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日が昇るころ~2~

インリッヒ・ランベルツの抑えようにも抑えられぬ、苦しげな泣き声と、何事かを抗議して訴える赤ん坊の泣き声が部屋中にこだました。レッケンドルフは閣下が亡くなってからのこの2時間、少年をこの部屋に放置したまま、大人たちの誰も彼にかまわずにいたことに気づいた。少年の腕の中にいる赤ん坊のことも誰もが見ないふりをした。誰も少年たちのためになることなど、何も考えられずにいたのだ。少年と赤ん坊が二人でその存在を主張して泣き叫んでいるように聞こえ、レッケンドルフは後悔の念に駆られた。

―閣下が亡くなってたった2時間で、もうすでに私たちには確固たる決断力など失われてしまった。誰もこの少年がこれからどうするべきか判断することなどできず、その責任を取ることも出来ないのだ!

ミッターマイヤーが、バイエルラインに指示をして、少年と赤ん坊を落ち着かせてやるようにと別室へ連れ出させた。レッケンドルフはミッターマイヤーがハインリッヒの背中を優しく叩いてやり、「大丈夫だ、心配するな」と小声ながら力強い声で言ったのを聞いた。

そうだ、すべては勝者であるこの人がこれから自分たちの運命を定めるのだ。

閣下は、今は眠るかのように静かに、執務机の椅子に腰かけていた。レッケンドルフはそのそばに立ち尽くしていた。そこがこの数年来彼が立つ場所であり、それを今になって譲る気にはなれなかった。

ミッターマイヤーが軍用ケープを自分の肩から外し、それを眠る閣下の肩にそっとかけた。その時起きた小さな風で、机の上からメモ用紙がひらっと翻り、床に落ちた。レッケンドルフは自分の足元に落ちたその小さな用紙を手に取ろうと床に屈みこんだ。

ふと、横を見ると、閣下の手が脇に垂れ白いハンカチを握っているのに気付いた。

「なんだ? なにを見つけた?」

ミッターマイヤーが聞いたのでレッケンドルフは顔を上げた。

それは4つほどの意味のない単語が連なるもので、それを書いたのが誰だか知らずにいたら、単なるいたずら書きだと思っただろう。だが、レッケンドルフにはこれがハインリッヒの手になるものだと分かった。

ミッターマイヤーが彼の手の中をのぞき込んで言った。

「ロイエンタールが書き遺したものか? いや、これは彼の字では…?」

その言葉に、レッケンドルフは急に体中に血流がみなぎり、自分の背が伸びたような気がした。自分より低い位置にあるミッターマイヤーの目をまっすぐ見下ろした。

「閣下はお怪我のためにペンを持つことすらかないませんでしたでしょう。もし、そうであっても閣下が何かご自分のために書き遺したりなどなさるはずがありません!」

ミッターマイヤーの無表情な顔を見て、レッケンドルフは自分の分をわきまえずに口を利いたことに気づいた。だが、握った拳が震えるのを抑えることが出来ずにいながらも、そのまま黙っていることは出来なかった。

「そればかりか、あの、トリューニヒトの奴めを、自らの手でブラスターで撃ちなさったのです! これは閣下が皇帝陛下のおん為になさったことに相違ありません!」

不遜にも自分を睨み付けるレッケンドルフに、ミッターマイヤーはひたむきに目を向けた。レッケンドルフはその灰色の瞳の奥に見えたものにハッとして口をつぐんだ。二度その目を見ることは耐えがたいと思うほど、ミッターマイヤーの目には強い光りが宿っていた。

自分はこの人が誰だか、忘れてしまったのだろうか。この人は本当の敵ではない、閣下にとって真実の友であり、自分たちがこの人に対して敵意を持つことを閣下はお許しにならないだろうに。

「…そうか、ロイエンタールめ…。自らの手で…」

深いため息とともに、ミッターマイヤーはそう言うと、親友に向き直りその肩に手を置いた。しばしその親友の血の気の引いた蝋のように滑らかな頬を眺めていたが、やがて手を放し、そのそばを離れた。ミッターマイヤーはレッケンドルフに再び対面すると、ぬっと手を突き出した。

