフリーデは後悔した。
「わたし…。ありがとう、どんなお食事がいただけるか楽しみにしています」
彼女はシェフに向かっておずおずと微笑んで言った。シェフが感謝するように彼女の微笑みに応えてにっこりする。そして厨房に下がって行った。
シェフが厨房へ向かう途中のテーブルで立ち止まり、その席でワインを傾けている中年の男性に話しかけた。背広を着たフェザーン風の紳士とその友人らしき男が同じテーブルについている。フェザーン紳士はエルフリーデとフランツの方を見て頷いて何かを言っている。フランツはその様子に気づき、カッとなって給仕を呼びつけた。
「あそこの平民がこちらを見て馬鹿にしている。この店ではあのような態度を許しているのか」
給仕はフランツの怒りには取り合わず、淡々と答えた。
「あちら様はお任せ料理をご予約いただいておりましたが、お客様がシーシュルトクルーテをお召し上がりになれず、残念に思っておいでなのを気の毒に思われまして、お任せ料理をこちらのテーブルでご提供するようにとお譲りいただいたのです。シェフはそのお礼をあの方に申し上げておりました」
「気の毒…、譲っただと…!?」
フランツが立ち上がって中年客の方へ行きそうなのをエルフリーデは必死で抑えた。そして給仕に言う。
「どうぞあちらの方に私の代わりにお礼を申し上げてください。そしてよいお食事をと伝えてください」
「お嬢様、かしこまりました」
給仕はエルフリーデににっこりとほほ笑みかけて恭しく言い、頭を下げた。その笑顔は「よくおっしゃいました」と言っているようだった。
「なんだ、エル。お礼なんか言うな」
フランツはふてくされた。エルフリーデではもう遠慮はかなぐり捨てて小声で言う。
「いい加減にして、フランツ。どうしてそんなおかしな態度をとるの。私は楽しく食べたいの。お願いだから食べることだけに集中してよ。それに私が何を食べたいか、先に聞いてくれてもよかったのではなくて?」
彼女が同調してレストランをこき下ろさなかったのを不満に思っているのか、フランツはその後むっつりと押し黙った。そしてソムリエを呼びつけて、本日のお任せ料理に合うワインを勧めようとするソムリエの意見を退けて、店で一番高いワインを持ってこさせた。彼は料理の合間にワインを飲み続けた。
料理はおいしかった。ワインは料理には強すぎるようにエルフリーデには思えた。しかも、フランツがずっと黙り込んでワインで料理を流し込むばかりなので、この上なく居心地が悪かった。
コース料理の途中までは、フランツの気を引き立てようとあれこれの話題を振ったが、とうとう彼女も疲れてしまった。早く帰りたくて仕方がなかった。彼女にとっては勇気のいることだったが、デザートを食べずに一人で帰る決心をした。
「フランツ、私、デザートの前に失礼するわ。少し気分が悪くて」
フランツは大声でその言葉に反応した。
「なんだ、エル、君が出るというのなら僕も出る。いつまでもこんな店にはいられない」
彼女は自分の対応がまずかったことを悟った。これではこの店に落ち度があると言っているようなものだ。
「お願いだから静かにして。お店のせいじゃないの。そんな風に言うなら私、最後までいる」
「エル、気に入らないなら我慢するな。僕なんか何でも率直に言うようにしているんだ。その方がストレスなくシンプルに生活できるだろう」
フランツは依然大きな声で話す。もともと小声の方ではなかったが妙に耳障りな声音だった。
その後、エルフリーデは黙ってデザートを食べ、ゆっくりコーヒーを飲んだ。席を立つ前にそっとナプキンに心づけを忍ばせた。彼女がそんな真似をしたとフランツが知ったら、また何か言うに違いない。誰の目にも止まらないようにしたつもりだったが、若い彼女にはそのようなスマートさはまだ身についていなかった。ふと顔を上げるとあのフェザーン風の紳士がこちらを見ていて、彼女と目が合うとちょっとグラスを掲げてにっこりした。エルフリーデは恥ずかしかったが、紳士の表情は共犯意識のようなものをたたえていたので、少しだけ心が軽くなった。
店を出た後、エルフリーデはまっすぐ家に帰りたかったが、フランツは彼女の意見に反対した。
「君を連れて行ってあげたいところがあるんだ。女の子が好きそうなきれいな店だよ。それに、あんな対応の悪い店とは違う。きっと気に入ると思うよ」
フランツは酔っているのは間違いないが、その優しい言い方はもう少し我慢してもいいかな、とエルフリーデに思わせた。彼女がうなずいたので、フランツは嬉しそうにエルフリーデの肩を抱いて車道により、無人タクシーに乗り込んでその店へ向かった。
車内でもフランツは店までの途上、彼女の肩に手を置いていた。ときどき地上車の揺れのせいか、その肩を彼の方へ引き寄せられたが、彼女は気づかないふりをした。居心地が悪くて身をよじりたかったが我慢した。エルフリーデは肩を出したドレスの上にサテンのリボンで止めた毛皮のケープを羽織っていた。そのおかげで彼の手が素肌に触れることを防いだ。
彼が連れて行った先は建物の中にもかかわらず、青々とした太い幹で細長い葉をつけた珍しい植栽がそこら中にあった。それは木調の壁や紙の傘のかかった照明器具とよく調和していた。少し薄暗い照明の中を進んでいくと、広い空間が広がった。フロアの中央には小さな滝のような流れが軽やかな水音を立てており、そこにも青い木が植わっていた。その滝の向こうに黒光りするカウンターがあった。
そこに彼がいた。

