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祝祭 ~1~

メックリンガーは店の奥に憂鬱そうにグラスを傾けるロイエンタールがいることに気づいた。
10月のまさにこの日に、親友と肩を並べるでもなく、あるいは今月の花と共に過ごすでもなく一人で酒を飲んでいる。常であればメックリンガーは一人でいることを楽しむ方だし、他人がそれを望む気持ちを尊重してもいる。
だが、彼と二人で飲めることなどめったにないことを考えると、声をかける価値はありそうな気がした。
メックリンガーが思い切って自分の席から立ち上がり、ロイエンタールが腰掛けているカウンター席に近づく。ロイエンタールは見慣れた軍服ではなく民間人のようにダークスーツを着ている。彼もかつてのような気軽な身分ではなくなった。一人でいたいとき、軍服でいてはかえって目立ちすぎるのだろう。
「こんばんは」
静かに声をかけるとロイエンタールが顔を上げた。意外そうでもないその表情から、彼はメックリンガーがいることに最初から気づいていたのかもしれない。
「お一人でこんなところで飲んでおいでとは珍しいですな」
ロイエンタールは苦笑して、グラスを上げて頷いた。
「誰もがおれがミッターマイヤーと共におらぬ時、同じようなことを言うな。あいつとは昨夜一緒に飲んだばかりだ。今日はやつは早く妻のいる家に帰らなくてはならんのだとさ」
「…それは残念ですな。もし私でよろしければお相手を務めますが」
ロイエンタールは隣の開いているスツールに無言で手を振った。お好きなように、という訳だ。
しかし、気がつくと周囲の客がそれとなくカウンター席の彼をチラチラと見ている。あるいは彼が何者であるか、気づいた客もいるのかもしれない。そうでなくても彼の見逃しようのない整った容貌、堂々たる気品をまとうすっきりとした姿は衆目を集めるに十分だった。
「この店は少々物見高いようですな。よろしければ場所を変えて飲みませぬかな」
彼は周囲の様子に気づいているのかいないのか、片頬を少し上げて笑みを形作り頷いた。
「結構だな」
彼とゆっくり飲める場所はどこだろう―。会計を済ませ、店を出たメックリンガーはあれかこれかと考えをめぐらした。ふと、隣を見るとロイエンタールの浮かない表情に気づいた。
「不躾にもお声をおかけしたが…。お一人になりたかったですかな…」
ロイエンタールは苦笑して首を振った。
「今夜はあまり浮かれた気分ではないのはご明察だが、一人になってうじうじするより、いっそ卿と一緒に過ごして気分を変えたいな」
「さようですか」
メックリンガーも苦笑して頷いた。
「では、僭越ながら拙宅にお寄りいただいてもよろしいでしょうかな。ちょうど知り合いから美味いウイスキーを譲り受けましてね」
「それはいいな」
今度はロイエンタールは虚心ににっこり笑ってメックリンガーの誘いに乗った。

 

