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ならず者と貴族(承前)

ロイエンタールは裸のまま、床にひかれた敷物の上に座ってじっと眠る男の顔を見ていた。目の下に薄っすらと隈があり、目じりには微かなしわがある。額に垂れる白髪と相まってこの男が自分よりずっと年上だということに改めて気づいた。そもそもこの男にこれほど近づいた者は自分以外にいないのではないだろうか。
―まあ少なくとも最近おれ以外に近づいた者はなさそうだな。
ロイエンタールはテーブルに置かれたウイスキーのグラスに気づき、その中身を飲んだ。氷が解けてほとんど水になっていたが、喉が乾いていたのでちょうどよかった。我ながらあれほど喘ぐとは、声を上げすぎだ。
ふと、オーベルシュタインのデスクの上にあの剣が置かれているのに気付いた。すっかり忘れていたが、この部屋に戻った時にオーベルシュタインがその手に持っていたのをかすかに思い出した。
―どうする? これを持って帰ればお誂え向きだが、まるでそのためにこいつと寝たみたいになるではないか。
彼はシャツを羽織っただけの裸のまま、腕組みして考え込んだ。剣を手に入れるために男に身体を差し出し、騙したと思われたいのか?
だが、すぐにそんなことを思い悩む自分を嘲笑って剣を手に取った。
―何を気にすることがある? オーベルシュタインとてむしろおれがやりそうなことだと思うだろう。それではその期待通りにしてやるのもよかろう。
その後はもう何も考えずにてきぱきと服を着た。外套はすっかり乾き、火に近づけすぎたせいで温まっていた。それをこの屋敷に来た時と同じように羽織って、剣を取り上げた。
ふと、ソファに疲れ切った身体を横たえているオーベルシュタインを見下ろした。裸の痩せた身体は、暖炉のおかげで温まった部屋の中では寒さを感じることはないだろう。だが―。
ロイエンタールは脱ぎ捨てられたシャツを拾い上げ、オーベルシュタインの身体に掛けた。気休めのようなものだが、見た目にも寒々しさを感じなくなった。さらに屈みこもうとして思いとどまる。何をしようとしている? 眠り姫に接吻でもして起こしたいのか?
暖炉の火を少し調節して強めると、ロイエンタールはようやく満足して部屋の扉を出た。
出た途端、あの老犬が廊下で寝ているのに気付き、びっくりした。老犬は少しだけ顎を上げてロイエンタールの方を見た。
「―おまえ、主人を守っているのか?」
老犬が大きな耳を前後に動かしたので、まるでロイエンタールの言葉を聞いて理解さえしているようだった。その柔らかい耳を撫でてやり、顎の下を掬ってやると気持ちよさそうな顔をした。さらにしっかり撫でてやると、老犬の首につけられた首輪の金色のメダルに指が触れた。
首輪は真新しく革も艶やかだが、メダルは傷だらけで薄汚れていた。おそらく、首輪はオーベルシュタインがこの犬を拾って来た時に新しくつけられたものなのだろう。メダルはこの老犬がもともとしていた首輪に以前の飼い主がつけたものかもしれない。
メダルには言葉が刻まれていた。
「―Schlingel シュリンゲル」
老犬はその言葉を聞いて、ぴくっと勢いよく顔を上げた。ロイエンタールがこの屋敷に来て初めて見る老犬の目覚ましい動きだった。
「ならず者か―。おまえ、大した名前を付けられたのだな」
老犬はまっすぐロイエンタールを見上げて、新しい命令を待つかのように前足をぴったり揃えて座っていた。この犬種本来の精悍さがその痩せた身体に蘇ったようだった。
ロイエンタールは出て来たばかりの扉をさっと指さした。
「部屋に戻れ。卿の主人を守れ」
その言葉に、老犬はパッと立ち上がってすたすたと扉の隙間から部屋に入って行った。命じたロイエンタールも驚くほどきびきびとした歩みだった。
ロイエンタールはくすっと笑った。おそらく、オーベルシュタインが自らこの犬を長時間散歩させたり、餌をやったりするわけではなく、それはこの家の従僕の仕事だろう。だが、あの老犬はオーベルシュタインを主人として認めている。犬に必要なものは食事や散歩だけではない。もちろん、それは非常に重要な要素だろうが―。
―食事や服や表面的なものをいくら与えられようと、心が飢えていれば…。
だが、そんなことはこの場合関係ない。考えるのを止めるのだ。
ロイエンタールは考えるのを止めた。彼は二十年近く、何度もこれを繰り返してきたので、もういつでも考えることを忘れることが出来た。だが、いずれまた戻ってくる。
一時ではあるがやっかいな思考を忘れたロイエンタールは、扉の中から部屋の中をのぞいた。老犬が暖炉の前に陣取って、丸くなっているのが見えた。
大丈夫―。
彼は扉を閉めて静かに廊下を歩いて行った。