レッケンドルフは茫然としてミッターマイヤーに手の中の用紙を渡した。

「…とはいえ、これはただの落書きなどではあるまい。卿は、これは誰が書いたものだと思う?」

「おそらく、先ほどこちらにおりました従卒のランベルツの手蹟だと思われます。彼は閣下のご臨終に一人で立ち会いましたので、もしや…」

「一人で?」

ミッターマイヤーの咎めるような視線に、レッケンドルフは恥じ入りながらも頷いた。

「残念なことに、その時私はトリューニヒトめの死骸をこの部屋から運び出し、諸々の手配をするため、席をはずしておりました。私が戻る直前に、閣下は…」

ミッターマイヤーは眉をひそめて亡き親友の副官を見ていたが、視線を外して手の中のメモ用紙を見た。先ほどメモ用紙を拾った時、レッケンドルフははっきりその言葉を読まずにいた。走り書きの4つの言葉とアルファベットのMのかすかな印象だけが残り、いったいそれが何を意味するのか、理解する間もなく、ミッターマイヤーに手渡してしまったのだった。

ミッターマイヤーはやがて顔を上げて、レッケンドルフやその他、この部屋にいる親友の幕僚だった者たちに声をかけた。

「卿らの処遇について、悪いようにはせぬゆえ、決して早まった行動をとってはならんぞ。ここにおらぬ者たちにも、このミッターマイヤーが皆の進退について責任を持つということを伝えよ」

「…承知しました。ご厚情、皆に代わってお礼を申し上げます」

ゾンネンフェルス中将がレッケンドルフを見、黙り込んで俯いているベルゲングリューン大将を見てから、一同を代表して答えた。

レッケンドルフはそれらの言葉を上の空で聞きながら、ミッターマイヤーの手の中のメモ用紙を見つめていた。ミッターマイヤーはそのメモ用紙にもう一度目を落とすと、上着のポケットに突っ込んだ。

 

「ベルゲングリューン! ベルゲングリューン!」

ビューロー大将の悲痛な叫びに、何事かと急ぐ人々の騒ぐ声と足音が聞こえた。その騒ぎとは反対の方向へ、レッケンドルフは廊下を静かに急ぎ足で歩いていた。彼が向かった先の廊下には人影がなく、誰も警護も監禁もされていないことは明らかだった。ある部屋のブザーを強く押すと、しばらくしてからインターフォンから「誰ですか?」という声があった。

「私だ、レッケンドルフだ。卿の話を聞きたい。入れてくれないか」

扉の鍵が開き、少しだけ開いてハインリッヒ・ランベルツの青ざめた顔がのぞいた。少年は疲れ切った表情をしていたが、レッケンドルフを認めると、扉を大きく開いて彼を中に入れた。

ここ数か月、少年の私室だったこの部屋は今では育児室に様変わりしていた。どこからともなく甘いミルクの香りがして、ベッド脇の床にはオムツが入った袋や、何かレッケンドルフには分からない赤ちゃん用品が入った籠があった。赤ん坊はベッドで眠っているようだった。

「子守りの経験はあるのかい、ランベルツ」

少年は首を振った。

「いいえ。バイエルライン閣下が、弟妹が6人いるって言う若い軍曹を見つけてきてくれたんです。その人がフェザーンまで付き添って手伝ってくれるって言ってくれました。オムツ替えも本当に上手なんですよ」

ランベルツのヒーローは今やその軍曹になったかのようだった。確かに、赤ん坊の世話など急に頼まれても自分など何の役にも立たないだろう。その意味ではこの総督府にふさわしい者などいそうになかった。

「だから、ほら、赤ちゃんも気持ちよくぐっすり眠ってます」

「そのようだね。―ところで、ランベルツ、卿に聞いてもいいだろうか」

「なんでしょうか」

レッケンドルフは少年の腫れぼったい目と青白い顔色を見て、しばし逡巡したが、焦燥感が募ってためらいを振り払って聞いた。

「閣下がお亡くなりになったときのことを聞いてもいいかい」

ランベルツの目がさっと曇ったが、少年は静かに頷いた。赤ん坊が眠るベッドの足元の方に座って、彼が一人ぼっちで経験したことを話しだした。

赤ん坊とその母親が誰もいない隙に現れて、閣下の部屋に入り、後を追ったランベルツにミッターマイヤーに渡すようにと赤ん坊を託したこと。赤ん坊を抱かされて、母親が戻るのをずっと待っていたが一向に戻らず、とうとう赤ん坊が泣きだして、閣下をお起こしてしまったこと。

「…か、閣下は赤ちゃんを抱いていてやってくれとおっしゃいました。…それから、グラスを2つ出して、お酒を用意するようにとおっしゃって…」

ランベルツの目には再び、涙があふれた。彼は手の甲で目をこすると、話をつづけた。

「閣下は…、とても静かに息をしていらっしゃって、机に置いたグラスをじっと見ていらっしゃるから、僕…、ああ、閣下はもしかして持ち直されたかなと思って…。で、でも、なんだか急に静かすぎて不安になって、そしたら閣下の頭がガクンとなって、赤ちゃんを置いてお側に行ったら…、か、閣下は…」