会員制バーの店内は気持ちの良い静けさを保っていたが、一歩ドアを出るとそこは帝都一の繁華街の真っただ中で、二人はまばゆいネオンと酔客のさんざめきに晒されることになった。メックリンガーはロイエンタールの隣を歩きながら、ちらりとその横顔に目を向けた。常の通りに綺麗に撫でつけられたダークブラウンの髪に、少し上を向いてまっすぐ前を見つめる冷酷なほどの涼やかな瞳。民間人を装った(つもりであろうが、その仕立ての良さがあまりに際立っている)ダークスーツの上に腕を通しただけのコートを羽織っている。そろそろ冬の気配を感じようかという季節だが、メックリンガー同様、彼も軍人らしくマフラーの類はしていなかった。そのコートの上からでさえ強靭な背中の筋肉がまっすぐに立ち上がった様がほの見えて、メックリンガーは思わず指先が疼いた。
彼らの主君が全軍を率いて先陣に立つとき、メックリンガーは紛れもない忠誠心ゆえに彼にこうべを垂れる。だが、それと同時にその目のくらむような人間としての造形の美にも、彼は胸が締め付けられるほどの崇拝の念を覚え跪く。
そして、今自分と共に歩む若き提督が主君のほど近くに立つとき、その姿は同様に彼の胸を熱くさせるのだった。
―しかし、それらをすべて晒して絵筆で紙に写し取りたい、と思うことは天井の美を地上にひき下ろすようなものかもしれんな。
彼の中にはその美を衆目から隠して閉じ込めておきたいという念と、同時にそれを解剖し暴きたてたいという欲望が共犯関係を結んでいるのだった。
「…何か聞こえぬか?」
唐突にロイエンタールが立ち止まって、メックリンガーは物思いから我に返った。
「何かとは何ですかな…?」
だが、彼にも聞こえて来た。彼を惹きつけてやまないもの―。楽の音、すなわち陽気なバイオリンの演奏が聞こえて来たのだった。
メックリンガーの目が輝いたのを認めて、ロイエンタールがにやりと笑った。
「どの通りで弾いているのだろうな。この喧騒の中でたいそうよく聞こえるではないか」
「すぐ近くのように思われるが…。この辺りはいささか迷路のようですな」
通りに立って道行く人々に音楽を提供しささやかな収入を得る音楽家は少なくない。貧乏な音楽学生か、あるいは年季の入った路傍の音楽家か―。いずれの場合も遠くから聞こえる音色は優れて聞こえるものだ。
その事実を口にしようとしてメックリンガーははっとした。転調を繰り返しながらもリズムを正確に刻み、滑らかな移弦と明瞭な重音、聞くものの耳を楽しませるカデンツァ―。雰囲気に流されず一音もおろそかにしない。妥協のない確かな奏法はよほどの経験を積んだものと思われた。
音色が近づいてきた。
ロイエンタールがメックリンガーの肩を叩いてにっこりしたので、闇夜の月明かりのようなその笑顔を投げかけられた方は心臓が止まりそうになった。
「―そこの小道を入ったところに違いない」
その証拠にすぐ近くで曲の盛り上がりと共に拍手が起こった。メックリンガーも微笑んだ。このような演奏だ、常であれば通り過ぎるような音楽に縁遠い酔客さえ、歩みを止めているに違いない。
だが、突然の叫びと共にその音楽はプツリと途切れた。

 