カウンターに座る彼はこちらへ少しだけ横顔を見せて、隣の女性と話していた。エルフリーデとフランツは滝をはさんで彼のすぐ近くのボックス席に案内された。彼はこちらに気づいただろうか? このように薄暗い中ではすぐ隣に誰がいるかもわからないだろう。
フランツから見た彼女は滝が反射する仄かな光をその陶器のような滑らかな頬や、真珠の如く輝く髪に受けて、一瞬、店の中が明るくなったように思われた。まるで燈明のようにぼんやりとしていたが、酔いのまわった青年をうっとりとさせるに十分で、まるで新雪に月明かりが宿ったようだった。
フランツにそのような詩的な表現力はないが、エルフリーデをこの店に連れてきてよかったと、大いに気を良くした。彼女も店の中をキョロキョロと見渡して、先ほどの不快な経験を忘れているようだ。
「ここ、素敵ね。滝の水音が静かで気持ちがいいし、あの青い木が異星風だけどすがすがしくて、ほっとする感じね」
「竹っていう植物だよ。昔、どこかの星に自生していたらしいのを別の星に移植して、栽培に成功したって聞いた。その星の土地を買ったら面白いだろうな」
フランツは店員を呼んで飲み物を頼むと、滝の方を向いたボックス席の中を移動して、彼女のすぐ隣に座った。エルフリーデはテーブルに頬杖をついて、滝の間から見える彼の姿をぼんやりと眺めていた。
彼とはいつもこんな明暗のはっきりしない薄暗いところでしか会えないみたいだ。あの時も薄暗くてちゃんと見ていないが、正面から見たときの細面の顔にしっかりした目鼻立ちは十分印象的だった。正面がよくても横顔がおかしな人もいるが、彼はそんな弊害からは逃れている。高い額と鼻筋が通った鼻、顎の形もすんなりとして、耳もきれいなのが横から見てよく分かった。
それに彼は背中もきれいだ。カウンターの前の背の高い、小さなスツールに座っているのに、カウンターに寄り掛かっていない。スツールにすっとまっすぐな背で座って、ほどよい緊張が感じられた。きっと、隣にいる女性に全神経を集中しているのだろう。そもそも彼がだらけるところなど想像が出来なかった。
ふと、隣に座っていた女性が立ち上がったかと思うと、彼の両肩に手を置いて接吻をした。しばらく二人の唇はふれあっていたがやがて離れた。女性は彼の頬を名残惜しそうに撫でていたが、何事かを彼に言うと涙がいっぱいにたまった目に健気な微笑みを浮かべて、去って行った。エルフリーデは彼女が『さようなら』と言ったように思った。
彼はため息をつくとグラスを掲げてそれを飲んだ。背中はまっすぐなままだったが、とうとう物憂そうに頬杖をついた。
「あは、あそこのあの男、振られたんだな」
そうだろうか? あの去って行った女性の精いっぱいの微笑みと涙は、別のことを示しているように思われた。彼女はフランツに先ほど彼女が見たものを伝えようとした。
しかしフランツはすでにカウンターでの場面には興味を失い、アルコールを飲み続けていた。空になったグラスを不思議そうに見て、お代りを注文する。フランツは好きなように飲ませよう。
カウンターに座った彼も新しいグラスからアルコールを飲んでいる。エルフリーデは先ほど見たものは恋人同士の別れの場面だったかどうか、自信がなくなった。彼はべつにやけ酒を飲んでいるわけでもなさそうで、全く普通に見えた。
フランツもまたお代りを飲んでいる。お付き合いももう十分だ。今夜はもう帰っても構わないだろう。彼女はそろそろ帰りたい、と言おうと口を開きかけた。
だが、フランツは別の計画があるようだった。要領を得ない様子で「ねえ、エル…」と言いながら、彼女の肩を抱いた。
「…なに? どうしたの」
フランツが酔っ払いの熱い身体を押し付けてくることに戸惑いながら、エルフリーデは答えた。フランツから離れようとするが、彼は彼女の肩を抱いている。そのせいで、二人して身体を鋭角に傾けたおかしな格好になった。テーブルの下でフランツの手がさ迷い、彼女の布がたっぷりとしたスカートを引っ張る。彼女は引っ張られたスカートをもとの位置に戻した。
エルフリーデが彼から逃れようと身体を傾けるせいで、フランツがまるで彼女にのしかかるような姿勢になった。彼の手はますます遠慮がなくなり、彼女の太腿に手を置くと、その内側を撫でた。
その言語道断な行動からエルフリーデは逃れたかったが、彼女はもっと緊急に対応せねばならない事態に陥っていた。
「ちょっと…、やめてよフランツ」
「エル…、いいだろう、君のこと好きなんだ」
彼は何とかしてエルフリーデの顔を引き寄せて接吻しようと試みるが、彼女は腕をつっぱって近づけまいとする。フランツは彼女の片足をスカートごと持ち上げて引き寄せ、自分の膝の上に乗せた。
「きゃあっ、離してよ、いい加減にして!」
エルフリーデは腕を振り回して、フランツの顔や肩や頭を拳で叩いた。どういうわけか拳に全く力が入らず、水の中で動かすような感触を味わいながら無我夢中で叩いた。
「いたっ、いたいよ、エル…、いいじゃないか、僕たち結婚するんだろう…」
冗談ではない。彼女にメニューを決めさせもしない酔っ払いの男となど、結婚できるはずがない。彼女は急に体中に力が戻り、思いっきりフランツの胸を押し返した。
「…エル…!」
バシンッ。
我ながら胸のすくような高らかな音を立ててフランツの頬をひっぱたき、その腕の下から逃れる。ハンドバッグを握りしめて、ボックス席から飛び出した。

 

 

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