聞き取りにくい、引き付けたような泣き声交じりで、少年はなおも話し続けた。

「何か、メモを取っていただろう…?」

「そ、そうなんです。閣下は本当に小さな声で何か、お、おっしゃって。机の上にメモ帳とペンがあって、とっさに、書き取って差し上げなきゃって…。だ、だって、少佐は、い、いつもそうやって、閣下の言葉をメモしていたでしょ…」

レッケンドルフはそのメモの内容を聞こうとしたが、少年がそのように言ったので絶句した。自分の真似をして、その一瞬で、そのような重大な時に、よくぞ判断を…。

「…そ、そうか。よくやったな、よく我慢したな」

「で、で、も、ちゃんと聞き取れなかった。皆さんに伝えようと思ったのに、よ、よくわからなかった。き、きっと閣下はなにか重要なことをおっしゃったのかもしれないのに…」

「そうかもしれないな…。だが、そうだとしても、閣下はきっと気にするなとおっしゃると思うな…」

鼻をすすりながら、少年は笑った。

「…そ、そうだといいです」

レッケンドルフは先ほど執務室で、ランベルツが閣下の臨終に一人立ち会ったと聞いて、ミッターマイヤーが自分を咎めるように見ていたことを思い出した。てっきり付き添うものがたった一人という寂しい状況で、大事な親友を死なせたことを責めているかと思った。

だが、レッケンドルフはミッターマイヤーの視線の意味をはき違えていたことに気づいた。彼は副官として上官のそばにいなかったことを責めていたのではない。従卒とは言え年端もいかぬ子供に、一人で上官の死を看取らせることになったことを咎めていたのだ。

思えばなんとむごいことをさせてしまったのだろうか。そして、それにずっと気づかずにいた…。

だが、レッケンドルフは自分の行為がランベルツにとってむごいことだと分かっていながら、重ねて聞かずにはいられなかった。

「その…。メモの中身を…、閣下がおっしゃった言葉を覚えているかい…?」

「―マイン・カイザー…、ミッターマイヤー…、ジーク…、死…」

ランベルツはゆっくり一語、一語、言葉の響きを確かめるように言った。

「どういう意味だろう…」

「…もっと何かおっしゃったのかも…。ちゃんと聞いてたら、文章になったかも…。でも、それ以上ははっきり分からなかったんです。…ご、ごめんなさ…」

「謝るな…! 私こそ、辛い話をさせて悪かった。だが、どうしても知りたかった…」

レッケンドルフは再び泣き出したランベルツの隣に座って、その肩を抱いて揺すってやった。

その時、ランベルツの向こう側から、赤ん坊が何かを話しかけるように「ウウ、アウ~」と言って手足をバタバタさせた。ランベルツはパッとレッケンドルフの腕から離れて赤ん坊に屈みこんだ。

「よし、よし、心配させてごめんな。何でもないよ」

ランベルツは赤ん坊の小さな両手を取ってリズミカルに上下に動かした。赤ん坊は保護者の泣き声に動揺して一瞬ぐずったが、少年が手を取ってくれたので、気を取り直したらしい。赤ん坊だけが出すことの出来る明るい声を立てて手足をばたつかせた。

この赤ん坊が少年の陰ひなたのない庇護を要求していることは、ランベルツにとって良いことのように思われた。専念できる相手がいれば、ランベルツもつらい思い出を抱え込んで悲しんでいる暇はないだろう。

レッケンドルフはベッドから立ち上がって、少年と赤ん坊を見た。

「その子はなんて言う名前なんだい」

少年は首を傾げた。

「…さあ? お母さんは名前を教えてくれませんでした。閣下にお聞き出来たらよかったな…」

「私は多分、閣下のお答えを想像できるな。男の子だろう? 当然ウォルフだよ」

ランベルツが笑ったので、赤ん坊も声を立てて笑った。その明るい笑い声と笑顔を見て、レッケンドルフとランベルツも笑った。

「かわいい子だな! なんだか閣下に似ているように思える」

「似てますよ! それにとっても賢い子ですよ!」

ランベルツが涙も忘れて熱心に言ったので、レッケンドルフはまた笑った。自分を見上げるランベルツの肩を軽く叩いて言った。

「それではな、ランベルツ。またいつか会える時まで元気でな」

「またいつか…って、少佐は? フェザーンに帰られるんでしょう」

レッケンドルフは頷いた。あまり詳しく話して少年を心配させたくなかった。おそらく、自分たちはまだハイネセンに残って、内乱の調査にかけられるだろう。提督たちのような実戦部隊はどこかの艦隊に即座に組み込まれることもあるかもしれないが、自分のような立場ではそうもいくまい。

