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二人の新任艦長

10、

マクダレーネ・ヤンセン。バルテル船長の姪で、この船団のお抱え医師。背は高めで顎まで切りそろえたアッシュブロンド。おそらく20代後半。

ロイエンタールが理解している彼女の来歴はこの程度だ。そこに専門職に携わる人間によく見られる自信と、合理的なさばさばした話し方を付け加えてもいいだろう。その人物と今彼の腕の中にいる女は性格が乖離しているように思えた。普段の様子と寝室では振舞い方が違うのは珍しくもないかもしれない。純情そうな箱入りの令嬢に熱烈に迫られたこともある。だがこの女は彼を誘惑するそぶりを見せながら、まったくそれに熱中できず、彼をものにしようと心を傾けているわけでもない。何かほかのことに気を取られながらも、彼を体でたぶらかそうと努力しているようであった。

―その望みをかなえるためにはどうやら俺をベッドで籠絡する必要があるらしい。何を求めているかは籠絡されてみないと分からないが、このままではいつまでたっても先に進まん。ただ抱きつけば男はその気になるとでも思っているのか。そういう奴もいるだろうが…

医者の白い上着の上から意外に豊かなその胸の中心に右手を置くと、ハッと息を飲む声が聞こえた。のど元に唇を寄せて強く吸いつき、あいた左手は上着の裾から中へ差し入れて裸の背中を撫で上げた。彼の手の下で、女の体が反射的に震える。

―さあ、もっと集中しろ、全身で反応しろ、上の空でおれを籠絡できると思うなよ

彼はぐっと相手の頭をのけぞらせると女の唇に口を開けて食らいついた。女は一瞬逃げようと身をよじったが、「んー!」とふさがれた口から声を出すと、バランスを崩して彼の腕にしがみついた。合わさった胸に女の力強い早い鼓動が感じられ、彼の左手の下の女の背中は急な発汗で湿り気を帯びた。

「ああ!」

女が彼の腕の中であえいだ。彼は女をベッドの上にあまり優しくもなく投げだすと、軍服の上着のボタンを上から順にゆっくり外した。その間、女の目をじっと見続けるが、相手は呆然とうるんだ瞳をこちらへ向けたままベッドから起き上がろうとはしない。彼女は確かに今、全神経を彼に向けて、次に何が来るか待ち構えていた。

ボタンがすべて外され、ベルトが緩められ、上着がベッドわきのデスクに放られる。ブラウスの首元のボタンをいくつか外すと、頭から脱ぐ。裸の胸を明りの下にさらして、ベッドへ歩み寄ると、女がゆっくり起き上がり、手を差し伸べた。

―さあ、何が望みか…

それを最後に彼はまとまった思考を手放した。

 

初めて女性と付き合ったのは士官学校生だった16歳の頃で、相手は名門女学校の生徒だった。出会いは士官学校と女学校の合同のダンスの授業という恋人がいる士官学校生のお決まりのパターンで、我ながら純情だったと呆れるくらい、キスをして手をつなぐだけの清い仲だった。彼はその気になれば、彼女が好きだったケーキ屋のケーキを、すべて買い占めて与えることが出来る個人資産を所有していた。帝国の法律により16歳以上の男子は親の許可なく自分名義の資産を自由にできる権利を与えられていたが、そうはしなかった。その頃は父親のような経済人を軽蔑して、金があることを恥ずかしいと思っていた。

地方の素封家の娘だが、質素に育てられた彼女は帝都で贅沢に暮らすことを親から禁じられていた。その彼女とは―もうかすかな印象以外、顔も忘れた―1年近く、今までで最も長く付き合った。おそらく性的な関係になかったためだろう。付き合いが途絶えたのは、2年目の夏休みに出会った女の子のせいだ。彼女はある開けた校風の専科学校の生徒で、夏休みに親に連れられて、こちらは一人で従者を供に避暑に来ていたロイエンタールと出会った。

彼女とは毎日会い、ついに親の目を盗んで―だが、彼女は経験者だったから、最初から彼をベッドに誘い込むつもりだったのかもしれない。彼も人並みに年頃の少年らしく、その誘いに乗って(無関心なふりを装っていて、しかもそれはおおいに成功していた)、そして、危うく果たせずに終わるところだった。

帝国軍幼年学校に編入することになった12歳の夏、それまで家庭で彼の勉強を見ていた教師たちの中にピアノを教える女性教師がいた。その頃はかなり年上の女性だと思っていたが、後年、まだ20代前半で音楽学校を出たてだったと知った。12歳の彼はようやく幼年期を脱したばかりだったが、その容姿は同じ年頃の子どもより老成して見えた。痩せているうえに骨組みはきゃしゃだったが、背が高くなりそうな兆しを見せ始めていた。ピアノ教師の女は小柄でその彼と同じくらいの背丈だった。残念ながら彼には音楽的なセンスは備わっていなかった。さまざまな音楽を聴くことは嫌いではなかったが、彼の思考は他のことで一杯で音楽が入る余地がなかった。

