Season of Mackerel Sky
子供の遊び 3
彼はそうする前に彼女に相談したりなどしなかった。
許可を求めもしなかった。むしろ彼女を責めるような言葉を言って彼女を混乱させておいて、そのくせこんな優しい接吻をする。息もできずに目を見開いているエルフリーデだったが、気がつくと彼が唇を離してゆっくりと体を起こした。
彼の左手は彼女の腰を支えて抱いていたが、右手を上げて彼女の頬をそっと撫でた。頬に手を添えたまま、右手の親指を彼女の唇の上でなぞる。エルフリーデの唇が震え、何かを言おうとするように小さく開いた。
何を言おうとしていたにせよ、それは音声にはならず、再び彼の唇が彼女の唇に触れた。彼が顔の角度を変えて、わずかに開いた彼女の唇の隙間から舌を忍び込ませた。その舌はゆっくりと歯列をなぞり、上顎を撫でさすり、彼女の舌を追いかけた。彼女の舌は彼から逃げようとして、結果、彼の舌とダンスを踊ることになった。
エルフリーデは息苦しくなって鼻から息を吸い込み吐き出したが、その時自分でも思わぬうめき声が出た。それはあの夜、彼といた女性が出していた声とよく似ていた。
彼女は唐突に理解した。彼があの時、あの女性に何をしていたのか。今の自分と同じように、あの女性は彼にしがみつき、その舌を受け入れ、震えていたに違いない。
エルフリーデは必死でこの状況を把握しようとしたがうまくいかなかった。身体中の細胞が活性化され、どこもかしこも彼の存在を感じて騒ぎ立てた。彼の手が直接触れている個所は、そこだけ彼女の肉体から離れて飛んで行ってしまいそうだった。その温かい手が自分の身体のいたるところを撫でているのを感じた。腋の下の柔らかい裸の皮膚に彼の手が触れて、無意識にビクッとその皮膚が震えた。その反動のせいか彼女の腕は持ち上がり、彼のシャツの胸の辺りを握りしめた。
彼の手は腋の下からドレスの滑りやすい生地の上をそろりと動き、彼女の胸の上を覆った。そしてそっと力を入れて押した。
「あっ…! やっ」
エルフリーデは身もだえして彼から逃れようとした。両腕を彼の方に差し伸べて身体を引きはがそうとしたつもりが、その手は彼の肩を通り過ぎ、気づいたときにはその首にしがみついていた。
彼の腕が彼女を抱えなおし、さらに顔の向きを変えて接吻が深まる。彼の手はさらに彼女の胸の上を行ったり来たりした。エルフリーデは彼のすべてに抗うことをやめた。彼が触れるまで自分の胸が疼いて、存在を主張していることに気づかなかった。彼が触れているところは自分の意思とは関係なく震えて熱を持った。必死で彼の動きについて行こうとし、自分からその唇を追いかけた。彼はなんて温かいんだろう…! その温かさを彼の滑らかな肌触りのシャツの上から感じ、両手で彼の肩から胸の辺りを撫でた。それに答えるように彼はエルフリーデを引き寄せ、一層強く舌を吸った。
気がつくと、エルフリーデは心の中で―もっと、もっと! もっと来て! と叫び続けていた。
その叫びを聞いたかのように、彼の手が伸びてエルフリーデの太腿の外側を撫で、ゆっくりと膝まで撫で降ろした。彼の熱い手から逃れたい、だが離れてほしくないという矛盾した思いがせめぎ合い、エルフリーデは身をひねって両膝を引き寄せようとした。
その時、彼が呻いた。
そのひきつったような、切羽詰まったようなうめき声を聞いて、エルフリーデははっとして彼から唇を離した。
「ごめんなさい、どこか蹴とばした?」
確かに彼女の膝は彼の腹の辺りに当たった感触があった。それがどこだか彼女には分からなかった。彼女は自分の身体すら何が起きているか分からなかった。自分が今何をしたかも分からなかった。
「…蹴とばしただと?」
彼は彼女から体を起こして、彼女をまじまじと見た。彼は少し深呼吸をして、彼女が言ったことに集中しようとしているようだった。だが、やがて息が落ち着く間もなく、笑い出した。
「そ、そうか、あんたは本当に何もわかっていないんだな…。け、蹴とばした…。そんな子供におれは…」
そして彼女をその腕から離すと顔を覆ってゲラゲラと笑った。
本当におかしな人だ、エルフリーデは呆れてシートに沈み込んだ。ちょっとふてくされた声で彼に言う。
「子供じゃない。私、もうじゅうな…18だから」
「…そうか、18か…。若いのは確かだ。だが、子供ではないというのは確かにその通りだな」
彼の手がまだ自分の膝の裏の柔らかいところを撫でていることに気づき、エルフリーデは赤くなった。ドレスのスカートがはだけて両足の間に彼の膝が割り込んでいる。その状況がはっきり見えたら恥ずかしいどころではないだろう。だが、幸い車内はネオンの明かり以外、光がなく暗かった。
彼女は子供ではない―。だが、すべて理解したと思ったパズルのピースには、まだ欠けたところがあるらしい。それを理解した時には、彼は彼女を笑ったりしないで愛してくれるだろうか。
―わたし、そうなの? この人に愛してほしいの?
