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祝祭 ~5~

朝方ようやくベッドに戻ったメックリンガーが眠りから目覚めると、ロイエンタールはすでに自分の腕の中にはいなかった。アトリエから人声がして、ロイエンタールが階下におり、そこにあの少女もいることが分かった。
少々重い頭を抱えてメックリンガーがアトリエに降りると、二人がテーブルの上においしそうな匂いのする数々の料理を並べている光景に出会った。
「メックリンガーさん、おはよ。おばちゃんがたくさん朝飯を用意してくれたんだ。若いお客さんがいるからたくさん食べるだろうって」
少女はにやにや笑ってロイエンタールとメックリンガーを交互に見る。『おっさん』という呼びかけから昇格したのは結構なことだが、彼女から見てどうやら自分はずいぶん年を取って見えるらしい。
ロイエンタールは十分休むことが出来たようだ。すっきりした表情をして黙ってコーヒーを飲んでいる。メックリンガーのあいさつに頷いて答えてから、顎をしゃくった。
「昨夜、あの絵はむき出しになっていたはずだが…。卿があの布を掛けたのか?」
「ああ、そうそう、埃をかぶらないようにと思いましてね。君、あれを取ってもらえるかな」
少女は眉を上げて「なんで俺が…」と呟いたが、逆らわずに席を立った。その大きな布を簡単には外すことが出来ずにいたが、結局メックリンガーの手を借りて全部取り払った。
少女が自分の席に戻ろうとして、ふと絵を見て「あっ!」と言った。
「なんか昨日はなかったものが描いてある! 花だ! あんな花昨日はなかったよね、メックリンガーさん!!」
「おや、そうかね。妖精がやって来て一晩で花を咲かせたかな」
少女が舌を出して吐きそうだという顔をした。その失礼な表情にメックリンガーが顔をしかめて拳を振り上げる真似をすると、少女は大げさに身を縮めて笑った。
「すげえ! 俺たちが寝てる間にあんな綺麗な花が描けるんだ! ロイエンタールさん、見てよ、すごいね!」
ロイエンタールは言われるまでもなくじっとその花を見ていた。彼の肖像画の足元に一輪の百合の花に似た白い花が咲いていた。その紫のすじは白い花弁の中でつやつやとまだ濡れて朝日を浴びて輝いていた。
「…なんで花なのだ?」
彼には戦斧でも置いた方が相応しかったか…? だが、これは彼が欲しいものを描いたわけではないのだ。
「まあ、私からの贈り物というかな…。あなたに相応しい品のある花がいいと思ってね」
「贈り物?」
ロイエンタールの眉のあたりに不機嫌な雲がかかろうとしているのを見て、メックリンガーは慌ててテーブルの席に着いた。
「さあさあ、フラウ・ブラントの朝飯をいただこう。君、提督に塩を取って差し上げて」
メックリンガーはわざと賑やかに言うと、卵とブルストを皿に取り分け、旺盛な食欲で食べ始めた。ロイエンタールはコーヒーとブロートだけで済ますつもりかと思われたが、同席の二人が美味そうに食べているせいか、自分も卵を皿に取って食べ始めた。フラウ・ブラントの料理の恩恵に授かりながら、メックリンガーは後で本物の百合の花を彼の元に届けさせようと思った。彼はいやがるかもしれないが、彼の勘違いなどではないことをはっきり示したいと思った。
自分が彼の誕生を祝って、彼に相応しい花を贈ったのだということを―。
彼のために永遠に枯れない祝いの花を絵の中に贈った。
彼の誕生日に彼と過ごせるとはなんという幸運だろう。彼が誕生日を祝わせてくれないのは分かっていた。そんな話をミッターマイヤーがしていたのをちらりと聞いたことがあったのだ。彼の誕生日がいつなのか、ミッターマイヤーから聞いたのだろうか。昼間彼を見かけた時、その日は彼の誕生日だと思い出した。その後、バーで出会えたのは全くの偶然だったが…。
ロイエンタールと少女が話している。少女のロイエンタールに対する態度は昨夜とまったく違って、まるで恭しいとでも言えそうだった。
―シャコンヌをあれだけの集中力で、深い情感をこめて弾けたのは、彼のおかげだと分かっているのだ。
メックリンガーは少女の今後が心配になって来た。本当に場末の劇場のバイオリニストなどで終わってしまう運命なのだろうか? 彼女はその運命を喜んで受け入れるつもりでいるように見える。だが、その他の道が閉ざされているのであれば、与えられるもので満足するしかない…。
少女のバイオリニストとしての将来性を理解している自分は、何か彼女のために出来るのではないだろうか。
「君はこれからどうする…?」
「どうする…? どうもしねえよ。昨日のあの場所はしばらく使えねえから、ちょっと河岸(かし)を変えてまた弾くさ。でも弓は何とかしねえと…」
「私の弓を持っていきなさい」
メックリンガーはきっぱりと言った。せめてそのくらいのことをしてもいいはずだ。少女は驚きと期待に目を輝かせた。
「メックリンガーさん、そりゃすげえ嬉しいけど…。でもけっこういい弓だし…」
