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フェリックスの旅

2、

フェリックス・ミッターマイヤーは母のエヴァンゼリンにはどこに行くとも告げず、かつてのロイエンタール邸を訪ねた。大叔母は管理人に話しておくからいつでもおいでなさい、と言ってくれた。

なぜ、母に自分の行く先を言うことが出来なかったか、フェリックスには分からなかった。ただ、なんとなく自分がそうすることを母が知ったらどう思うだろうか、と口にすることをためらわせたのだ。

その屋敷は人が住む家の賑やかさからは程遠いが、よく手入れされていることが門の外からもわかった。個人の持ち物としては大きな家だ。フェリックス自身は自分を帝国騎士の遺児でもなく、帝国第一の重臣の跡取りでもなく、普通の平民の息子だと思い、そのように育ってきた。このような貴族的な大きな屋敷に住むなど、現実的とは思えなかった。

ただの見学者のようなふりをして門の中へ入る。庭木が生い茂り、花々があちこちに植わっているのが見えた。盛りを過ぎた令夫人といった趣で、整いすぎない、居心地の良さそうな庭だった。屋敷の扉の前まで、砂利道を歩いて行く。あの扉から普通に入っていいのだろうか? 正面の玄関から入れるのは屋敷の主人だけで、自分などは脇の戸口から入ってほしい、と言われるのではないだろうか。だが、その主人が最後にこの玄関をくぐったのは20年以上も昔の話だ。

突然、庭の方から籠を抱えた老人が現れて、フェリックスの姿を認めて中途で立ち尽くした。籠には切り花が山になっていたので、花の手入れをしていたのだろう。フロックコートを着たその人物は庭師には見えなかった。屋敷を訪問したい旨を伝えようとフェリックスは老人に近づいて行った。

だが、彼が何か言う前に、老人が何か一言叫ぶと、周囲に花を散らばせて前かがみに倒れてしまった。ぎょっとして、フェリックスは老人に駆け寄った。

「どうしました!? 大丈夫ですか?」

老人は弱弱しくはあったが、手をついて体を起こそうとした。フェリックスは慌ててそれを押しとどめる。

「待って、無理に動かない方がいいでしょう。僕につかまって、少しここに座って休みましょう」

フェリックスが差し出した手を老人はびっくりするような強い力で握りしめた。

「…ご主人様…!!」

はっとして老人の顔をのぞき込むと、相手も目を見開いてこちらを見つめていた。だが、その目がまるできょろきょろするように左右にさ迷い、老人は何かに気づいたようだった。

「…あなた様の目は両方とも青い。だがお顔はご主人様とそっくりだ。あなた様はどなたさまですか」

老人が自分の顔の中に何を見たかフェリックスは気づいた。

「僕はフェリックス・ミッターマイヤーです。あなたの言うご主人とは…」

老人はフェリックスの手に両手で縋りついた。その目には滂沱として涙が流れた。

「わたくしの主人はただ一人、あなた様のお父上、オスカー・フォン・ロイエンタール様でございます」

 

ようやく立てるようになった老人―かつてのロイエンタール家の執事―は、正面玄関をいっぱいに開いて、彼の主人の遺児を招じ入れた。玄関から中に入るとすぐに正面に光が差すステンドグラスが嵌る窓があることに気づいた。大きな階段の踊り場の上にそれはあった。広々としたホールの天井は高く、だが、大きな窓のおかげで大変明るく気持ちのいい空間だった。

―いい家だな

それはフェリックスの率直な感想だった。ロイエンタール元帥はこのような家で幸せな子供時代を送ったのだろうか。

「どうぞ、フェリックス様、こちらのお部屋にお越しください」

老人は落ち着いた声音でフェリックスに呼びかけると、先に立って歩き出した。背筋がしゃっきりと伸び、足元もしっかりしている。フェリックスを見て動揺したにしろ、もうその感情はあらわさない。執事とはこういうものではないだろうか、と思う通りの存在だった。

老人は手動で重厚な造りの扉を開けると、フェリックスを中に通した。壁一面にぎっしりと本が入った書棚があり、部屋の片隅には大きなマホガニー風のデスクがあった。書棚の本の背表紙を見るともなく眺めていたフェリックスは、反対側の壁を見てはっとした。

