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祝祭 ~2~

「離せ…ッ、降ろせよ!!」
ロイエンタールに横抱きに抱えられた少女がギャアギャアと喚きながら、スカートの裾から細い脛をバタバタさせた。
「離せば逃げるであろう」
重い荷物を抱えながらも大して息が上がっているようでもない、ロイエンタールの静かな声がした。
「逃げねえよ! あのおっさんが俺のバイオリンを持ってるからな! だから降ろしてくれよ!!」
だが、ロイエンタールは暴れる少女をますますしっかり抱えなおすと、どこにそんな力があるのか、一層脚力を強めて走った。
メックリンガーは明日からランニングの距離を増やすことを心に誓いつつ、必死でその後ろ姿について行った。この時ばかりは懐に抱きかかえるバイオリンを放り出してしまいたい衝動にかられた。
彼らがようやく立ち止まった時、そこはすでにバーや家庭料理の店が立ち並ぶ通りではなく、老舗のブティックやテーラー、敷居の高い高級レストランが数多く店を構える一角だった。辺りはすでに店じまいしているところも多いが、いくつかの店舗はまだ明かりを灯している。ギャングの若者などは立ち入ることをためらう地区だ。
さすがに荒い息をしているロイエンタールがどさりと少女を降ろすと、明かりの消えたブティックの壁に寄り掛かって、息継ぎの合間に笑い出した。
少女がそれを見て地団太を踏んで、両腕を上下に振った。
「…何を笑ってんだよ…! にいさんのせいで俺、あの界隈じゃもう商売できなくなっちまったじゃねえかよ!」
「そりゃ…悪かったな! だが…もとはと言えば、あいつらをひきつけたのは…、おまえの方だからな…!」
楽し気な笑い声が静かな通りに響いた。メックリンガーはその大輪の薔薇の如き華やかな笑いに、今すぐロイエンタールの口をふさぎたくなった。息継ぎに忙しく、脇腹が痛み、自分のものとも思えない太腿のせいで、そんなことをする余裕はなかったが。
ようやく心臓の状態が多少ましになり、メックリンガーが口を開いた。
「まったく…。もとはと言えば私がこの子のバイオリンを庇おうとしたせいではあるが…。しかも助勢も出来ずにいて申し訳ない。あなたに何もなくてよかった」
メックリンガーの気持ちを軽くしようというのか、笑顔のままでロイエンタールが首を振った。
「昔、ミッターマイヤーと一緒に酒場で喧嘩ばかりしていたころのことを思い出した。懐かしいな」
―ミッターマイヤーと一緒に、ということはそれほど昔の話でもあるまいに。
苦笑してメックリンガーも首を振った。まったくとんだ上級大将もいるものだ。
少女は二人の大人を交互に見て不思議そうにしていたが、気を取り直したのか、メックリンガーに腕を突き出した。
「でもまあ、あんがと、おっさん。にいさんも。そのバイオリンは親父の形見みたいなもんだからさ。今じゃ俺の飯の種だしな。そいつが壊されてたら俺、死ぬしかなかったよ」
メックリンガーは突き出された少女の手を見てハッとした。その手は確かにあのバイオリンを奏でた手なのだ。少女が熱心に練習している証拠にその手は筋張って筋肉が発達し、細いが大きな手だった。まだ15歳くらいだろうが、バイオリンをはさむべき顎の下には、大人のバイオリニストと同様に胼胝が出来ていた。
「君にバイオリンの弾き方を教えたのはお父さんかね」
少女は少し誇らしげに頷いた。