あまり熱のこもらないピアノの授業が終わるころ―、教師は彼の手を取って、もうお別れするのはさみしい、もっと一緒にいたいと言い接吻してきた。別れのあいさつにしては熱心すぎ、長すぎると思ううちに、部屋の傍らに据えられたソファに連れて行かれ、女の手が彼の肌の上を這いまわり、服ははだけられて…。

彼はそれ以上の記憶はいまだに呼び起こすことが出来ない。恐怖の故か、恥ずかしさか、いずれであるかわからない。そのあと幼年学校に入って、卒業の年に従卒としてさる提督のもとで戦場を駆け抜けた、その目覚ましい経験が嫌な記憶を追いやったのかもしれない。

だが、そのまますべて記憶から消し去ることはかなわず、17歳の夏、今まさに同じ年頃の女の子と手を取り合い、服を脱がせあって、ベッドへ向かおうとしたその時を狙って、12歳の時の記憶の破片がよみがえったのだった。

トイレに駆け込んで吐きだした彼の様子を見て傷つかない恋人はいないだろう。裸のまま呆然としていた彼女は泣くのと怒るのを同時に行い、彼をなじった。彼は実のところ、どこかに引きこもってしまいたいくらいすべてのことにうんざりしていたが、自分の男らしさについて疑問を呈されては、さすがにそのまま彼女を放置することも出来かねた。彼は「君のせいではない」と何度も繰り返した。それではなぜかという問いに彼は答えないわけにはいかず、混乱したままよみがえった記憶の断片を明かした。彼女は彼に同情し、元凶の年増女を軽蔑してこきおろし、一緒に泣き、怒りにより共鳴した二人は、ようやく当初の目的を果たした。

その彼女とは、彼女に話したことを後悔した彼が翌日、従者と共に帝都に戻ってしまったため、二度と会わずじまいになった。連絡先も交わさなかったから、彼女がこの経験をどう思ったか、知ることはなかった。彼としてはこの経験によって大人になったと感じるのと同時に、よみがえった記憶のせいで、自分が汚されていたという感覚を捨て切れず、混乱したままその夏を過ごした。

ピアノ教師についてのその後は身を持って知った。彼が19歳の時、オペラ歌手として彼の前に再度現れたのだ。彼女がどのようにして現在の地位を得たか不明だったが、オペラ歌手として成功しかけていた。栄えある近衛連隊少尉の制服に身を包んだ彼を見て、彼女は彼のピアノ教師だったと明かしたのだった。

その後、彼女によって「秘密裏に」知人に明かされた話が社交界に広まった。彼に誘惑されたせいで家を出ることになり、苦労してオペラ歌手になったというお涙頂戴話だ。いまだ若年とはいえ、父親の社会的地位により、否応なしに社交界に引き出され見世物にされていた彼は次代の花婿候補としてすでに有名だった。噂は彼がいくつの時、彼女を誘惑したかはっきりしなかった。彼女の年齢を考えればいろいろ疑問がわく話だったが、内容のスキャンダラスさに比べれば社交界人種にとっては大した齟齬ではなかった。

しかし、彼に誘惑されただと…! そのことで彼は上官から記録には残さないが、訓戒に値すると忠告を受けた。誰も彼が犠牲者だとは考えもつかないようだった。

彼は計画を練った。

結論から言えば、彼はかつてのピアノ教師を陥れることに成功した。そのこと自体はむなしい喜びとしかいいようがない。彼は官舎をひそかに、あるいは許可を得て抜け出してはオペラ座に通い、彼女をベッドに誘い込み、すっかり彼女を虜にした。彼女は彼の望みに従って12歳の彼を導いたのであって、彼のために身をささげた経験は素晴らしいことだったと彼に告白した。

そして彼はある日突然、彼女と会うのをやめ、連絡すら取らなくなった。その頃、ロイエンタール家よりさらに富裕だという家の娘と彼はいやいやながら付き合わされていたが、表向きは喜んでその娘を連れてよく出歩いて回った。演習と任務の合間は、連日のパーティー通いだったが、常に優秀な成績を上げる彼に上官たちは何も言えなかった。

ある夜、格式のある盛大なパーティーが開かれ、彼はその娘をエスコートした。そこにオペラ女優が取り乱した様子で現れ、満座の中で彼に取りすがって泣いた。自分に落ち度があったら許してほしい、愛しているから戻ってきてほしいと。