「ガキが! いい加減にしやがれ!!」
男の手の中でバイオリンの弓がバラバラに割れた。周囲にいた人々が慌てたようにその場から離れていく。
弓があまりに簡単に割れたので、男はあっけにとられた顔をした。だが、気を取り直して、仲間が取り押さえている少女の手からバイオリンを取り上げた。
「返せ! そいつに傷をつけたら承知しねえぞ!!」
「へっ、承知しねえが呆れる。そいつらから逃げられねえでどうしようってんだよ」
男はバイオリンのネックを持ちレンガの壁に向かって振りかぶった。
「…よせっ!!」
少女は身をよじって拘束から逃れようとし、喧嘩中の猫のような悲鳴を上げた。
壁に叩きつけられバイオリンは木っ端みじんに―。
だがそこにメックリンガーの両腕が伸び、バイオリンの胴をがっしりと抱き留めた。エンドピンの金具が彼の額をかすめたが、痛みになどかまっていられなかった。
「何を揉めていたのか知らぬが、物に当たって粗末にするとはけしからんな」
メックリンガーは自分の上着の懐の中にバイオリンをたくし込んで、しっかりと抱きしめた。足元に散らばる、棹からチップが弾けて毛がばらけた弓を痛ましそうに見て首を振った。
「まったく許しがたい」
「なんだてめえ、いきなり割り込んで邪魔する気か、おっさんよ!」
男はメックリンガーに拳を振り上げたが、その拳が目標に届くことはなかった。後ろからロイエンタールの手に手首を取られ、捻りあげられて男は悲鳴を上げた。
「離しやがれ! 何しやがんだ!」
男は暴れるがロイエンタールの手はびくともしない。少女を捕まえていた男のうち一人が仲間を助けようとロイエンタールに飛び掛かった。だが、その足元にメックリンガーが自分の足をひっかけ、男はまともに地面に転びそうになってたたらを踏んだ。
倒れ込んできたその男に向かって、ロイエンタールは捻り上げていた男を放り投げた。
男が二人折り重なるようにして倒れた。
最初の男が下敷きになっていた地面から飛び起きて、「…舐めやがって!」と叫んでロイエンタールに拳を振り上げた。倒れ込んでいた男も、少女を捕えていた仲間も拳を握ってロイエンタールに突撃して行った。
「…野郎!!」
メックリンガーは確かに、帝国軍の双璧の片われ、希代の名将たる誉れ高き、ロイエンタール上級大将の悪童じみた笑顔を見た。
気持ちよさそうに腕を目も止まらぬ速さで繰り出すと、第一の男の鼻っ柱に拳がめり込んだ。倒れ込んだ相手に膝蹴りをくらわして、その背中を両手でつかむと再び男を向かってきた敵に放り投げた。
第二の男が放り投げられた男を危うく避けてロイエンタールに手に持ったナイフを突き出したが、ロイエンタールはそんなちゃちな刃物は恐れていなかった。悠々と懐深くまで誘い込むと、そいつにも急所に膝蹴りを食らわせ、激痛に屈みこんだ後頭部に強烈な手刀を落とした。三人目の男はがむしゃらにロイエンタールに向かって行ったが、もはやその覇気は失われていた。その男にもロイエンタールは軽々とアッパーカットを食らわせて、相手をのしてしまった。
「すごい、すごい!!」
少女が壁際から手を叩いて言った。ロイエンタールはぎろりと少女に目を向けたが、黙ってメックリンガーに振り向いた。
「卿はなんともなかったか」
問われてメックリンガーは笑い出した。
「何ともないどころか、お陰様で私に欠けたところはありませぬぞ。いやはや、あなたにかかっては大の男3人でも形無しか」
だがロイエンタールは笑いもせずに眉をひそめてメックリンガーの額に指を置いた。その指先が触れた個所にぴりっとした痛みが走り、そういえばバイオリンのどこかがぶつかったらしいことを思い出した。
「―大丈夫ですよ」
むしろ自分の頭とかち合ったバイオリンが壊れなかったことにほっとした。
「無茶をするではないか。このような輩の諍いのただ中に飛び込んでいくとは」
懐に抱いた楽器をのぞき込みどうやら無傷らしいことを確かめると、メックリンガーは肩をすくめた。
「場合が場合でしたのでな。誰の持ち物であろうと、楽器を壊されるのを黙って見過ごす訳にはいきませんな」
その時、少女が「あっ!!」と叫んだ。
「あいつら仲間だよ! やばい!!」
帝国軍の重鎮二人はその声に振り向くと、数人のすさんだ様子の若者がやって来るのが見えた。こちらの様子に気づいたらしい彼らは、警戒しつつも喧嘩を売る気満々で近づいてくる。ロイエンタールがすでにのした3人を見れば、何があったか一目瞭然だ。
―まずい。たかが民間人でも5人もいてはこちらは多勢に無勢だ。
しかもストリートギャングと上級大将を争わせたとあっては…。
若者たちは明らかに彼らを目指して通りを進んでくる。目の端に少女がじりじりと後退するのが見えた。少女はこの辺りの地理を熟知しているはずだ。メックリンガーはいざという時は、この少女に道案内をさせて退却するつもりで前後に意識をめぐらした。
一番先頭にいたリーダー格と思われる若者が、懐に手を入れつつ、口を開こうとした。
その時、ロイエンタールが逃げ出そうとした少女の襟首を左手でガシッとつかむと、右手で抜き手も見せずにブラスターを構え、発射した。
銃声と共に夜空に瞬くネオンサインがあちらこちらで割れた。悲鳴と怒号の中、若者たちの頭上にガラスの破片が降り注ぎ、明かりが消えたせいで辺りは薄暗くなった。
「行くぞ!!」
ロイエンタールは脇に少女を抱え、メックリンガーはといえば他人のバイオリンを懐に抱えて、脱走兵のように逃げ出した。

 

 

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