
Season of Mackerel Sky
日が昇るころ~3~
レッケンドルフの毎日はかつてとまったく変わってしまった。閣下の元にいた日々はなんと充実した忙しい日々だったことか。だが、今はハイネセンの官舎の自室でただ待機することが彼の仕事になった。
1月の間は、ワーレン閣下の指揮で内乱の調査のための事情聴取を受けた。調査官はみな彼ら元幕僚たちに同情的で、レッケンドルフは一度も不快な思いをせずに済んだ。閣下の副官の端末を調査することを思いついた者はいないようだった。少なくとも、そのことでレッケンドルフに質問をする者はいなかった。
2月には調査報告書が完成し、レッケンドルフは自分の証言に間違いがないことを確認し、署名を求められた。じきにフェザーンへ帰還する軍艦のどれかで移送されるだろうと期待した。
だが、3月に入ってオーベルシュタイン軍務尚書がハイネセンへやってくると、状況は一変した。提督たちは重症の負傷を負っている者以外、すべて既存の艦隊に振り分けられ、かつての閣下の艦隊は完全に解体された。内政部門の者は全員軍務尚書の掌握するところとなり、残る後方担当の事務官などもすべて新しい上官のいる現場に復帰していった。
レッケンドルフのような閣下の幕僚たちのうち事務系の者がもっとも使い道がない者たちだった。かつての新領土総督の副官などを喜んで引き受けようという上官はなかなかいないだろう。レッケンドルフ自身も、もし大将より格下の上官に仕えるように任じられたら、自分がその上官に満足できるかどうか、心もとない気がした。
―たかが少佐で上官を選ぶとは高慢だな、エミール。だが、閣下があまりに素晴らしい上官だったせいだ。あれ以上の方はおそらくそうそうおるまいに、高望みしたくもなろうというものだ。
軍務尚書、あるいはレッケンドルフらの人事を担当する者は、彼らの処遇の検討を後回しにしているようだ。週に1回、出頭して所在の確認を取るだけの、無為の日々をレッケンドルフはすでに2か月も続けてきていた。皇帝自ら当地においでになったこの頃では、暇を持て余す自分に比べ、誰も彼も忙しそうだ。ますます自分の処遇がはっきりするのはずっと後になりそうだという気がした。
かつては上官に従って最前線にいたものだったが、今では帝国軍のあらゆる戦闘は彼の頭上を通り過ぎるばかりだった。
外面的には彼の生活は穏やか過ぎるものだったが、内面的にもそうだとはいいがたかった。彼は毎晩のように悪夢にうなされた。それは決まって2種類の悪夢に限定されていた。ひとつはトリスタンが被弾した瞬間をあらゆるパターンで再現したものだった。もうひとつは、閣下が亡くなったあの時、あと少しで間に合わなかったと分かった瞬間の夢だった。どちらの場合も、現実と同じようにレッケンドルフにはどうすることもできず、ただ、閣下に降りかかる運命を傍観しているだけだった。
毎朝、悪夢の名残に胸をとどろかせながらのろのろと起きると、ぼんやりしながら時間をかけて身支度をし、一応、まともだと思われる様子になってから外に出る。たいして食欲もないままに適当な店で食事をして、だいたいそのまま2、3時間コーヒーを飲んで時間をつぶす。長居し過ぎたその店をしぶしぶ出て部屋に戻ると、アルコールを片手に自分の端末を開き、かつての業務日誌をあてどもなく眺めて夜中過ぎまで過ごした。
だが、その日の朝、レッケンドルフはやはり悪夢をみたもののその影響は弱く、少し生気を取り戻していた。
昨晩業務日誌を眺めているときに、アルコールの影響もあってか、ふいにその日閣下がおっしゃった言葉がよみがえったのだ。彼はその言葉を忘れたくなくて、急いで日誌の備考欄に入力した。他にも覚えていることがないか、次の日のページをめくると、その日の状況が克明に思い出された。それを再び備考欄に記した。それを続けていくうちに、彼には閣下についての膨大な記憶があることに気づいた。おそらく、今すぐそれを掘り起こして、留めておかなくては、この記憶はどんどん時間と共に薄れていってしまうだろう。
