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日が昇るころ~1~

らりと光るものが目の端に入り、レッケンドルフはふと目を上げた。誰が彼女をここまで通したのだろう。マントのフードを深くかぶった姿だが、そこからこぼれる白銀の長い髪を見るまでもなく、それは若いたおやかな女性だと分かった。何かふんわりとして重そうなものを両手に抱えている。音もなく小さな足を運ぶその姿が、ためらいもなく奥へ進むのを見て、レッケンドルフは彼女を引き留めようとした。

―いったい、どこへ行くつもりだ? この先は閣下の執務室だ。

「レッケンドルフ少佐! こいつはどうしますか。旧同盟軍の奴らに引き渡しでもしたらさぞ、喜ぶでしょうな」

呼びかけられてレッケンドルフは総督の執務室から運び出した、恥ずべき男の死骸の方を振り返った。閣下がまさしく死に瀕した身でこの男をブラスターで撃ち殺したと知った時は、驚く以上に閣下の身を心配した。この男が何か危害を加えようとしたため、閣下はブラスターの引き金を引いたと思ったのだ。

確かに閣下はその行為によってかなりの体力を奪われたように思われた。閣下のそばを離れるのはためらわれたが、この荷物を放置して執務室を汚すようなことは出来ない。レッケンドルフは急いで衛兵たち数人を呼んで、死骸を運びだした。

「意地の悪いことを申すな。ひとまずそこの部屋に運ぼう。それから軍医の誰か手が空いている者を探してきてくれ」

「こやつはもう死んでますが」

レッケンドルフはいらいらと兵士を叱責した。

「そのようなことは分かっている。一応手続き通り、正式に死亡を確認する必要がある。何か手落ちがあって後から来る誰かに笑われたくはないからな。このままの様子を家族が見たら驚くだろうから、すまないが誰かこの血をきれいにしてくれないか。その人たちにこの男を引き渡せば、終わりだ」

「…こいつに家族なんているんでしょうかね…?」

レッケンドルフは遺体の胸にある上官によって作られた見事な傷跡を眺めた。

「さてな…。とにかくまず軍医を探してくるのだ。私は閣下の執務室を片付けなくては…」

掃除係や掃除ロボを今の閣下の部屋でうるさく動き回らせたくなかった。大量に噴き出し、カーペットを汚した血を一人できれいにするなど、不可能だとは思うが…。

 

ハインリッヒはそわそわと給湯室から顔をのぞかせた。先ほどブラスターの銃声が聞こえて、レッケンドルフ少佐や衛兵がバタバタと閣下の執務室へ入って行ったので、心臓が止まるかと思った。少佐は何も言わなかったが、閣下に何かあったわけではないようだった。

常であれば少佐はハインリッヒが顔を見せると、どんなに忙しい時でも必ず目を合わせて声をかけてくれた。だが、今日は違った。

それも当然だった。ハインリッヒは今日が如何なる日とも違う日になるであろうことが分かっていた。そして、自分がそれをどうにもできないのだということも。

―まるで父さんや母さんの…時みたいに。

少年の心をさっと悲しい思い出がよぎったが、それはすぐにどこかへ消えた。あまりに現在の状況が切迫しているため、もっとも少年にとってつらかった思い出さえ、心にとどまることはなかった。

ふと、廊下を見ると、いつの間にかマントを着た女性が立っていた。白く輝く髪に縁どられた乳白色の顔を見て、ハインリッヒは目を見張った。

「坊や、ここが総督の執務室?」

その声は静かで低く、何かを恐れるかのようにささやいた。ハインリッヒは驚きのあまり声も出せずに頷いた。女性は少年の驚きには気づかないかのように、ただ頷き返しただけで、やはり足音も立てずに執務室に入って行った。執務室前には衛兵がいるべきはずだったが、先ほどの騒ぎで扉の前にはだれもいなかった。

女性を引き留めなくてはいけなかったとハインリッヒは思った。その女性が閣下を害するつもりだとは思わなかった。なぜなら、女性の腕の中にはふっくらとした頬の赤ん坊がいたから。

