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祝祭 ~3~

その人物は軍服を着ており、左手は緩く握って脇に垂れ、右手は小さなテーブルに何気ない風に置かれていた。
艶やかなダークブラウンの櫛目も美しい髪、陶磁器のような滑らかな白い肌はむしろ貴族的であるのに、軍服の威容を和らげるより、強調する効果を生んでいた。
背景は暗く何も描かれていない。ところどころ色合いにむらがあり、まだこれから手を加えるところと思われた。
それはまだ描きかけの若い軍人の肖像画だった。
「おれの顔だ」
ソファに寝そべったロイエンタールはウイスキーを一口含んだ。
メックリンガーはトイレから戻ったロイエンタールにウイスキーを与えて、口をゆすがせた。次いで与えた水のボトルには目も向けず、ロイエンタールは勝手にグラスにウイスキーを満たしてあおった。
キャンバスの向きを壁に向けようとしたメックリンガーをとどめて、ロイエンタールはソファからその絵に相対した。
「―かと思った」
キャンバスの近くに置いた椅子に腰かけたメックリンガーは、彼が何と言ったか聞き返したかったが、それを許さない何かがロイエンタールの表情にあった。
何か、遠く深い記憶をたどるような鋭すぎる瞳に、メックリンガーは見てはいけないものを見た気がした。
だが、やがてメックリンガーを恐れさせた表情は消え、ロイエンタールの瞳に別のものが宿った。そちらの方はメックリンガーが良く知る表情だった。
自らを嘲笑う、皮肉と冷笑―。
赤みの失せた唇を歪ませてロイエンタールが口を開いた。
「すまなかった、メックリンガー。おれは自分で思うより酔っていたらしいな。まさしく自分の亡霊に会った気がした。まるで鏡を見るようだとはこのことだな。さすが芸術家提督と言っておこうか」
それは褒め言葉なのだろうか?
とてもではないがそのようには思えなかった。今の言葉がこの絵を見ての第一声だったら、その少々貶すような言葉遣いであっても、メックリンガーは大して気にしなかっただろう。ロイエンタールの理性を通した言葉だからだ。
だが、罵声と嘔吐が先だった。
それこそがロイエンタールの感情そのままの反応だった。
メックリンガーは俯いて足の間に垂れた両手を握りしめた。
「この絵は潰してしまおう」
ロイエンタールは何も言わずに絵から目を背けた。
「どうして、だめだよ」
アトリエの中の重たい空気の中、少女は食べ物が入った袋を床に置いたまま、バイオリンは傍らに置き、膝を抱えてスツールに座っていた。だが、急に立ち上がって二人の方へ近づいた。
「すごい綺麗な絵なのに。せっかくおっさんが描いた絵なのに。あんたが気に入らないからって、人が一生懸命描いた絵をそんな好き勝手にするなんて、許せない」
メックリンガーは少女がなぜ自分を庇うのか分からず、そちらの方に手を上げた。
「描かれた当人が嫌がるような絵をそのままにする気はないよ」
「そこに描かれたものがにいさんは気に入らなかったとしても、俺はその絵が好きだ。おっさんだってこんなに良く描けた絵を、えらい奴が気まぐれに嫌だって言うからって、言いなりになって芸術家の魂を売り渡すつもりかよ」
ロイエンタールがソファから起き上がった。
「おれは上官の権威を笠にメックリンガーにこの絵を潰せと言った覚えはない」
少女はスツールを蹴って盛大に鼻で笑った。
「へっ、良く言うぜ! それならなんでさっきおっさんがそう言った時に、何も言わなかったんだよ! あんたの態度は俺が知ってる貴族どもとおんなじだ! 芸術を理解もせずに好き放題して、こっちから放り出したくなるように仕向けるんだ! そして、そうなったのは俺たちが才能がないせいだってあざ笑うんだ!」
その手の中のグラスを握りしめたロイエンタールの瞳が細められた。
突然キャンバスの前の椅子からメックリンガーが立ち上がった。
「よさないか! 君はなにか個人的な恨みを関係のない彼に投げつけている! 彼は君が言うような思慮のない人物ではない! 貴族であり上官であるのは確かだが、彼は私の友人なのだ。私は友人の気持ちを尊重したいだけだ」
「そんなヤワな気持ちなら絵なんか描くな! ホントに大事なもんなら、友達がなんて言おうと続けられるのに、そうじゃないってんなら、あんたも腰抜けのヨワチンの芸術家気取りの仲間だ!!」
今度はメックリンガーと少女が睨み合う番だった。
突然、アトリエ中に高らかな笑い声がこだました。
そのシンバルを鳴らすような笑いに、茫然として狂人を見るようにメックリンガーはロイエンタールに振り向いた。
ソファに寄り掛かったロイエンタールはその長く優雅な足を組み、グラスを掲げて言った。
「それほど言うなら、バイオリニスト。おまえの芸術がどれほど強固で優れたものか、見せてみろ。芸術を理解もせずに嘲笑う間抜けな貴族にその存在を証明して見せろ」
そして一瞬、メックリンガーに目を向けたが、視線を少女に戻して言った。
「おまえの芸術が優れたものであると証明できないのであれば、今後おまえに芸術は不要だ。そんな奴に楽器はいらんだろう」
「ぬかせ。どうしようってんだよ」
「バイオリンを壊せ」
その言葉はむしろ静かに発せられた。ロイエンタールの色違いの冷たい瞳に嵐が吹き荒れているのが見えた。
「じゃあ! 俺の芸術を証明してやっから、その代わり、この絵は潰させないって約束しろ!!」
キャンバスの前で足を広げて力強く立つ少女は、バイオリンを取り上げ構えようとして、右手を見て真っ青になった。
同じく顔色を失ったメックリンガーはクローゼットに静かに歩み寄った。そこから自分のバイオリンケースを取りだしてふたを開き、中から弓を出すと、少女に手渡した。
まるで魔法使いを見るような目で少女はメックリンガーを見上げた。
「弾くんだ。かつて君を虐げた傲慢で無知な輩のことは忘れろ。君が出来ることすべてを弓に伝え、弦に乗せるのだ。後はバイオリンが奏でてくれる」
右手に持った弓のバランスを確かめると少女は調弦を始めた。指使いの調子を確かめるようにアルペジオを奏でると、細く長い息を吐いた。そしておもむろに、誰かに合図するように歯の間で音を立てて勢いよく息を吸った。
途端に大音量の重音がアトリエ中に響き、メックリンガーはぎょっとして目を見張った。
―バッハ 無伴奏バイオリンのためのパルティータ 第2番ニ短調 BWV 1004
第5章 シャコンヌ…