遅くまで起きてその作業をしていたせいに違いないが、レッケンドルフは久しぶりに腹が空いていることに気づいた。官舎の自室にはなにも食べ物がない。外に出て近くのカフェへ飛び込み、サンドイッチと持ち帰り用のコーヒーを注文した。それを手に持って急いで自室に戻る。すでに起動して彼が戻るのを待っていた端末の前に座り、サンドイッチをかじりながら昨晩の作業を再開した。
―おれの副官は細かいことまでよく覚えている。コンピューター並の記憶装置を持っているらしい。
とは、レッケンドルフがしばしば上官から言われたことだ。彼自身としては特に自分が記憶力に優れていると思ったことはなかった。この業務日誌のようにしっかり記録を取り、業務についてまとめていることで記憶が整理されているおかげだと思っていた。だが、確かに自分は閣下に関することはよく覚えているようだ。
無味乾燥な業務日誌に肉付けしていくように、彼は事細かにさまざまな記憶を入力していった。一瞬でも目を離せば記憶はどこかに消えていってしまうのではないだろうか。彼はそれを恐れて、夕方を過ぎても端末の前に座り続けていた。
ふと、気づくとレッケンドルフは端末の前に頭を垂れて眠り込んでいた。目をこすって作業を開始しようとしたが、彼の焦燥感をよそに記憶巣は活動を停止してしまったようだった。
さすがに一気に莫大な量の日誌に立ち向かおうとしていた愚に気づき、レッケンドルフは端末を閉じて立ち上がった。食事をして、しっかり睡眠を取ったらまたちゃんと頭が働くようになるだろう。焦りは禁物だ。
もうすぐ1900になる。彼は久しぶりに美味い料理をいいレストランでとりたくなった。たった一度だけ、閣下や幕僚の同僚たちと一緒に食事をしたレストランがあった。大仰なことを嫌われる閣下らしく、そこは高級ではあったが、プライバシーが保たれつつも開放的な雰囲気を醸し出していた。一人で食事をしても場違いではないだろう。それに、閣下が自分に生きる目的を思い出させてくれたことに感謝しつつ、少しいい食事で今の心意気を祝したくなった。
レストランにビジフォンをかけてみるとカウンター席でよければ、という返事だった。レッケンドルフは快諾して急いで私服を着て出かけて行った。
レストランでは見た目に楽しい前菜から始まり、食欲をそそるサラダ、旬の野菜のスープ、シェフの創意工夫があふれた魚料理を堪能した。コクのあるフォン・ド・ヴォを添えた牛肉のソテーを食べると、レッケンドルフはすでに満腹に近くなっていることに気づいた。フルコースの量くらい、以前なら何ともなかったものだが、アルコールばかり飲んでいたせいで胃が小さくなってしまったらしい。アヴァンデセールは遠慮しようと給仕に合図した時だった。
テーブルの上の食器がカチャカチャと音を立て、天井のシャンデリアが大きく揺れた。地震かと思う間もなく、店中のガラス窓が振動を立ててひび割れ、吹き飛んだ。
レッケンドルフは爆風で椅子から床になぎ倒された。
彼はとっさに椅子から倒れた瞬間に近くのテーブルの下に潜った。砲撃に遭遇したと一瞬思ったが、ここはハイネセンの平和な市街地だ。イゼルローン革命軍とも和平が結ばれたはずだ。内乱か、テロ、単なる爆発事故―。
レストラン内は照明がすべて吹き飛び、割れた窓から外の明かりがさしていた。火災が起きている。そこかしこから悲鳴やうめき声、泣きわめく声が聞こえた。
レッケンドルフは自分が息をし、どこにも痛みを感じないのを確かめて、テーブルの下から顔を出した。
「火が来るぞ! 逃げろ!!」
男の声で誰かが叫んだ。
「逃げる場所などあるか! そこらじゅう火の海だ!!」
窓際に駆け寄った男が怒号を上げたので、悲鳴がそれに答えた。何かがはぜるような大きな音がたびたびして、火災による小規模な爆発が方々で起きていることが分かった。レストランの中にも火災による煙が漂ってきていた。
「どうか皆さん、慌てないでください! シェルターにご案内します」
レストランの支配人の者と思われる落ち着いた声がして、人々に訴えかけた。わっと狼狽えた客たちがその声がする方に殺到した。その人々に押されて、レッケンドルフの方に女性が倒れ込んできた。
