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騒がしい夜~5~

ファーレンハイトは突然、自分をゆすりながら、「おい、おいっ」という声に起こされた。

「ううっ、だめだ! いやだ!」

鼓動が速いリズムで太鼓のように響くせいで、耳からは何も聞こえなかった。ファーレンハイトは自分が何を言ったかも忘れ、その音に耳を澄ます。しばらくしてようやく鼓動が普通の速さに戻り、彼はロイエンタールが厳しい表情で自分を覗き込んでいるのに気付いた。

「どうしたんだ?」

「どうしたんだじゃない、うなされていた。夢でも見たのか」

ロイエンタールは起こしていた上半身を音をたてて横たえた。ファーレンハイトの横にその顔が並んで、彼を見ていた。

ファーレンハイトは顔を手で覆ってため息をついた。そして「そのようだ」と言った。

「君といる時にこんな夢を見るなんて…」

「どんな?」

その問いは静かで短かったが、暖かい息と共に紡がれたその言葉は冷たいものではなかった。ファーレンハイトは少しためらっていたが、口を開いた。

「今夜食べたリンダールーラーデン、貧乏だったのにいつも肉が食べれたってことは、まだましな暮しだったんだろうって言ってただろう」

「いつも食べていたのか知らんが…。あれは珍しい食べ物だったのか?」

ファーレンハイトは静かに笑った。

「君だってあれを君のお母さんが作ってくれたのは誕生日とか、特別な日だけじゃないか? それとも君の家ではお母さんは料理はしなかったかな」

「…しなかった」

ファーレンハイトは自分の思いにとらわれていて、その返事に隠された暗さに気がつかなかった。

「俺の母は料理が好きだった。限られた金と材料で旨く工夫して俺たち兄弟に食べさせてくれた。リンダールーラーデンは特別なごちそうだった。誕生日と…、何かの時にたくさん作ってくれた。あの下町で1年に何度も肉を食べれる家族など数えるほどしかいなかった」

横向きに寝てその顔を毛布に埋めていたので、ファーレンハイトの表情は部屋の暗さもあってまったく見えなかった。

「母親は裁縫の仕事をしていた。毎週の部屋代を払うのに精いっぱいというくらいの稼ぎだった。なのに、なぜそんなにしょっちゅう肉を食べられた? 俺は幼年学校に入るまで、俺達のために貯金でも切り崩して食べさせてくれてるのだと思っていた」

幼年学校の寄宿舎で、ある夜、同室のませた同級生がこっそり兄からもらったという、女性の裸がたくさん載っている雑誌を見せた。照明が落とされた5人部屋のベッドで、くすくす笑う同級生とそんなものを見ていた時、急に気がついた。

「ませたガキどもが、いっぱしに射精してその臭いがしていた。それで、気付いたんだ。ときどき、母親が出掛けて夜中に帰ってくる時、同じような臭いがしていたってことを」

ある夜、母親の忍び泣く声に起こされた彼は心配して母の元へ行った。いつもなら優しく抱きしめてくれる母親が、その夜は拒絶するように腕を伸ばして彼を近寄らせようとしなかった。その時、母親の身体から立ち上ったおかしな臭い―。

次の日の夕食はリンダールーラーデンで、彼と兄は大喜びでいくつも食べた。

ファーレンハイトは毛布の陰からくぐもった声で続けた。

「母は誰か男と寝て、それで金を得ていたに違いないんだ。そいつは無情にも彼女にシャワーも使わせずに、夜中に若い女一人で家へ帰らせた。母はいつも泣いていた」

ファーレンハイトの目じりから枕に涙がしみこんだ。それはロイエンタールからは見えなかったが、何かを感じたのか、彼の手がそっとファーレンハイトの頭に置かれた。ゆっくりと頭から首へ撫でおろされたそれを、ファーレンハイトの手が取り、指をからめた。

「俺はそのことがあった次の日、適当に理由をでっちあげて、幼年学校に退学願を出した。家に帰ってから、偶然更生施設から戻っていた兄と自分の発見について話した。兄は知っていたんだ。兄があんなに荒れていたのは今思えばそのせいだったかもしれない。俺は母さんを救うために何が何でも金を稼いでやろうと言った。兄貴はおまえは馬鹿だと言って喚き散らしたが、俺が本気だと知って最後には分かってくれた。俺は学校の合間に1日にいくつも掛け持ちで仕事をした。兄貴は上手く行商の仕事に就くことが出来た」