そこには火の入っていない大きな暖炉があり、マントルピースの上方の壁に絵が飾られていた。それは鈍い光りを放つ金縁の額に入れられた人物画だった。

すらりとした長身の均整の取れた、軍人らしいがっしりとした体格。鮮やかな色合いのマントが元帥の銀と黒の軍服によく映えていた。その鋭く厳しい視線にもかかわらず、滑らかな白い肌は優雅なまでの気品を感じさせた。一筋の乱れも許さぬダークブラウンのつややかな髪。左手はゆったりと体の脇に垂れていたが、右手は傍らのテーブルに乗せ、その手には何か手紙を持っている。こちらからは見えるはずがないのに、うっすらと反転した文字が透けて見えて、はっきりと『ミッターマイヤー』と読めた。思わず見間違いかとフェリックスはその絵に近づいた。

絵の中のテーブルにはいくつかの手紙が散らばっていて、その中の一番手前の書面には獅子の紋章が描かれていた。皇帝からの親書を表しているのだろうか。さらにこの人物の背景には鏡が立て掛けられており、その中に白い花弁に紫の筋の入った花が映っていた。

どの場所にも意味深な、何を象徴しているかと考えさせる意匠のある、凝った人物画だった。その人物の左右の瞳の色がはっきりと明暗に分けられていることに、フェリックスは気づいた。

「このお屋敷が残されていることをお知りになったメックリンガー閣下が、この絵をここに置かせてほしいとおっしゃってくださいました」

「メックリンガー閣下が…? ではこの絵を描かれたのは…」

老執事は重々しく頷いた。

「はい、ご主人様はかつてメックリンガー様の絵のモデルをなさったそうなのですが、メックリンガー様も軍務にご多忙であられたため、すぐに絵をお描きになることが出来ませんでした。何年も時間をかけて絵に手を入れられ、そうしている間にご主人様は元帥となられました。マントの色で元の背景の絵を塗りつぶしたそうでございます」

老人は絵を見上げて、まるでそこにその絵があることを確認するように再び頷くと、話をつづける。

「完成されたのはご主人様が亡くなられた後だったそうでございます。お亡くなりになられて2年目くらいにわたくしどもにご連絡をいただきまして、それ以来、こうしてずっとこの場所に飾らせていただいております」

フェリックスはロイエンタール元帥の白い顔をじっと見た。これほど彼の顔をはっきり映し出したものはソリビジョンにしろ、2Dの写真にしろ、見たことがなかった。彼が許されたのはわずか2年前のことだ。それまで過去のニュース映像などでは彼が映るシーンはカットされ、写真も不自然に切り取られていた。20年目の名誉回復後、そこまで隠すことはなくなっただろうが、彼の死からすでにひと昔以上たっている。先帝の時代も輝かしい思い出となり、忙しいフェザーンの人々は元帥のことを忘れてしまっているようだった。

だが、ここ旧都オーディンでは違うようだ。彼のかつての屋敷が残され、そこには彼自身の肖像画が(しかも、これはメックリンガー閣下の最高傑作の一つではないか)、飾られている。たとえこの絵を鑑賞するのがこの老人一人だとしても、彼の中でロイエンタール元帥はいまだ存在していた。

フェリックスはマントルピースの上に乗った写真立ての表面に、自分の顔が映っているのを見た。

「僕はそれほど彼に似ていますか?」

老人は静かな微笑みを浮かべて、しかし悲しそうに首を振った。

「お顔は一瞬拝見したところでは、大変似ていらっしゃると思われました。ですが、雰囲気や表情がやはり違っておいでのようです。ご主人様とは体格も違っていらっしゃいますし…」

フェリックスが顔をしかめたので、老人は笑った。

「あなた様はこの絵のご主人様よりまだお若い。そう考えますと、ご主人様があなた様くらいの年齢の時は、まだこのような雰囲気ではなかったかもしれませぬな」

「元帥は亡くなられた時、おいくつでしたか」

老人はフェリックスの他人行儀な問いとその内容に、と胸を衝かれ息をのんだ。

「ご主人様はまだ33歳でいらっしゃいました。この絵はその頃の面影をよく映してございます」

フェリックスはマントルピースの上に写真立てに入った2つの男女の写真があることに気づいた。20代と思われる、若く優しげな表情の美しい女性と、威圧的な厳しい目つきの老人の写真。女性の方はロイエンタール元帥とよく似ており、彼の母親であることは間違いないと思われた。それではこちらの男性は…。