しかし、彼女を追ってすぐに部屋に入ったりはしなかった。閣下がお呼びではないのに、従卒が勝手にお部屋に入るべきではない。だが―。

ハインリッヒは震える手でお茶のカップを2脚、棚から出した。ティーポットに紅茶の茶葉を準備して、いつでも沸かしたてのお湯が出る給湯器からお湯を注いだ。美味しいお茶を作る、レッケンドルフ少佐直伝のいつもの手順のいくつかを飛ばして、トレイにそれら一式を乗せて、執務室に入って行った。

女性は閣下の執務机のそばに立っていた。その手にハンカチが握られており、ハインリッヒが執務室に入ったまさにその時に、そのハンカチで閣下の額をそっと押さえた。女性はその手元から目を上げて、室内に入って来たハインリッヒを見た。

女性は片腕に赤ん坊を抱き、その赤ん坊が閣下に手を伸ばすのを腰で支えていた。閣下は少しうつむいていて、眠っていらっしゃるように見えた。ハインリッヒが立つ場所からもその荒い息遣いが聞こえ、彼は閣下の身を心配しつつも少しほっとした。

「あ~、あう~」

赤ん坊が大きな声で何かを訴えたので、ハインリッヒはびくっとなり、トレイの上のカップがガチャガチャと音を立てた。女性が声を立てずに片方の頬だけで微笑んだ。

「飲み物を持ってきてくれたの? いい子ね」

もし、これが普通の時であったら、「いい子ね」などと言われたらハインリッヒは後で給湯室に戻って憤慨しただろう。これは彼の立派な仕事なのだ。だが、女性のその言葉はハインリッヒに優しい母の暖かい手を思い出させた。ハインリッヒは少し震えが収まるのを感じつつ、女性に向かって頷き、ソファの前に据えられたテーブルにトレイを乗せた。

女性はハインリッヒから目をそらして、なおも閣下に手を伸ばそうとしている赤ん坊を両腕に抱きなおした。赤ん坊は抗議の声を上げた。ハインリッヒは赤ん坊が大きな泣き声を上げるのではないかと思い、ハッとした。

女性がチュッチュと口の中で音を立てて、赤ん坊の頬に顔を寄せた。

「しぃ~、静かにね。あなたのお父様はお休みする必要があるのよ」

そうか! それでは、この女性は…! ハインリッヒは再び心臓の鼓動が早くなるのを感じた。彼はかつてフェザーンで閣下の身に起こった出来事の詳細を知っていた。

彼女は閣下の額をまた静かにハンカチで押さえた。今日は寒い日とはいえ室内は適度な温度に保たれているはずなのに、閣下の額には大粒の汗が浮かんでいた。女性はその汗を閣下の眠りを妨げないように、そっと拭っているのだと分かった。

女性はその行為に満足したのか、ふと、ハンカチを机の上に置いた。大きな目を見開く赤ん坊にちょっと目をやると、閣下にさらに近づいた。赤ん坊が手を伸ばす。

小さな白い手が閣下のダークブラウンの髪に触り、つかんだ。

ハインリッヒはハッとなってテーブルの前から一歩飛び出しかけた。母親もびっくりしたようで、小さな声で「あっ」と言った。だが、赤ん坊はちょっと閣下の髪を掴んだだけで、手を振り回したり、引っ張ったりしなかった。ただ、不思議そうに自分の手を見ていた。

母親がそっと赤ん坊の手の中に自分の指を滑り込ませた。

「さあ、あなたのお手てを私にちょうだい」

赤ん坊は閣下の髪の毛の代わりに母親の指を握って、なにか口の中でブクブクと言いながら笑った。赤ん坊の髪の毛はまだフワフワとしていたが、閣下とまったく同じ色合いに見えた。