彼としてはさすがにここまで目覚ましい場面で、このような愁嘆場に出会おうとは思ってもみないことだった。だが、彼はこの場を大いに利用し、彼女を見知らぬ他人がごとく扱った。周囲の人々は彼女がこのように感情をあらわにしたことをあざ笑い、あの噂は捨てられそうになった彼女が彼を陥れようとして流したものだと結論付けられた。その後、彼女はオペラと社交界から去った。

彼は彼女の叫びを聞くまで終始白けた思いにとらわれていた。目に見えることしか理解できない周囲の者たち、若い彼をトロフィーか何かのように手に掲げたがる女たち。社交界の重要な人物はすべて出席しているパーティーの衆人環視のもと、彼の足もとに身を投げ出す女。

その時、彼の脳裏にその女の叫びがこだました。「許してほしい」、「愛している」と。

彼はその言葉を聞いて非常に満足を感じ愕然とした。そのふたつの言葉が強烈な勢いでその冷え切った胸の内に届き、彼の心臓は確かに2度ほどスキップをした。その女の姿が別のものにいつの間にかすり替わり、それはもっと若い、彼とよく似た顔をしていて、彼と同じように背が高くほっそりとした女で、やはり泣いていた。その白く滑らかな手は血に染まって、美しい胸をかきむしっていた。「許してほしい」、「愛している」と繰り返す真っ赤な唇からはとめどなく血が流れていた。

彼はそのような言葉は本当ではないと分かっていた。体を壊して弱り切っていたあの女は断末魔に言葉を発するような力を残しておらず、非力な彼が呆然と見守るうちに、ただ血を吐きながら倒れたのだった。

彼が一瞬感じた満足は長くは続かなかったが、その時の感覚はそのまま彼の脳裏に刻みつけられた。彼は新しい女に出会うたびに、その感覚が自分に戻ってくるのではないかと思い続けている。別れた女の半数は決裂に至った理由は自分にあると思い、許しを請うた。残りの女は彼をいろいろな理由で責め、なじった。いずれ彼自身が許しを請うべき女が現れるとしたら、彼はどうするだろうか。彼は内省しない、自己弁護もしない。あるのは後悔だけだ。

 

ロイエンタールは短い夢から目覚めた。ずっと何かの物音を聞きながらうつらうつらとしていたが、それは夢ではなかったらしい。上着を羽織っただけのマクダレーネ・ヤンセンが、ベッドの傍らの彼のデスクにかがみこんで何かしていた。彼はベッドにうつ伏せになって顔を横に向けて寝ていたが、彼女の警戒を呼び起こさぬよう薄く眼を開け、その様子を眺めた。

マクダレーネは彼の軍服の上着を取り上げて、ポケットを探っていた。胸の内ポケットからIDカードを取り出すと、じっと眺めていたが、データを呼びだそうとあちこちいじったせいで、ピイっという警告音が出てしまった。彼女はハッとしてベッドの彼の方を見る。彼はつややかな髪を額に垂らし、長くまっすぐな手足を投げ出して眠っていた。その身体はほんのわずかな明かりにもぼんやりと白く照らされていた。彼女はしばらく彼の方を見ていたが、ようやく引き剥がすように視線を戻すと、手の中のIDカードをためつすがめつした。彼女は自分の上着のポケットからそっくりなカードを取り出し、ロイエンタールのIDカードと取り換えた。彼のIDカードは彼女の上着のポケットに消えた。

マクダレーネは床に放ってあった自分の服を手さぐりで手繰り寄せると、急いで身に付け、部屋を出た。

―これは思いがけないことだな。あんなカードに何があるというのだ? あの中のデータに機密など何もない。俺には分からない目的があるとしても、おれ以外の者があれを開くことは不可能だと思うが。

彼はベッドから起き上がると、軍服のポケットを探り、マクダレーネが入れ替えたカードを取り出した。デスクランプの明かりで見てみると、軍支給のIDカードとよく似ている。自分の本来のカードと同様に、データを起動しようとしたが、なにも反応しなかった。すり替えられたことに気づかなければ、壊れただけだと思うかもしれない。こんなものをいつから用意していたのだろうか。輸送船団に彼が乗り組むことを彼女は知っていて、最初から仕掛けようとたくらんでいたのだろうか。彼女がことの首謀者とは限らないが、そもそも大した価値もないIDカードを盗むこと自体が目的とも思えなかった。

―もう少しあの女につきあってみる必要がありそうだな。判断するには材料が足りんか。十分材料が出そろった頃にはのっぴきならぬ立場になっているかもしれんな。

ロイエンタールはクックッと笑い、シャワーを浴びてさっぱりすると、今度は一人でベッドに入った。

 

 

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