老執事がその2つの写真をフェリックスが見ていることに気づいた。

「そちらはご主人様、オスカー様のご両親のお写真でございます。それぞれ撮影した年が違っておりますが…。残念なことに、お二人ともオスカー様がお若いうちにお亡くなりになられましてございます」

「きれいな人だったのですね、その…」

フェリックスは彼女を何と言えばいいか迷った。おばあさま? だが、この写真の女性は彼よりも若く見えた。ふいに、この女性が長生きして自分を見たら、何と思うだろうかと思った。自分を孫として受け入れてくれるだろうか。

「僕みたいな孫が出来たら、この方は困ったでしょうね。とてもお若いし、きれいだから、お祖母さんと呼ばれるのを嫌がったでしょうね」

「きっとたいそう可愛がられたことと思いますよ」

老執事は嬉しそうに答えた。フェリックスは我ながらおかしなものだと思った。ロイエンタール元帥を父と思うことは出来ないが、この女性が祖母であるということはすんなりと受け入れられた。

―どうせ、美人だからだろう。

だが、彼女のまなざしにはどこか懐かしさを感じさせた。それが何を由来しての感情かは分からなかったが…。

二人がそうして絵や写真を眺めていると、突然、廊下にバタバタと足音がした。

「おじいちゃん? また書斎にいるの? お掃除はもういいから、お茶にしない?」

パッと扉が開いて若い女性が飛び込んできたが、老人以外にも知らない人物がいることに気づき、立ちすくむ。フェリックスも闖入者に驚いてそちらを振り返った。

彼の顔を見て女性は息を飲んだが、彼には理解できない理由で真っ赤になって眉を吊り上げた。彼女は細い指をフェリックスに突き付けた。

「そう! ようやっと来たのね! 遅すぎるくらいだけど、来ないよりましってこと? それにしても待たせすぎだと思うけど!」

戸惑いながらフェリックスが彼女の方に向き直る。

「確かに大叔母に相談してからしばらく時間が経ったが、先週のことだし…。旅先で毎日、祖父母の家でいろいろあったものだから…」

「大叔母様!? 何の話をしてるの? あなたはフェリックス・フォン・ロイエンタールでしょう?」

老執事がぎょっとして、孫娘をたしなめるように両手を上げる。フェリックスは自分の名がそのように呼ばれるのを聞いて、自分でも思いがけないほど衝撃を受けた。彼は震える小さな声で答えた。

「違う。僕はフェリックス・ミッターマイヤーだ」

「なんですって!? とにかく、私はここ何年もフェザーンのあなたの連絡先に手紙を送っているのよ! おじいちゃんはもう、あなたが来るのを何年も待っていたというのに! おじいちゃんたらもう70歳を過ぎてしまったわ、ほんとに待ちくたびれたわ!」

彼女は金髪の髪を振り乱して、フェリックスを糾弾した。彼女が動くたびに揺れるスカートから見える細い足で地団太を踏んで、両手を振っている。

「おまえ、あの手紙は私がいつも処分していた」

「えっ」

老執事はフェリックスを庇うように孫娘の前に立ちふさがった。

「この方はフェザーンにこの方の人生がある。無理に今のご両親の腕の中から引き離すようなことはしたくなかったのだよ」

「だって、この人はこの絵の、おじいちゃんのご主人の跡取りでしょう。このお屋敷に来て当然じゃないの! それにおじいちゃんはあんなに、ぜひ一目お会いしたいものだって、言っていたじゃないの」

「そうだな、そして、ご自分で決断なさって、とうとう今日お出でくださった。素晴らしいことではないかね、ヒルデ」

老人は納得できずに口をとがらせて黙り込んだ孫娘の肩を抱いて揺すった。そしてフェリックスの方に向き直る。

「さあどうぞ、あちらでお茶をご一緒させていただければと存じます。このヒルデガルドが焼いたトルテがありますのでな。これはなかなか、お菓子作りが上手ですよ」

フェリックスはヒルデガルドこと、ヒルデを見た。おそらくこの帝国には何百万もの同名の若い女性がいることだろうが、彼はその名の元になった高貴な婦人をよく知っていた。目の前の女性もその名をいただいた女性と同じように活発で、いきいきとして賢そうに見えた。

「ぜひ、いただきます」

「どうぞ、どうぞ」

老人は嬉しそうに声を弾ませると、孫娘の肩を抱いたまま、部屋の扉を開けた。孫の方は祖父の肩越しに彼の方をまだふてくされた表情でちらりと見た。

 

 

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