「…よく士官学校へ進むだけの学力を維持できたな」

ファーレンハイトは暗く笑った。

「俺も必死だったが、士官学校へ入る直前の頃はあまり勉強はできなかったよ。だが、兄貴と応援してくれる人のお陰でこの道へ進めた。兄貴は結構商売がうまくてね。後援者に自分と俺を売り込んで、面倒なことはその人がいろいろ手をまわしてくれた」

彼が抱えていたロイエンタールの手が、ピクリと動いた。自分がすべてを話しているわけではないことに気付いたのかもしれない。子供の頃の彼が思っていたのと違い、世の中は何もかも単純ではないのだ。

「それでは今はご家族は…?」

「フライベルク伯爵ウィルヘルムというのが俺の兄。家名と同じFで覚えやすいだろ。前に話したこの部屋を残してくれた彼女が、信頼できる人物を紹介してくれたこともあって、とうとう、兄貴はその地位を取り戻した。現在の伯爵領はちっぽけな領地だが、なかなか上手く切りまわしている。母が毎日気楽に暮らせているのが救いだよ」

そのまま黙って沈黙の音を聞きながら、今はもう乾いた目で闇の中を見つめる。ひとつの苦しみから逃れたら、また別のしがらみに捕らえられた。もし、親子三人であのまま下町で生きていたら、自分は今頃どんな暮らしをしていただろう。おそらく、生活することの苦しみ以上のことは何も知らず、友人や恋人との小さな楽しみを得ることだけで満足していただろう。

だが、自分はあの街以上の大きさの希望を持ち、知識や経験を得て、ここにいる。もう決して戻ることはできないのだ。

その時ファーレンハイトの頭をしっかりした腕が囲い込み、暖かい胸に抱き寄せられた。ロイエンタールは何も言わなかったが、まるで慰めるようなその動きに彼の気持ちが込められているようであった。彼はそう見せかけたがっているほど冷酷でもなく、無感動でもない。むしろ、その逆なのだが、その表現方法を知らないのだ。

ファーレンハイトは相手の腰に手をまわしてその胸に擦り寄る。誰かがそばにいると気づかせてもらえるのは気持ちのいいものだ。

「なあ…、君はきっと子供の頃は大人しい子供だったろうな」

相手は鼻で笑ったが何も言わない。

「まさか、街の悪ガキだったのか?」

「…街に出たことなどなかった」

「箱入りか。あの頃の俺と会っていたらきっと君をいじめて、俺のテリトリーから追い出しただろうな。もちろん身ぐるみはいだ後で」

「とんだ悪童だな」

ファーレンハイトは相手の胸に唇を寄せて笑った。わざと唇を肌につけたまま勢いよく息を吐き、「ブブブ」と音を出した。

「やめろ」

笑ったままファーレンハイトは言う。

「お母さんが着せたきれいな白いブラウス、リボンとブローチ、アイロンの効いたズボンを着た坊ちゃんでさ。美人のお母さんが頭を撫でて『気をつけて行ってらっしゃい』というんだ。貴族のお屋敷の前でそんな親子を見たっけ…。あれは君とお母さんだったかもな」

ファーレンハイトの想像には多分に自分の経験が含まれていた。もちろん服は洗いざらしで袖丈が足りず、ズボンは継ぎが当たっていたが。

ロイエンタールはぎゅっと身を固くすると、ファーレンハイトを腕の中から解放し、さっと仰向いて毛布を顎まで引っ張り上げた。

「もう眠い。少し黙っててくれ」

ファーレンハイトは暖かい腕から急に投げ出されてぼんやりと天井を見た。相手は目を瞑っているがまだ起きていることは容易に分かった。

「おい、寝ていないじゃないか。なんだよいきなり。急に怒るとかなしだ。黙り込むのもなし。頼むから口に出して言ってくれ、からかったから怒ったのか?」

ロイエンタールは目の上まで毛布を引っ張り上げた。

「なんでもない。眠いだけだ」

ファーレンハイトは大きくため息をつくと、身体をこわばらせて横たわる相手の身体を力を込めて引き寄せた。

「イヤダ。もうやりたくない」

「なにもしないよ。隣同士で寝ているのに、朝まで他人みたいにしているつもりか?」

ロイエンタールはしばらく身を固くして仰向けになっていたが、あきらめたようにファーレンハイトの腕の中で徐々に身体を楽にしていった。ぴったりと合わさった肌が互いを温めていく。ファーレンハイトも本当に眠くなってきて、うとうとと暖かい眠りに引き込まれていった。