彼が体を起こし、地上車の端末を操作していた。左手はまだ彼女の足を撫でていたが、右手で端末を操作する。少し顔を傾けて彼女の方を向いて聞いた。
「あんたの家の住所は?」
エルフリーデはため息をついて答えた。どうやら、お遊びの時間は終わりらしい。彼は住所を入力すると、さらに端末を操作して、車内の明かりをつけた。
「そのハンドバックに鏡があるなら、少し確認した方がいいだろうな」
言われてエルフリーデはハンドバックから小型の鏡を取り出した。その中をのぞき込んで、髪を乱して、真っ赤な顔の自分を見つけてぎょっとする。ドレスの着付けも乱れていた。彼は彼女が身じまいしている様子を見ないように、そっと視線を外し、外のネオンを見ている。地上車は経路を変更して郊外の住宅地の方へと進み始めていた。
貴族階級のお屋敷が立ち並ぶ地区に近づいてきた。もうすぐでコールラウシュ家の屋敷だ。エルフリーデは身じまいもすんで、ハンドバックを抱えて座っている。彼はやはり頬杖をついて窓の外を眺めていた。先ほど、二人の間にあったことはまるで夢の中の出来事のようで、自分の身に起きたとは思えないほどだった。
彼女は思い切って膝に投げ出されている彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「あの…、私、あなたの恋人になったの?」
彼は答えなかった。だが、彼女の差しのべられた手を拒むこともしなかった。手のひらを上にして彼女の手を受け入れ、握った。彼は口を開いた。
「それは、おれと付き合いたいということか」
「…私…、分からない、たぶん…」
「おれはなるべく女性の希望は尊重するようにしている。だが、あんたは付き合うには若すぎるな」
「でも…、みんな私くらいの年で結婚しているでしょ…。あなたのお母様もそうだったのではない? 少なくとも私のおかあさまは18の時にお父様と結婚したの」
彼は握っていた手を開いて彼女の手を離した。
「言っておくが、おれは結婚するつもりはない」
それは突き放した、というには妙に感情のこもらない言い方だった。彼の手が遠ざかり、エルフリーデの手は空っぽになった。彼の手をもう一度握りしめたかった。
突然、エルフリーデは気づいた。彼が言うように自主性のある女性ならば、彼の手が欲しいときはそのようにはっきり言うのではないだろうか。
彼の方に差し延べられて彼と自分とのシートの間に投げ出された、自分の手。その手をあげて、彼の手を自分の方へ引き寄せるのだ。
―彼はあんなことを言っているけど、きっと私の手を拒んだりしない。きっとまた優しく握り返してくれる。だから、もう一度、彼の手を取って、あなたが欲しいのだと言うの! 今、何も言わないでいたら、彼といつまた会えるか、偶然に任せるしかなくなってしまう…!