閣下の息づかいが先ほどより少し静かになったような気がした。

やがて女性は静かに閣下のそばから離れた。目はじっと閣下の方を見ながら、ハインリッヒの方へ近づいてきた。

「お茶をいただけるかしら」

ハインリッヒは声を出さず、大きく首を振って頷いた。女性がソファに腰掛け、赤ん坊をクッションとマントで作ったベッドに横たわらせた。ハインリッヒの手元は決して震えが止まらないようだった。カチャカチャと音を立てながら、どうにかこぼさずにお茶をカップに注いだ。長く置いていたせいでお茶が濃くなり過ぎているのではないかと思ったが、女性は何も言わずに飲んでいる。ハインリッヒが思うほど、時間が経っていないのかもしれなかった。

女性が口を開いた。

「坊やは、ミッターマイヤーと言う人を知っている?」

ハインリッヒは首を上下に振って肯定の意味を示した。何故か、彼は言葉を発することが出来なくなっていた。

「それでは、その人がここに来たらあかちゃんをその人にお渡ししてちょうだい」

ハインリッヒは三たび、首を大きく振った。女性はしばらくお茶のカップを胸の辺りの高さに持っていた。まるで、それ以上、動かすことが出来ないように見えた。

突然、女性はハインリッヒにも聞こえるほど大きな息継ぎをした。

「坊やは、その人はどんな人か知っている?」

それはヤーか、ナインで答えられる質問ではなかったので、ハインリッヒは数回口を開いたり閉じたりした。ようやく声が出て答える。

「―いい人です」

それ以上の言葉は思い浮かばなかった。彼は必死になって空っぽになってしまったかのような頭の中で言葉を探した。

ふいに、ミッターマイヤー閣下がにやっと笑って、閣下が見ていらっしゃらない隙に、ハインリッヒにお菓子を渡してくれた日のことを思い出した。

「親切な人です」

女性は笑った。あとから思えばなぜ、ミッターマイヤー閣下が勇猛果敢な戦士であり、偉大な戦術家であると言うことが出来なかったのか、不思議だった。いつも従卒仲間ではそのような話ばかりをしているというのに。

だが、ハインリッヒが思い出したのは、ミッターマイヤー閣下の荒れて大きな肉厚の手が、優しくハインリッヒの髪の毛を掻き回し、お菓子の包みを自分の手の中に押し込んでくれたことだけだった。

「ありがとう」

女性はそういうと、お茶のカップをテーブルに置いた。

眠っている赤ん坊を見て、女性はしばしためらっていたが、やがて赤ん坊を抱き上げた。ハインリッヒに近づくように合図すると、その腕の中に赤ん坊をそっと押しやった。ハインリッヒはなぜ女性がそのようなことをするのか分からず、戸惑いながら腕の中に納まったものを見た。

それはとても重くて、柔らかいのにみっしりとして、そして暖かく、甘い匂いがした。

赤ん坊は泣きもせずにハインリッヒの腕の中でじっとしていた。赤ん坊もなぜこのような事態になったのか、分からずにいるような気がした。

―いい子だな。

気がつくと、女性が立ち上がってマントを羽織っていた。女性のその手は震えて、マントの前のたった一つのボタンすらはめられないでいた。とうとうボタンには構わず、ただ、手で前を押さえて一歩踏みだした。

女性は途方に暮れたように部屋の真ん中に立ち尽くしていたが、やがて閣下の方を振り向き、その姿をじっと見つめた。女性はもう一歩、足を踏み出した。

閣下の姿から目を離さず、ゆっくりと一歩ずつ、女性は戸口に向かって歩いて行った。戸口の前に来るとまるでバランスを崩したかのように、室内に顔を向けた。

そのぼんやりとした目がハインリッヒの上に落ち、その腕の中の赤ん坊に落とされた。

―いい子でね。

女性がかすれたささやき声でそう言ったのは、しっかりした声を出せなかったからだと分かった。

ガン! ガタン! と、女性が開きかけていた自動扉に大きな音を立ててぶつかった。ハインリッヒははっとして飛び上った。だが、女性はそのまま、開いた扉に震える手を伸ばし、身体を支えてバランスを取ると、執務室を出て行った。

ハインリッヒは女性が戻るものと思って赤ん坊を抱いたまま、ソファに座っていた。

だが、女性が戻ることはなかった。

 

 

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