それはこの世のすべてのバイオリニストの悪夢であり永遠の憧れ。

 

あまりに荒々しい音色にメックリンガーは耳をふさぎたくなった。技量は十分、だが乱暴すぎる。少女の荒くれた心境を映し出すかのようにそれは生々しいほど開けっ広げに怒りを表していた。
少女はロイエンタールを睨み付けながら、決してその色違いの目から視線をそらさず、激しい音を立てて弾いた。
ロイエンタールも決して少女から視線を逸らさなかった。
だが、4小節も弾かないうちにその音に変化が現れた。怒りはまだ存在していた。しかし、それは底辺に隠れ静かに次の出番を待っているかのようだった。少女の瞳には何かが宿っていたが、すでに何も見ていなかった。
躊躇いのない指が弦を走り、弓が自在に動いてひとつながりになったアルペジオを奏でる。少女は重音を弾くために体全体を前後に大きく動かして弓を勢いよく左右に移弦した。爆発しそうな激しさにもかかわらず、その動きは無駄がなく良く制御されていた。
波が次第に高まり、音高く浜辺に寄せては返すようにバイオリンの音色はうねり、近づいては遠ざかる。
メックリンガーは息苦しさを感じた。この音の洪水、激しすぎる重音の波紋。まるで重火砲に狙われたかのように艦の腹の底を狙ってそれは重々しく響く。決して自分を見逃さない敵のように彼を追いかけてくるのだ。
だがそれは徐々に大きくうねるように広がり、どこまでも、どこまでも明るい天上を目指し始めた。嵐の日の重い雲を偉大な風が吹き荒らし、蹴散らしていく。
今、最強の艦隊が敵の砲火をものともせず、その後に大軍を従え進んでいく。その堂々たる大軍の先頭にあるのは最も美しい戦艦だ。
反撃の砲火による光の剣がメックリンガーの瞼の裏に幾筋も見えた。
そんなはずはない。
このような子供がその人生で味わった苦しみと栄光を糧とし、その生の複雑に折り重なった襞をバイオリンの音色に響かせるなど、出来るはずがあろうか。