「止まれ!」
帝国語の厳格な静止の言葉に驚いた客たちが立ち止まった。どうやら帝国語は何らかの効果を発揮する力があるようだった。
倒れ込んだ女性を支えて、レッケンドルフは苦心しつつも同盟語に切り替えて客たちに言った。
「そこまで走って行く元気があるなら、周りに倒れている人たちを連れていくんだ。二人一組! 足元に気を付けて!」
「あんた何様だ! 私に命令するのか!?」
そばにいた恰幅のよい男が喚いたが、落ち着いた声がして遮った。
「彼の言うことはもっともだ。あんたの足元にも人が倒れている。手を貸してくれ」
その声の人物が呻く血まみれの男性を担ぎ上げたので、恰幅の良い男もしぶしぶその男性の足を支えた。レッケンドルフの指示通りに、元気があるものは負傷者に肩を貸し、あるいは二人一組になって担ぎ上げて、支配人の誘導に従ってシェルターに向かって行った。
シェルターは店の地下にあり、店の従業員と客たちだけなら十分な広さがあると思われた。だが、爆発時に店内にいたと思われるより多くの人がシェルターに逃げ込んでいた。
「なんでこんなに人がいるんだ。酸素がなくなってしまう。息苦しいぞ」
誰かの不満を上げる声がした。
「このシェルターはこの店だけのものではないのです。近隣の商店や住民も使用することになっています。私の隣人たちも歩いて来れる人はここまで来ることが出来ました。幸いでした…」
支配人の言葉はたどり着けなかった者たちの存在を思い起こさせた。自分の安全だけを考えていたことを恥じたのか、不満の声を上げた者は押し黙った。しかし、心配する声は後を絶たなかった。
「でも、本当に大丈夫かしら。酸素は間に合うの? もし、ガスが入ってきたりしたら…」
「一定時間耐えられる酸素供給設備と換気装置、そのための自家発電装置がシェルターには義務付けられている。どうやら発電設備に問題はないようだから、しばらくは安心できるでしょう」
レッケンドルフが答えると、「…それならいいですけど」という少しも納得していない返事が返って来た。
「そうそう、彼の言う通りですよ。それに幸いここはレストランだから食べ物には困らない。シェフにコースの残りの料理を持ってきてもらおうかな」
先ほどレッケンドルフを支持した人物と同じと思われる男の声がして、周囲に乾いた笑いが起こった。
自分は店の奥のカウンター席にいたため、大した被害にあわずに済んだらしい。彼を助けて声を上げてくれた人物も同様だった。その男性は久しぶりに会った娘と食事をするため店の奥の静かな場所を予約したおかげで、大きなけがをせずに済んだと言った。彼の娘とは先ほどレッケンドルフの方に倒れて来た女性だった。彼女は爆風で他の者同様になぎ倒され、打ち所が悪かったのか、大層具合が悪そうだった。
レッケンドルフは彼女に水のボトルを持って来てやり、父娘に感謝された。男性はクロード・ボードリエ、娘はエステルといい、フェザーンとハイネセン間を行き来する貿易商だと紹介した。
「まったく、ついこの間まで私は商用でフェザーンにおりましてね。帝国軍が戦いに出たのでこちらへのルートが開けて、やっとハイネセンへ戻れることが出来て、ようやく会えた娘と楽しく食事をしていたら、この有様ですよ。まったく分からないもんですな」
「でも、もしパパが戻らなかったら、私ハイネセンに一人でいることになってたわ。今日はもとから外出する予定だったのだもの。一人でこんな目にあったとしたらとても耐えられない」
そこで娘はレッケンドルフの方を見て、青ざめた顔色ながら健気に微笑んで言った。
「そうなっても、またあなたのような親切な方に助けていただけるかどうか、分かりませんものね」
「…そうですね。私も本当に急に、今夜この店で食事をしようと思い立ったので、うまくあなたのお役に立てて何よりでした」
レッケンドルフは我ながら運がいいのか悪いのか、不思議な気持ちになった。今まで何百回と上官に従って戦闘に巻き込まれながら、軽い怪我以上の負傷は負ったことがなかった。それが毎日平穏に過ごしていた矢先に、幸い無傷ながらこのような事態になるとは。