夢の中で低く小さな声が言った。

「悪かった。おれにはそんな母親はいなかったから、まるでいたかのように言われて腹が立った。ただそれだけだ」

ファーレンハイトは口の中で『何と言った?』と呟く。もごもごした音がしただけで言葉になっていなかった。

「もう寝るんだ、大佐どの。あんたの朝は早い」

 

ファーレンハイトはハッとして慌てて起き上がった。そのとたん、セットしておいた目覚ましが鳴る。寝坊したわけではなかったのだ。安堵して顔を両手でこすりながら息を吐き、目覚ましを止めた。

薄明かりが差すカーテンを開けると、晴れた空から日が昇り始めていた。

布団にもぐって頭の先しか見えないロイエンタールがうめいたので、ファーレンハイトが声を掛ける。

「朝だぞ、起きろよ」

またうめき声が聞こえて、今度は、自分は非番だと言っているようであった。

うらやましいことだ。ファーレンハイトは軍議の準備のため、今朝は早めに出なくてはならない。眠くて仕方がなかったが、自業自得だ。

その原因となった人物は布団から髪の毛だけ見せて眠り込んでいる。ファーレンハイトは衝動的に布団をはいで、その陶磁のような白い裸の身体をさらした。ロイエンタールはまぶしさに顔をしかめているが、頑として起きようとしない。

その顔を両手で挟んで唇に舌を走らせ、ゆっくり接吻をした。徐々に緩む相手の唇に舌を滑り込ませて、滑らかな口内を舌で探る。ロイエンタールがうめいて接吻に応え始め、ファーレンハイトの両脇を撫でるようにして手を回す。

ファーレンハイトはその手が完全に自分の腰を抱えないうちに、唇を離した。

「やっと起きたな、おはよう」

ロイエンタールが睨みつけた。朝寝を楽しんでいたところを無理やり起こされたのだ。こちらもお陰ですっかり目が覚めた。にやにやしながらファーレンハイトは口をついて出そうになる言葉を飲み込んだ。

『また会ってくれるか』

拘束する言葉を言うことでロイエンタールが逃げ出して行くのを恐れたのかもしれない。あるいは、彼が誘えばきっとまた会ってくれると自信があったからかもしれない。その両方の思いが混じり合って言葉にはならずに朝日の中に消えた。

身体は起こしたがまた目をつむってしまったロイエンタールをそのまま残し、ファーレンハイトはシャワーを浴び、軍服に着替えた。朝食は司令部への途上で調達することにし、再びベッドの脇へ戻った。

「じゃあ…」

ロイエンタールは眠そうな目を開けて一夜の恋人を見た。

「カードキイはもらっておく。また会いに来たくなった時のために」

自分の顔が真っ赤になり、口がポカンと開くのをファーレンハイトは感じた。ロイエンタールは顔をしかめた。

「なんだ? あんたは1回限りのつもりだったのか? それならそれで構わない」

「…構わないわけがあるか…! まったく君は…!」

ベッドへ身を乗り出してぐっと彼を引き寄せ唇を押しつけると、急いで離れた。いつまでもここにいるわけにはいかない。

ファーレンハイトは後ろ歩きに戸口に向かって行きながら、ロイエンタールに声を掛ける。

「もし…、今日予定がないならずっとここにいても構わないから」

ロイエンタールは再び眠そうな目になって頷く。

「俺は帰りが遅いかもしれないが、まっすぐ帰ってくるから」

目をつむったままのロイエンタールが頷く。

ファーレンハイトは一度部屋を出ようとドアまで行ったが、再度中に戻り、戸口から顔だけ残して寝室を覗き込む。

「今夜も会えたら…、もし…」

ロイエンタールはすでに布団の中に潜り込んでいた。手だけ出してヒラヒラと動かす。布団の中からくぐもった声がした。

「遅れるぞ」

ファーレンハイトは部屋を飛び出した。リフトに乗って1階へ降り、ホテルのロビーを駆け抜け外へ出る。まだ早い時間ではあるが、通りにはちらほらと仕事へ向かう人々の姿が見える。

―また会う。絶対に会うんだ

ファーレンハイトは駆けだした。身体は軽く、足はバネが利いて少しも疲れを感じなかった。そのまま司令部に向け跳ねるように駆けて行った。

 

 

 Ende

 

 

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