だが、少女の無心となった瞳には深い精神の光が宿っていた。その瞳はじっとロイエンタールを見つめ続けていた。
まるでロイエンタールの生を生きているかのように、彼の心理の奥深くに自らを投じたかのように、その目を離さなかった。
その色違いの瞳からロイエンタールは少女に何か力を注いでいるようだった。
やがて、波は引き、嵐はやみ、敵の砲火は徐々に静まっていった。透明で静かな風が辺りを吹いている。その静けさは沈鬱な響きを保って、ゆっくりと退いて行った。
そうして、バイオリンが冒頭の主題を今一度奏でると、再び静けさを破る様に、だがまっすぐな力強い音色が鳴り響き部屋中にこだました。少女がさっと弓を上げてもまだ、その響きは残っていた。
弓を虚空に上げたまま、とうとう少女は目をつぶった。肩で息をして、額には汗をかいていたがそれを拭うことも出来ずに、バイオリンと弓をそれぞれの手にだらんとぶら下げて、天井を仰いだ。
少女の荒い息遣いの他には誰も音も立てず、何も言わなかった。
その時、ソファからロイエンタールが立ち上がり、メゾネットの階段の方角へゆっくりと歩いて行った。彼がどこへ行くのかも分からず、メックリンガーはぼんやりとその後ろ姿を見ていた。
ふと、ロイエンタールがこちらへ背を向けたまま立ち止まり、口を開いた。
「―さっき、明かりがついた一瞬にその絵を見た時、おれは自分の母親を見たように思った」
驚きに何も言うことが出来ず、メックリンガーは茫然とロイエンタールの背中を見つめた。
「母親はおれが子供の時に死んだ。どのような顔だったか写真の記憶しかない。だが、おれはあの女を見たと思った。あの女は―」
ロイエンタールはメゾネットの階段の手すりに手を置いて、ゆっくりと手すりの表面を撫でた。
「あの女は―おれにナイフを向けた。おれを…刺そうと…ナイフの一撃で…」
まるでその言葉の響きを確かめるように、拳でトン、トン、トン…と調子を合わせて叩きながら、一言一言、区切って言った。言いながら、まるで別のことを考えているようなぼんやりとした言い方だった。
「―そう、おれを刺そうとした。おれはあの時、死んだんだ」
なぜか静かな含み笑いが聞こえた。
「だから、それを思い出させたその絵が嫌いだ。おれが過去も未来もない男ではないという事実を思い出させる、その絵が嫌いだ。だが、それを表現した卿の技量を恨むようなことはすまい」
メックリンガーはようやく塞がっていた喉が広がる様に感じ、かすれた声のまま言葉を発した。
「この絵は決して公表しない。これを完成させるために私は、持てる力すべてを惜しまず出し尽くそう。そしてこれは私にとって最高の絵となるだろう。だが誓ってこれを公表せぬ」
「―その絵は卿のものだ。それをどうするか、おれはもう口出しなどしない」
そのまま足音も立てずに階段を上がって行った。彼がメックリンガーのベッドにどさっとその身を投げかける音が聞こえた。
彼には確かに休息が必要なのだ。自分の子供時代を殺した母親との闘いに疲れた身体を休めるために―。

 

メックリンガーの目の端に、少女が重たい両腕を再び上げてバイオリンを構えるのが見えた。その弓は静かな音色を奏でた。装飾音も、重音もない、ほんの微かなビブラートのみ。低く緩やかなその音色は戦士の疲れを癒さんがために、ゆっくりと、ゆっくりと部屋の中を漂った。
 

 

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