「もちろん。3歳くらいのちっちぇ時から毎日練習させられてさ。俺の親父は帝都交響楽団にいたことがあるんだぜ」
「それは素晴らしい!」
「―まあ、今じゃ飲んだくれて酒場でお情けで弾かせてもらってる、ただの酔っ払いだけどな」
「さっき形見と言っただろう」
暗い目をして少女は鼻で笑った。
「バイオリニストとしての親父はもう死んじまった。このバイオリンは親父がまだれっきとした楽団員でまともだった時に、俺のために大人用のサイズを買ってくれたんだ。俺が10歳くらいの時にすげえいいバイオリンが売り出されてさ。そうしてくれてよかったよ」
「―大人用のサイズ?」
不思議そうな表情のロイエンタールにメックリンガーは説明した。
「子供は通常のサイズのバイオリンに手が届きませんので。身長に合わせて小さめのサイズを用意する必要があるのですよ」
「なるほど。大人の体形に成長するまで、サイズを代え続けなくてはならんことになるな。さぞかし父親はお前の将来に期待をかけて、そのバイオリンを与えたのだろうな」
再び少女は鼻で笑った。
「まあそうだな。おかげで結構稼がせてもらってるよ」
壁に寄り掛かったまま、ロイエンタールはその色違いの瞳をじっと少女に注いだ。色は不明瞭だったが、片方が明るく、片方が暗い色の瞳であることは頭上からさす街灯の明かりでもわかった。少女はその特異な瞳に気づいたのかはっと息を飲み、ロイエンタールを見返した。
ロイエンタールの視線があまりに強いせいか、少女の頬は徐々に赤くなりやがて俯いてしまった。こんな子供にもロイエンタールの魅力は有効なのだろうか?
ロイエンタールは壁から離れると、寄り掛かっていた尻の辺りをコートの上からはたいた。そして何も言わずに歩き出した。
「どちらへ…?」
ロイエンタールは声をかけたメックリンガーに振り向いて、横目で僚友の方を見た。
「卿の家へ。美味いウイスキーを飲ませてくれるのだろう?」
青い方の瞳がきらりと光ったと思ったらその目は前を向いてしまい、ロイエンタールはすたすたと歩いて行ってしまう。慌ててメックリンガーはその後に続いた。
「ちょっと…! おっさん、俺のバイオリン…!」
メックリンガーは大事に抱えたままのバイオリンに気づき、苦笑して少女に振り向いた。
「君もよかったら来なさい。簡単なものでよければ食事でも出そう」
「メックリンガー、おれも腹が減った。卿のフラットに行く途中で何か仕入れていこう」
振り返りもせずにロイエンタールが楽しげに言い、その朗々とした声が通りに高らかに響いた。
―提督、どうかお静かに。
不審げにロイエンタールの背中を見つめる少女の肩を叩いて、持っていたバイオリンを渡すと、メックリンガーも笑って言った。
「女の子に不躾だったな。心配なら私のフラットの管理人の夫人に君を預かってもらう。明日の朝、管理人がちゃんと君のお父さんのところに送り届けるようにしよう」
少女は目をくるくるさせていたが、肩をすくめてなんでもない風に答えた。
「別にいいよ。あんたがご馳走してくれるってんなら、あんたんとこ行く。あんたらが俺をどうにかして楽しもうってんじゃないのは分かるよ。まあ、俺を騙そうってんなら食いもんにつられて騙された俺の方が間抜けだってわけ」
「私の主君の名に誓って、そのようなことはしない」
恥じらいもない少女の直接的な答えに、真面目にメックリンガーは答えた。
―ただ私は、君が弾くバイオリンを聞きたいだけだ。
おそらく、ロイエンタールは自分のその望みに気づいてくれたのではあるまいか?

