Season of Mackerel Sky
祝祭 ~4~
少女を管理人室に送り届け、優しい夫人の手に預けるとメックリンガーは自分の部屋に戻った。メゾネットに上がってみると、ロイエンタールはまだメックリンガーのベッドに手足を広げて仰向けになっていた。
ベッドの足元に放られた上着をハンガーにかけてクローゼットにしまうと、メックリンガーはロイエンタールの上に屈みこんだ。
「泊まっていかれるのならシャワーを浴びて、すっきりしてから眠ってはいかがかな。それとも何か口にしますかな」
唸り声の返事が返ってきて、本当には眠ってはいないのだと分かった。
「―食い物はいい。卿のウイスキーをくれ」
目の上に腕を乗せてロイエンタールが言った。
「今夜はもう酒はやめたがよろしいでしょうな。それより、ブドウはいかがかな」
「それは発酵していないブドウだろう」
メックリンガーはサイドテーブルに置いたブドウの房から一粒もいで、口に放り込んだ。その宝石のような緑色の粒はたっぷりと水気を含み、よく熟れて甘かった。
「ふむ。美味い。みずみずしく蜜のように甘い」
「ワインの方がもっとみずみずしい」
やれやれ。メックリンガーはもう一粒手に取ると、そのつややかな実を潰さないよう口の中に含み、ロイエンタールの上にのしかかった。目元を覆う腕を優しく外すと口移しにブドウの粒をロイエンタールに与えた。唇に押しつけられたブドウに気づき、ロイエンタールが口を開いて受け取る。
うっすらとロイエンタールの瞼が開き、メックリンガーの指先を疼かせる強く輝く瞳を見せた。
寝そべったままではうまく食べられないのだろう。ロイエンタールは少し体を起こして間近にいるメックリンガーの瞳を見つめながら、口の中のブドウを味わった。
「なるほど、甘いな。それにワインのように水気がたっぷりだ」
飲み込むと、メックリンガーに向かって口を小さく開けた。彼が何を望んでいるか、不分明ながら自分が間違っていないことを願いつつ、もう一粒ブドウを口に含み、彼の唇に近づく。肉の薄い赤い唇がブドウを受け取る形になって、メックリンガーをブドウもろとも受け入れた。ブドウの甘い汁をこぼさないようにロイエンタールの唇の上に舌を遊ばせて、そっと甘い唇を舐めた。しっかりブドウを受け取ったのを確かめて、離れた。
ロイエンタールが黙ってブドウを咀嚼している様子を見ながら、メックリンガーは呟いた。
「柔らかくて、甘くて、食べごろに熟れている」
ロイエンタールが鼻で笑った。彼が体の前に手を突いてメックリンガーの方に向かって少し身を乗り出そうとする。その胸を押さえて、メックリンガーはベッドから離れた。
「さあ、シャワーを浴びて来てはいかがですかな。その間、この部屋を暖めておきましょうか。―だいぶ冷えてきた」
「もう11月になる」
「さようですな。9月来、あなたも大変お忙しくしておいでだ。戦場に向かう前はまるで飛ぶように月日が過ぎますな」
今日が10月の何の日か、自分から口にしてくれるのではないかとメックリンガーは思った。だが、ロイエンタールは口を開くことはなく、もう一粒ブドウの粒を手に取って食べた。
彼がまだシャワーを浴びる気がなさそうなので、メックリンガーは先ほど、管理人の部屋で少女から聞いた話を伝えた。
少女の父親はかつてソリストを目指して貴族の後援を受けていたが、彼らの気まぐれのせいでさまざまに辛酸を舐めさせられ、とうとう諦めてしまったものらしい。それでも帝都交響楽団の一員になったのだが、酒のために身を滅ぼしたということのようだ。
「あの子が音楽の高等教育を受けられるように、貴族に膝を折って奔走し、絶対大丈夫という保証を得ていたはずなのに、またここでも裏切られ嘲笑われて、それが最後の打撃となったようですな。それでとうとう酒に溺れるようになったという話で」
「―そのいきさつをいちいちあいつは知っているのか」
「そのようですな。あの子の将来の話でもありますからな、可哀想なことだ」
一緒に話を聞いていた夫人が同情の言葉をつぶやくと、本人は街頭でバイオリンを弾いて、毎日面白おかしく暮らしているから気の毒がることはないと笑った。あまりに稼ぎが多いせいで街の顔役から睨まれ、今夜のような事態になったと言う。
「やつらに俺の金を一部だってやる義理はねえ。あいつらが俺がバイオリンを練習するために何かしてくれんならともかく、俺の弓を壊しやがって」
少女は金をためて、バイオリンの個人教授を受けられるようにするつもりだと言う。将来は劇場付きのオーケストラでバイオリンを弾くことが今の夢なのだ。
―あれだけの技量と、なにより本人がバイオリンと音楽に熱意を持っている。その熱が冷めないよう彼女の道が開ければ…。
「あいつが弾いた曲は何だ?」
ロイエンタールがブドウの合間に尋ねた。彼の周りにはブドウの甘い香りが漂っていた。
「バッハの―」
「シャコンヌは知っている。フェザーンのシャイイーが先年、リサイタルで無伴奏バイオリンを演奏したのを聞いた。プロでさえ容易に弾けるものでもあるまいに、あんな子供が大層な難曲を怖気もせずに弾くとはな」