 

―シュリンゲル、このいたずらっ子め、さあ、獲物を取ってこい。
急に昔を思い出しちまったぜ。
あのロイエンタールってやつは俺さえ忘れていた名前をなぜ分かったのだろう。あいつに久しぶりにあの名前で呼ばれて、俺は昔みたいに体が動くのを感じた。あの頃はもっと足腰もピンシャンしてたもんだがなあ…。
だが、もう昔の話さ。かつて俺には別のご主人がいたことを今でもうっすらと覚えている。あのロイエンタールと似たような若い人間の男だった。ご主人は俺を連れていろんなところへ猟をしに行ったもんさ。
あのご主人はいったいどこへ行って、そしてどうしちまったんだろう。
ある日突然、あのご主人はいなくなった。俺はどこかに閉じ込められちまって、ある時、隙をついてご主人を探して逃げ出したんだ…。
そうだ、思い出した…。
そして、しばらくしてから今のご主人に出会ったんだっけ…。

 

眠っていたはずの老犬が突然パッと顔を上げたので、ロイエンタールは口元に運びかけていたグラスを途中で止めた。犬は立ち上がって身震いすると、何かに耳を澄ますように首を伸ばして遠くを見た。そして敷物から扉まで一直線に走って行ったかと思うと、また戻って来た。敷物の上に立って耳をピンと前に向け、緩く尻尾を振って扉の方を見ている。
「外に出たいのか?」
なぜ自分は犬に話しかけているのか―。何かを訴えかけるような老犬の目のせいで、思わず声をかけてしまう。ロイエンタールはソファから立ち上がり、扉を開けに行った。老犬はするっとその開いた扉から廊下へ出て、小走りに走って行ってしまった。
庭に用を足しにでも行ったのか? だが、犬が走って行ったのを合図にしたように急に玄関ホールが騒がしくなった。執事や従僕たちがパタパタと忙しそうにしている。
玄関前の車寄せに地上車が入ってくる音が外から聞こえた。この家の主のご帰還だ。
扉から玄関ホールの様子を伺うと、老犬のロープのような尻尾が盛大に振られているのが見えた。
―そうか、あいつには主が帰って来たことが真っ先に分かったのだな。
首を伸ばしてその様子を見ていたロイエンタールは、はっとして扉から離れた。扉をそっと閉じて部屋の中に戻る。
自分はあの犬のようにオーベルシュタインを出迎えに行きたいのか。玄関まで駆けて行こうとでもいうように扉から身を乗り出していた。自分に尻尾があったらさぞ勢いよく振ったことだろう。
腰に重しをつけたようにゆっくりとソファに腰を下ろす。玄関の大きな扉が開く音がし、ホールに複数の人声が響く。足音と人声の中からある一人の人物の声を聞き分けようとしていることに気づいた。
昼間、閣下の御前に伺って無事退院したご報告を申し上げた。その時、あの男もその場にいてお互い何でもないみたいに目礼を交わした。確かに、その時はああ、いるなと思った程度でそれ以上何とも思わなかった。
なのに、なぜ今、自分の心臓はうるさいくらいに音高く鳴り、早いリズムを刻んでいるのか。
二人だけで会うのは病院にあの男が見舞いに来て以来だと気づき、ロイエンタールは顔を覆った。まったく、なんというザマだ…!
軍人の規律的でためらいのない足音に、老犬の軽いリズミカルな足音と執事のものらしい控えめな足音が混じって、廊下をこの部屋に近づいてくる。執事は傍らにいて主に何か話しかけている。二人分の落ち着いた声音が廊下に響き、それが徐々にはっきりした音になってくる。
ロイエンタールは我慢できずに立ち上がった。その時、扉が開いて、老犬が真っ先に部屋に入って来た。ロイエンタールの誇りのためにはそれでよかった。そうでなければ今にも扉まで駆け寄っていきそうだったから。
彼はまるで行き先を失った艦に取り残されたかのように、茫然とただまっすぐ立っていた。
そうやって扉がさらに大きく開き、一人の男が姿を現すのを待った。
「―ロイエンタール?」
彼が現れるその瞬間に、ロイエンタールは目を閉じた。


Ende
 

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