 

ロイエンタールはかつて一度だけ、メックリンガーのアトリエ兼住居にやって来たことがある。その時たどった道を覚えているらしく、ロイエンタールは何も言わずに他の二人の先頭に立って歩いて行った。
もうすでにたいがいのレストランはどこも閉まっている時間だが、3人は途中で終夜営業の商店に立ち寄り、いくつかのサンドイッチを買い込んだ。もっとも、何を買うかを決めたのは少女で、ロイエンタールはそこにチーズの塊を追加した。彼はパックに入ったサラダの中身の鮮度に疑わし気な視線を注いでいたが、店主の夕方仕入れたばかりだという言葉に自分を納得させたらしく、それも買い物かごに放り込んだ。メックリンガーとしては夜中に少女が選んだような脂っこい揚げたイモは願い下げだったが、タイムサービスになっていたマスカットの一山を戦利品の中に加えた。
商店主がすべてを二つの紙袋に収めると、少女は両手にそれを持とうとした。だが手にはバイオリンを持っている。どうしようかと思案する表情に、脇からロイエンタールが手を出した。
メックリンガーはさすがに慌ててロイエンタールを押しのけて、両方の紙袋をさっと腕に抱えた。
「一つ持つ」
「いやいや、とんでもない。さあ、行きますか」
急き立てるメックリンガーにロイエンタールは肩をすくめて、商店の手動の扉をメックリンガーと少女のために開けてやった。
少女はロイエンタールの後姿を見てから、囁くようにメックリンガーに言った。
「なあ、あのにいさんはえらいひとなの? あんたの主君てあのひと?」
「違うよ。私とあの『お兄さん』は共に同じ素晴らしい主君に仕えている。私よりあの『お兄さん』のほうが偉い人だと言うのはその通りだ」
「メックリンガー」
前を歩くロイエンタールが声をかけた。
「なんですかな」
「腹が減った。イモが入った方の袋を寄越してくれ」
「じき私の家ですが」
「今食べたいんだ」
立ち止まって振り向いたロイエンタールが両手を差し出したので、メックリンガーは二つの紙袋の中身をのぞき込んだ。見るまでもなく、先ほどから油のにおいを漂わせていた袋の方をロイエンタールに渡した。渡した瞬間にロイエンタールの瞳がきらりと光った気がした。袋から一つイモを摘まんで口に放り込むと、再びロイエンタールはすたすたと行ってしまった。
もう袋の中身など忘れてしまったように無造作に小脇に抱えている。
わざわざイモを寄越せと言ったロイエンタールの真意に思いを巡らしつつ、メックリンガーはその後に続いた。
一行はしばらくしてフラットに辿り着いた。
入り口で管理人の妻のフラウ・ブラントを呼び、少女のために後でホットミルクを用意してもらうように頼んだ。こうすれば少女にとっても安心だろうし、夫人の存在があれば、帝国軍の誉れ高き大将閣下がいたいけな少女を連れ込んだなどと言われずに済むだろう。
ロイエンタールは階段の踊り場に立ってその様子を見ていた。メックリンガーの気づかいに対して、面白そうな表情をしている。なぜ彼が世間の常識を嘲笑うような態度をとるのか、メックリンガーには分からなかった。
少女はまるでロイエンタールの態度をまねるようににやにやしていた。だが、フラウ・ブラントに対しては膝を折ってお辞儀をして、「あんがと、おばちゃん」と言った。フラウ・ブラントは、薄汚れたチョッキと生地の薄いブラウス、縁が擦り切れたスカートの少女を胡散臭げに見ていたが、その表情が和らいだのでメックリンガーはほっとした。自分としては容姿も平凡な、痩せて子供じみた少女を相手に無体をするなど考慮するのも馬鹿げた話だが、場合によっては邪推する向きもあるだろう。夫人に声をかけたのは正解だった。
その一幕が済んで二人が階段を上がると、すでにメックリンガーのフラットの扉の前でロイエンタールが待っていた。
メックリンガーはポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。玄関ホールに立って背中で扉を押さえて、まったく趣の違う二人の客を通した。
「さあ、どうぞ。提督、どうぞ奥まで進んでください。君も先に行って。広々したアトリエで糧食を広げますかな。まっすぐ進むと右手の壁に明かりのスイッチがあります」
「これか? 違った」
「あ、それはバスルームの明かりです。そのすぐ向こうにアトリエの明かりがあります」
「おっさん、俺バスルーム先に借りていい?」
「構わないからまず中に入りなさい」
メックリンガーは扉の外の小さな明かりが部屋の中に届くように、扉を広く開けた。
バイオリンを手に少女がバスルームに入って行ったが、扉を開けっぱなしにしてすぐ出て来た。
「どこかバイオリン置くとこない?」
「先にアトリエに行って、アトリエのテーブルに置けばいい」
手探りのロイエンタールがパチッと明かりのスイッチを入れ、パッとフラット中の明かりがついた。

「―ああ!! 糞!!」
戦場で聞くような荒々しい罵声が上がり、続いてものが落ちるドサッという音。
アトリエの戸口に立ち尽くしたロイエンタールが、急にふらりと振り返った。まるで魂を抜かれたように真っ青な顔が照明の下に見えた。一歩よろめきつつ足を前に出したが、そのままもつれる様な足取りで少女を突き飛ばしてバスルームに駆け込んだ。
ロイエンタールが胃の中身をすべて吐き出す音が聞こえた。
あっけにとられた少女とメックリンガーがアトリエに入ると、真っ先に大きなキャンバスの絵が目に飛び込んできた。
天井から床までの壁一面の夜空を窓ガラス越しに背景にして、それはメックリンガーがこのフラットを出た時、筆をおいた状態のままそこにあった。
その特徴的な瞳を輝かせた、オスカー・フォン・ロイエンタール上級大将に生き写しの肖像がそこに描かれていた。

 

 

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