「いずれな。では私はもう行くよ」

「…はい。少佐もお元気で」

ランベルツは一瞬立ち上がったが、赤ん坊から手を放したくないのだろう。すぐにベッドに座り込んで、顔だけレッケンドルフの方を向いた。赤ん坊の手を取って、バイバイと小さく振った。

レッケンドルフはその小さな手に向かって手を振ってやってから部屋を出た。

 

ランベルツの部屋を出たとたん、レッケンドルフの顔から微笑みが消え去った。彼は焦っていた。

総督の執務室と同じ階にある自分の部屋に急いで戻った。部屋の外はいくらか人通りがあり、騒がしかったが、副官の部屋の周辺にはだれもいなかった。今はまだ、総督府の各部署を差し押さえて立ち入り禁止にすることを思いつく者はいないようだった。だが、いずれ頭の中が整理された冷静で有能な官吏がやってくる。そう、例えば軍務尚書のような…。

そうなる前に、彼はあるものを自分の手中に収める必要があった。

レッケンドルフは自分だけが知るパスワードで公用の端末を立ち上げ、内部のデータを自分個人の端末のデータ収納に格納し始めた。格納が終わったデータは次々に公用端末から削除していく。

彼が移行しているデータは、あるいは軍務尚書などには無意味なものかもしれない。だが、だれか査閲する者がいる場では、帝国にとって無価値と思われるものであっても、簡単には取り出すことなどできなくなるだろう。

それは閣下に初めて仕えた日から今日までにわたる、詳細な業務日誌だった。その内容は多岐にわたっており、それでいながら誰が見てもよく理解できるように作成されていた。一度などこのデータをのぞき込んだ閣下に、『これがあればおれには副官はいらんぞ』と言わしめた。

だが、複雑多岐にわたる閣下の任務、様々な業務を、このように整理してデータを構築できるものはレッケンドルフ以外にいなかった。誰が見ても分かりやすいがゆえに、使いようによっては悪用も可能で、レッケンドルフは門外不出にして決して自分と閣下以外には見られぬようにしていた。

―これは私だけのものだ。帝国には一文の価値もあるまいが、ここには私が閣下にお仕えしてきた日々のすべてが詰まっているのだ。

言ってみれば、このデータには閣下のすべてが記録されているのだ。それを余人の好きに任せて放置するなど、レッケンドルフには許しがたいことに思われた。

データは1時間の作業でたった半年分のデータしかないのに、個人端末の収納容量を超えた。レッケンドルフは考えた末、思い切って外部のデータ収納庫に繋ぎ、そこに格納することに決めた。安全面では信用できる収納庫だが、無事取り出すことが出来るようになったら、すぐに取り出して削除しよう。外部につなぐ際に多少小細工を弄して、どこにつないだか分からないようにしたつもりだが、もちろん、自分などの知識ではできることは限られている。専門家が見たら簡単に経路を暴くことが出来るだろう。

―だが、賭けるしかない。誰も私の端末を確認しようなどと思わないでいてくれることを願うばかりだ。

夜明け前にすべての作業が終了し、レッケンドルフはついでに閣下の映像記録や広報の記事などのコピーを取ると、公用端末を閉じた。レッケンドルフはいっそのこと公用端末のデータをすべて破壊しようかと思ったが、そんなことをすればいらざる疑惑を招くことになる。ログをみたら、自分が何をしたか一目でわかるはずだが、もうログを操作する時間はなさそうだった。

レッケンドルフは作業が終了した端末を前に椅子に座り込んで、窓から朝日が昇るのを眺めていた。その時突然、もう閣下がこの世のどこにもいらっしゃらないことに気づき、その衝撃で心臓が刺すように痛んだ。

―あ! そうだった、閣下はもう…。

まるで閣下がご存命だったころにもあったような、徹夜で仕事をしたときのような気分になっていたのだ。閣下のために喜んで、自分はなんと夜遅くまで仕事をしたものだっただろう。閣下はそんな自分をよく労わってくださった…。無理をせずにもう帰れ、と強引に部屋から追い出されたこともあったな…。

だが、今では、どれほど自分が精いっぱい務めても、自分を労わってくれる人はいないのだ…。

レッケンドルフは机に肘をつき、顔を震える手で覆って嗚咽した。

 

 

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