エルフリーデは震える唇で彼の名を小さく呼んだ。
「オスカー…」
地上車が減速して、路肩に寄せた。
「着いた」
静かな声で彼が言った。
エルフリーデはため息をついた。地上車を出れば彼と二人だけの時間はもうおしまいだ。大きな道路に面したコールラウシュ家の屋敷は、表門から建物までは50メートルほどの距離がある。地上車がその表門の前に止まると、彼は車外に出て、エルフリーデが座る側に回って外からドアを開けた。彼が差し出した手に自分の手を預けて、彼女は表に出た。
夜気がエルフリーデの身体を冷やし、彼女は羽織ったままの彼の上着の中で身をすくめた。彼自身は冷たい空気の中でシャツ一枚だった。上等の厚手のシルクのシャツのようだが、寒くはないのだろうか。
彼は少しためらっていたがやがて言った。
「上着をそのまま羽織っていけ。寒いだろうから」
「でも、すぐそこだし、あなたも上着がないと寒いでしょう」
「羽織っていけ」
「では…、後であなたのお宅に送るわね」
「別に返さなくていい」
彼はエルフリーデの手を取ったまま、立っていた。エルフリーデも彼の大きく温かい手を離したくなかった。
「戸口まで送るべきだろうが、おれはここで帰る」
なぜ彼がそのようなことを言うのか、分からなかった。エルフリーデは答えた。
「構わないけど。あなたを見たら、フランツじゃないからびっくりするだろうし」
「フランツ? ああ、さっきのあいつか。貴族の坊やとお幸せに」
「…フランツとはもう会わない」
「フン、そうか。それでは、他の貴族の坊やとお幸せに」
彼はエルフリーデの肩を屋敷に向かってグイっと押し出した。エルフリーデは訳も分からず押し出されてその勢いで2、3歩前に足を踏み出した。そのまま前に進みかける。
だが、急に振り返って小走りで彼の方に戻り、その首に飛びついた。その勢いで、地上車の横に立って彼女を見送っていた彼は、後ろに倒れ掛かった。腰が地上車のドアに音を立ててぶつかり、彼は口の中で唸った。
「また会って、オスカー」
そういうとエルフリーデはオスカーから教わったやり方で接吻した。そろっと彼の口の中に舌をさしだし、相手の舌に触れ、彼が反応する前に離れた。
そして彼の顔も見ずに、肩に羽織った彼の上着を両手で押さえて、走って屋敷の戸口へ向かった。彼がくすくす笑うのが聞こえた気がした。
屋敷の扉の中に入ると、誰かが彼女を迎えに出てこないうちに、上階の自分の部屋へ急いだ。幸い、迎えに来たのは彼女の可愛い飼い犬の2頭だけだった。彼ら2頭を連れて自分の部屋へ飛び込む。
部屋の窓から外を見たが、すでに地上車は立ち去った後だった。彼の上着をベッドの上に広げて、ため息をつく。彼は返す先の住所を教えてくれなかった。直接会って返すすべもない。結局、彼の家名を聞くこともできなかった。
上着は上質な手触りの良いウールで、染色も縫製も誂えものの品質の良さを感じさせた。せっかくの素敵なジャケットを誂えた本人がもう着ることがないのは、もったいない気がした。
―オスカー・フォン・…
エルフリーデは着替えもせずに、自分の小さなデスクの前に座り、膝の上に愛犬の顎を乗せたまま、端末を開いて検索した。彼は軍人だから、その線で検索できないだろうか。彼は30歳か、もしかして少し若いかもしれない。軍人の階級についてはよく知らないが、その年齢なら少佐くらいにはなっているだろう。彼の軍服から階級を判断する知識がないのは残念だった。
―オスカー/フォン/少佐
検索してみた。
貴族のオスカー(少佐)というのはありふれたものらしい。しかも、過去に少佐だった貴族のオスカーが何人も出てきて閉口した。そこで、今年の年号を入れて再度、検索をかけてみる。一番上に現れた検索結果から順に、新聞記事や官報などの結果内容を表示してみたが、写真がなく文章だけのものや、個人が特定しにくいものもあり、検索するにはヒントが少なすぎると思った。もしかして、中佐か、大佐かもしれない。片っ端から検索していくのはあまりに果てしがないと思った。
それに彼が自分の身分を明かしたくないのに、このように勝手に調べることはよくない気がした。なぜ、名前を教えるという簡単なことを、彼がしたがらないのか分からなかった。彼が、自分をもてあそんでいるのだとは思いたくなかった。
エルフリーデが接吻した後、彼から離れる時に聞いた彼のクスクス笑いの意味を考える。彼はエルフリーデとのすべてのことを、まるでゲームかなにかのように考えているのかもしれない。彼を探し出すヒントはわずか。いつか彼を捕まえる、その時まで彼は自分から逃げ続ける。そして、自分は彼をどこまでも追いかけていく。
彼を捕まえたとき、彼はどうするだろう。またあの両腕を広げて彼女を抱きしめてくれるだろうか。
エルフリーデはベッドに広げた彼のジャケットを再び取り上げた。彼女くらいの女の子二人分の幅の大きさは優にある。ベッドに転がって、上からジャケットをかぶると、すっぽりとその生地の中に彼女の身体が収まった。
エルフリーデは何の確証もないことを自分でもわかっていたが、きっとまた彼に会えると信じていた。彼の香りに包まれて、それは彼女としては疑う余地もないことのように思われた。
Ende
*作者注
シーシュルトクルーテ:海亀です。
かつてヨーロッパでは海亀のスープがグルメ料理としてもてはやされました。
日本では小笠原諸島で貴重なタンパク源として食された来ました。しょっぱいタコのような味を思いうかべるのは(作者の)勝手なイメージで、食感は豚肉に近いとか。