「こちらへはよくいらっしゃるの?」
「いえ、一度上官と一緒にこちらへ食事に来たことがあって…。その方の思い出を偲びたいと思って…」
娘とその父親のもの問いたげな視線に気づき、レッケンドルフは説明した。
「失礼しました。私は帝国軍の軍人です。私の上官は…、先日戦死されましたので」
「そうですか、それはお気の毒に。だが、もうイゼルローンとの戦いも終わり、このハイネセンにも平和が訪れそうですね。いや…、この様子ではどうだか…」
シェルターの人々は息を潜めて夜を過ごした。数回、備蓄の水の供給があり、本当に店のシェフたちが地下の冷蔵庫から食材を集めて簡単な食事を出した。店で提供していたような高級な料理とは全く違ったが…。非常食にはまだ手を付けないでおこうというのが、支配人とレッケンドルフ、ボードリエたちが決定した考えだった。なぜかレッケンドルフも意見を求められ、彼はこのシェルターの代表の一人に据えられたようだった。
そのレッケンドルフの提案により、次の日の昼頃から外部に向かって救援を乞う通信を呼びかけ始めた。外の状況は分からず、その場にいた者の中で比較的胆力のあるものでさえ、外に出てみようという気にはならなかった。
「必ず帝国軍が事態の収拾のために出動するはずです。今は通信状況が良くないのかもしれない。しかしいつか必ずこちらの通信を拾うはずです。あきらめてはいけない」
「もし通信機器が壊れていたら?」
「こちらの通信は正常に働いています。もし、3日待ってもなにも起こらなければ、その時は外に出ることを考えてみましょう」
だが、5日目にようやく外から通信に対する応答があり、彼らのシェルターの地上出口は完全に倒壊した建物に塞がれ、自力では脱出できないことが分かった。応答した相手は帝国軍の地上部隊の通信士官だと思われた。
「私はエミール・フォン・レッケンドルフ少佐。被害にあった時からこのシェルターに他の民間人と一緒に閉じ込められている。けが人や老人が数多くいる。即時の救援を乞う」
『…失礼しました。レッケンドルフ少佐。所属と認識番号をどうぞ』
「―現在は待機中で所属部隊は答えられない。認識番号はXXX-XXXだ」
『レッケンドルフ少佐、確認が取れました。あなたは行方不明者リストに載っておられましたよ。我々は救援のために鋭意活動中です。しかし、ハイネセンは壊滅的な状況なのです』
通信士は救援活動が難航していることを告げた。特にこのシェルターは倒壊した建物に完全にふさがれているため、助け出すのに時間がかかるだろう、シェルター内の状況が比較的良好であるため、後回しにされる確率が高いと言った。
「何を言うか! ここにもけが人が多数いて、一刻を争う状況だ! 外に出る状況を作ってくれさえすれば、後は自力でなんとかする!」
『申し訳ございません。事情はよく分かります。しかし、急を要する援助が必要とされる場所が多すぎるのです。なんとか少佐が救援のリストの上位に上がるようにします。しかし、私は救援の順番を決める立場にはないのです。期待なさらないでください』
「―私だけの話ではないのだ! ここには―!」
だが、通信は一方的に切れた。レッケンドルフは舌打ちして通信機を叩いた。帝国軍の官僚主義的なことときたら! 気がつくと、ボードリエやシェルターの他の住人たちが彼の様子を見ていた。
「レッケンドルフ『少佐』、どうもよくない状況のようですね」
少佐と呼ばれてレッケンドルフは自分の通信をすべて彼らが聞いていたことに気づいた。帝国軍の軍人であることがこれほど情けなく感じられたことはなかった。ここにいるのは全員旧同盟の市民だ。帝国軍が無慈悲なうえに無力だとは思いたくなかったが―。
「何とかして早く救援が寄越されるようにします。だから、皆さんももう少し頑張ってください」
「頑張るってどのくらい?」
レッケンドルフは答えなかった。座して待っていてはいずれ豊富な備蓄も尽きる。住人の心身の健康状態も不安だ。とにかく、自分たちが助けられることだけを考えるのだ。