「君のバイオリンもとてもいいものだ。君のお父さんの目は確かだね。バイオリンとのつり合いも良さそうだし、ぜひあの弓を使ってくれ」
少女はじっとメックリンガーを見つめていたが、おもむろに手をチョッキで拭くと、右手をさっと出した。
「ありがとうございます。大切に使います」
急に大人びた口調になって握手を求めた。メックリンガーはその手を取って握手を返し、頷いた。
「ぜひそうしてくれ。そして君が目指す通りのバイオリニストになってほしい」
しっかりと握り返してきた手はすでに大人のものと同じ、力強さを持っていた。メックリンガーはそのがっしりとした手になんとなく、違和感を覚えた。それに目の前の相手の足を開き気味にまっすぐ立った様子…。
「もしかして…。君はそんななりをしているが、男の子か?」
ロイエンタールが噴き出した。少女…、いや少年も楽しそうに笑い出した。
「やはり卿はずっと気づいていなかったのだな…! 昨夜あの夫人にこいつのことを言い含めた時の卿の様子から、そうではないかと思っていたが…」
「いや、しかし、スカートを履いているし…、いやはや…、確かに太陽の光の下で見ると、男の子にしか見えん。私の目はどうなっているんだ」
少年は腹を抱えて笑っていた。
「まあ、俺も女の子っぽく見せるようにしてたし…! 女の子が色っぽい曲を弾くと稼ぎがいいんだ。でも、ロイエンタールさんはすぐ俺の事気づいたみたいだったのに、絵描きが気づかないなんて…!」
メックリンガーは赤くなった。どうもバイオリンに目が眩んで、判断力が狂ってしまっていたらしい。情けない表情をしたメックリンガーを見て、ロイエンタールが笑いを収めて優しい瞳を向けた。
彼にそんな目で見られるのは初めてだったが、同情されるのはあまりいい気持ではない。
「おれはこいつを担いで逃げ回ったからな。あんな重い骨格の女の子は…、まあいるかもしれんが、これは男だなとすぐ分かった。担ぐ前に男だと気づいていたら、尻を叩いて先を走らせたのに」
「だから降ろせって言ったんだぜ」
「まあ、おれもあの時は意地になっていたと言っておこうか」
太陽の温かい日が差すアトリエに大人と少年の笑い声が和音となって響いた。昨夜と違ってたいそう仲が良いことだ。
笑みを含んだまま、ロイエンタールが再びメックリンガーに目を向けた。
「メックリンガー、考えたのだが、オーディン音楽大学に入るのはかなり大変なものなのだろうな」
「そうですな。学科と実技の試験もかなりのレベルを要求されるし…。なにより入学希望者は各都市、各惑星からもやってきますからな。有力な先生や音楽専修学校からの推薦者が有利なのですよ」
「大学入学資格を得る前にすでに相当の専門教育が必要なのだな。もちろん、それには莫大な金がかかる。奨学金は?」
「…いくつかありますが、それすら数多くの競争者の中から勝ち取らなくては。コンクールでの入賞経験やそれまでの学校の成績も重要とされていますな」
「こいつが音楽大学に入るまでに、まだまだいろいろ難関がありそうだな」
少年は目を白黒させて二人の大人の会話を聞いていた。その手が震えてテーブルクロスを握りしめた。
「何の話してんだよ…」
ロイエンタールは少年に向き直った。
「おれたちが話しているのは卿の将来のことだ。メックリンガー、ヴェストパーレ男爵夫人に彼を引き会わせたらどうだろう」
「ですが、彼女は女の子は…。いや、そうか、男の子なら話は早い。ただ彼女にこの子のバイオリンを聞かせればいいでしょう。子供過ぎるとごねるかもしれんが…」
「俺は貴族の世話になんかなんねえぞ!!」
メックリンガーは少年の肩に手を置いて、その目をじっと見つめた。
「だが、彼女は君のために一切の面倒を引き受けてくれる。この帝国はまだまだ芸術、文化に関しては旧体制のままだ。まだ、彼女のような後援者の存在が必要なのだ。それに貴族と言っても彼女は…規格外だ。私とロイエンタール提督が君やお父さんが嫌がるようなことにはならない、と誓ったら信じてくれるか?」
少年はメックリンガーの言葉にじっと耳を傾け、助言を求めるようにロイエンタールの方を見た。ロイエンタールは頷いて言った。
「だが、その前に男爵夫人が卿のバイオリンに将来性があると認めなくては話にならん。彼女に先物買いをする気にさせることが出来れば、後は卿の努力次第だ」
少年はこぶしを強く握って考え込んでいる風情だったが、その瞳には決意の光が宿っており、もうすでに彼が決心を固めたことがうかがえた。
しばらくして少年はようやく口を開いた。
「俺、その人の前でバイオリンを弾くよ。貴族だっていろいろいるって俺も分かってるんだ。メックリンガーさんやロイエンタールさんがその人が信頼できるというなら、俺も信用する。その人に俺のバイオリンを認めてもらえるよう、精いっぱい弾く」
「卿が弾くのは彼女のためだけではない。そうではないか?」
ロイエンタールの言葉に少年は目を見張り、そして頷いた。そのまだ子供じみた細い肩は震えていたが、すでに自分の将来の重みを感じ取っている。それを担ってこれから険しい道を歩んでいく覚悟がすでに出来ていた。