「おお、シャイイーを聞かれたか。私は惜しいかな軍務と重なって聞き逃してねえ…。シャイイーとシャコンヌと言えば、皇宮に於いて帝国暦482年に…」
「メックリンガー、2曲目の、曲は、あれはなんだ?」
強い口調に咳払いして少し赤くなってメックリンガーは頷いた。
「あれは子守歌ですな。元は合唱曲なのだが…」
「子守歌? それにしては少し陰気な曲調だが、そんなものか?」
そう言うとエメラルドのような甘いブドウの粒を再び口に含んだ。少し俯いているロイエンタールから、「生意気なガキだ」というつぶやきが聞こえた。
ロイエンタールは少女がその曲を弾いた意味を正しく理解したのだ。何故肖像画を見てあれほど激烈な反応を示したか、その理由を彼は正直に告白した。それを聞いた少女が同情し、いたわりの気持ちからあの曲を弾いたのだということを。
俯いてブドウをいじっているロイエンタールの手を取って、その指に唇を寄せるとべたべたとした感触と共に甘い香りがした。白く輝く甘い指先。
「さあ、難しい顔をしていないで、そろそろシャワーを浴びてはどうですかな。身体が温まれば気持ちも落ち着つかれよう」
シャワーを浴びてほかほかと湯気を立てているロイエンタールを待ち構えて、柔らかな布に包みこんだ。鼻歌を歌いながらメックリンガーは彼の手を引いてベッドに連れていった。
目が悪いわけでもベッドへの道のりが分からないわけでもないが、ロイエンタールは手を引かれるままに抗いもせず、メックリンガーについて行く。
約束通り温めた部屋は裸の肌にもちょうどよい温度で、ベッドのシーツも気持ちよく、枕の羽毛もふっくらとしていた。ロイエンタールの少し湿ってしなやかな皮膚を手のひらに感じながら、彼を横たえる。
いつしかメックリンガーの鼻歌は言葉を伴いはっきりとした旋律となっていた。
かの幼な児がお泣きになりしとき
歌声にて 御母は眠りにお誘いになりぬ
そはげに麗しき旋律なりしゆえ
いかな吟遊詩人も敵わぬものとなりき
ナイティンゲールも歌いたりしが
その歌は粗野にて いかな役にも立ちはせぬ
その歌声ばかりを一所懸命に聴きたるが
御母の歌を聴かぬとなれば その者は過てり
(「かの幼な児が」キャロルの祭典 Op.28より翻案)
「…それは聖歌だろう…?」
「そう、もうすでに我々の歴史からは失われた教えを称える聖歌…」
「その歌だけが残った…」
ダークブラウンの柔らかな髪が遊ぶ耳元に鼻先をこすりつけ、メックリンガーは答える。
「この歌に込められた本当の意味も、何千もの何万もの思いも失われて、ただその美しい旋律と優しい言葉だけが私たちの心を和ませる…」
彼の首筋に鼻先と唇を添わせたメックリンガーには、ロイエンタールが喉の奥でその旋律を奏でているのが分かった。喉の奥を震わせて小さな響きが伝わってくる。その音色は先ほどメックリンガーが歌った歌声というより、それより前、バイオリンが奏でた響きとよく似ていた。
静かな寝息を立てるロイエンタールは、起きている時の皮肉の苦みや、無関心を装う冷たさはもはやまとっていなかった。ただひたすら眠りに身を任せて疲れた心を休ませている。
―朝になれば彼もまた新しい彼になる。これまでの月日に1年分の重みを積み重ねて…。彼はいくつになるのだろう。30歳? 31歳? なんと若い…。私たちの人生はほんの数年でなんと変わってしまったことか。あの方を知り、彼や僚友たちと共に仕えて数年…。たった数年…? まるですでに10年以上もあの方の元にいるようだ…。なんと、なんと数多くの戦場を歩いただろう…。これからも、私たちはあの方に従い、どこまでも…、これから何年も…。
メックリンガーはほんの数秒眠りに落ちたが、ハッとして目覚めた。
腕の中のロイエンタールをそっと開放し、しっかり首元まで上掛けを引き上げてくるんでやる。そうして、自分は静かに起き上がり、ガウンを羽織って階下に降りて行った。
アトリエには月明かりが差して明るかった。だが自分がこれからしたいことをするには暗すぎる。部屋中すべての明かりを煌々とつけては、メゾネットまで光が届いてしまう。メックリンガーは少々妥協して、一番大きな天井の明かりは付けず、それ以外の間接照明をすべて点灯した。これで彼が眩しさを感じぬといいがと願った。
彼を描いた肖像画の前に立ち、客観的になろうと全体をじっくりと観察する。そしておもむろに絵の具のチューブをいくつか収納箱から取り出し、パレットに色を置いていった。
絵筆に色を取って迷いなくキャンバスを彩っていく。それは不十分な明かりの下でも鮮やかで、月の光をまとっているように見えた。
―月の光か…。彼に相応しい輝きだ。彼は決して太陽の明かりにはならぬだろう。だが、彼自身も光りを灯して彼を仰ぎ見る人々を照らしている…。
メックリンガーの心の中にはいつしか、バイオリンの響きが蘇っていた。彼はきっとバイオリンを手に取ったことすらないであろうに、まるで彼があの曲を自分で奏でているようなそんな錯覚に陥っていた。
彼の奏でる曲をぼんやりした明かりの中で辿りながら、キャンバスに彩りを添えていった。