 

管理人のブラントに、少年をちゃんと無事に父親の元まで送り届け、今度は父親も一緒にメックリンガーのフラットまで連れて戻ってくるよう、手配をさせた。父親が理解を示してくれるといいが…。
ブラントは軍曹上がりの気が利く男だから信頼できる。少年は街の顔役に睨まれているらしいから、注意してし過ぎるということはない。ヴェストパーレ男爵夫人に無事彼らを引き渡すまで、メックリンガーには二人分の責任が課せられたことになる。だが、そのくらい引き受けなくてはなるまい。
「おれは好き勝手に口出ししてさっさと戦場に行ってしまい、結局後は卿にすべて託すことになってしまうな。あいつが言っていた貴族の気まぐれみたいなものか…」
「何をおっしゃるやら。私はヴェストパーレ男爵夫人以外にも伝手は多いし、彼らを匿って面倒を見てくれそうなあての一つや二つもあるとなれば、私で十分間に合いますのでな。それにお忘れかもしれぬが、これでも私は音楽が大変好きなのですよ」
「それを忘れていた」
ロイエンタールはくすくすと笑うと、メックリンガーの手を取って握手をした。少し考えるように握手をした手を見ていたが、近寄ってメックリンガーの背中に腕をまわし、力強く抱きしめた。
「メックリンガー、今度の戦いの後、必ずまた会おう。卿はオーディンで後方を託されることになるはずだ。長く会うことはかなわぬかもしれんが…」
メックリンガーもロイエンタールの背中に腕をまわし、しっかりと抱擁した。
「あなたもどうか壮健で。元帥閣下はもちろん、全軍の武運を祈っておりますが、あなたはことに、私と一緒にあの子の後見をするという責任があるのですぞ。戦の後、ぜひ共に後見人の成長を確かめに参りましょう」
「責任重大だな」
メックリンガーはロイエンタールの耳元に唇を寄せて囁いた。
「あなたがいてこそ、彼のためにこのような提案をすることが出来た。私はヴェストパーレ男爵夫人のことなど思いつきもしなかった。ちょっと弓をあげて、おしまいにしてしまうところだった…。あなたがいて幸いだった…」
そしてずっと言いたかった言葉を彼の耳にささやくと、ロイエンタールは困ったような、怒ったような表情をして見せた。今、彼もまた新しい希望に満ちていて、些細なことで不機嫌になったり、怒ったりしたくないのだと分かった。
メックリンガーは笑って彼の戸惑いに気づかないふりをした。彼をからかう必要はない。百合の花は贈らないでおこう。彼の誕生を祝っている自分の気持ちが伝わったのなら、それで十分だ。

 

―誕生日おめでとう。


 

 

Ende
 

 

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