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二人の新任艦長 第2部

27、

ファーレンハイト大佐は自宅のペントハウスがあるホテルの裏口に向かって歩いていた。外はすでに闇で、近頃だいぶ気温が下がって来たから厚手のジャケットを着たらよかったと思いながら、街灯に照らされた裏口の重い扉を開ける。彼はたいがいの時は軍服を着て街中を行き来しており、めったに私服姿になることはない。今の彼は珍しくその私服姿で、かつてこの格好でホテルの正面玄関から堂々と入ったら、あとで支配人にさりげなく私服の時はなるべく正面玄関を使わないでほしい、と釘を刺された。この街の若者がよく行く界隈であれば、彼の格好は完全に周囲に溶け込み、誰も彼が当地の駐屯部隊の気鋭の大佐だとは思わない。

だが、この格好でホテルに入ると、ホテルのパトロンたちが街の不良青年が傍若無人にも彼らのテリトリーに入って来たと思う恐れがあった。もし、彼がダボダボしたフード付きの上着の下には、実際に小型のブラスターを隠し持っていると知ったら、彼らは憲兵を呼んだかもしれない。

ホテルの支配人も他の従業員たちもこの大佐のことを気に入っていたから、彼の機嫌を損ねるようなことは言いたくなかったのだが…。しかし、大佐は別に気を悪くした風でもなく、支配人の言葉にあっさりうなずいて、次はそうしようと言ったものだった。

従業員たちはその代わり、軍服姿の彼には下にも置かぬもてなしで遇した。彼も軍服の時はこのホテルにふさわしい振る舞いをした。

ファーレンハイトは別に私服で人に知られて困るような場所に隠れて通っているわけではなかった。軍議と訓練、哨戒任務の合間に、たまには民間人に交じってフラフラ歩き回ってもいいではないか…!

彼はついさっきまでガンガンとうるさく音楽が鳴る地下のスペースで、他の若者に交じってアルコールを飲んだり、女の子と踊ったり、音楽に負けじと大声でしゃべったりしていた。時々この店で会う若者たちはおそらく彼が何者か知らない。別に秘密にしているわけではなかったが、相手の若者たちも実は昼間はお堅い企業の勤め人かもしれない。

裏口から従業員用の通路を通ってペントハウス行きのリフトに乗る。これはペントハウスの住人だけの専用リフトだからホテルの他の客に会う心配はない。

彼は鏡張りのリフトの壁面で自分の姿を確認した。先ほどのクラブ内では完全に彼の姿はまともに思えた。(しかもオーディンの下町で身に付けた着こなしの名残のせいか、彼の格好は特に『いかして』いるとよくクラブの若者たちから褒められた)。

しかし、今夜はなぜか、自分が場違いでちぐはぐな感じがした。ホテルの金色のリフト内で、自分はまさしく今にも銀行強盗でもしそうに見えると思った。いつもは自分の格好のことなど気にもしない、それどころか住むところが変わったからといって、自分の生活態度を変えるのはおかしいと思っていたはずだった。

だが彼は今、ホテルの下の階にある店で、このホテルにふさわしい服を誂えてもいいのではないかと思っていた。それは昼間通りで見かけた、あの新任の少佐に触発されたせいかもしれない。

まったく彼はしょっちゅうあの黄色い頭の男といるが、その日も二人して街の中央広場のカフェでビールを飲んでしゃべくっていた。まさか彼があのように活発にしゃべりまくるとは思ってもみなかったが、あの黄色い頭の男が相手だとそうするらしい。

彼は少し青味の強い紺色のウールのジャケットを着ていた。近付けばその紺色は彼の片方の瞳によく映えるのが分かっただろう。下には白い柔らかそうなシャツを着て、黒い細身のズボンに包まれた長い脚を組んで座っていた。老若男女に関わりなく通行人の多くが彼の姿に見とれて足を止め、交通渋滞が起きていた。

あのような格好だったら、このホテルに入りたいのならば裏口を使ってくれとは言われないだろう。彼は自分より若いはずだが、彼の方がこのような場所について経験があり慣れていることは疑いなかった。

ファーレンハイトは最上階でリフトを降りると、自分の部屋に向かって廊下をすすんだ。この階には彼の部屋しかないため、廊下を歩くのは自分一人だけで、従業員さえ彼がこの階にいる時は現れない。

ふとさみしさを感じ、子供の頃オーディンの実家に住みついていた茶色い猫を思い出す。時々子供だった彼の相手をしてくれた、ゴワゴワした毛並みのかわいい奴だった。

今夜のホテル内は特に静けさがするどく感じられた。帰る少し前にクラブで若者の一人に別の店に一緒に行かないかと誘われたのだが、彼は翌日の早朝、中将閣下を交えた軍議の準備があるため、早く帰らなくてはならなかったのだった。

―軍議などくそくらえだ…! 連隊長のような中途半端な役職に就くものではないな。このうえはさらに武勲をあげて早く昇進するしかない

彼は決意も新たに自分の部屋の扉を開けた。室内はすでに煌々と明かりがつき、静かな音楽が流れていた。リビングルームに人の気配を感じ、彼はとっさにだぼつく上着の下からブラスターを引き抜いた…。

「遅かったな。夕飯は?」

ファーレンハイトのお気に入りのソファの背には紺色のジャケットがかけられて、そこには高級猫が丸くなって座っていた。ソファの前のテーブルにはワインのボトルとルームサービスで頼んだと思われるつまみ類が置いてあった。

彼が見ているとロイエンタールはテーブルからワイングラスを取り上げたが、その時自然な動きでさっと背筋が伸びた。かと思うと首を振ってソファに深く座りなおし、背を背もたれかけた。足を抱えて、グラスを傾ける。なんだかぎこちない妙な格好だ。おかしな話だがだらしなく座ろうと努力しているように見えた。

「…人の家で何をしているんだ」

「あんたが帰ってくるのを待っていた。この時間ではさすがに腹が減った。おれにも胃袋があることを思い出した」

ワインのボトルは中身が半分になっていたが、彼は酔っているようには見えなかった。

「胃袋は誰にでもある。君はどうやってここに入ったんだ」

ロイエンタールは白いシャツの胸ポケットからカードキイを取り出した。

「これで。すぐ分かるところに認証装置がないから少し戸惑ったが、ちょうど通りがかったアルマが親切に教えてくれた」

「アルマって誰だ? 君のゾフィーは一体どうしたんだ?」

「ゾフィー?」

誰のことを言っているかわからないというようにロイエンタールは混乱した目を向けた。そこで「ああ!」と言ってファーレンハイトが勘違いしていることに気づく。

「アルマはこの部屋の掃除係の女性だ。ワインとつまみも彼女に頼んだ」

そのルームサービスの支払いは彼の部屋に付けられたに違いない。結構な値段がするのに…。この部屋の冷蔵庫にはビールとワインが何本かあったはずだが、気付かなかったのだろうか。

ファーレンハイトは頭を抱えたいのをこらえて、再度この迷いこんで来た高級猫に聞いた。

「こんなところでつまみなんか食べていないで、下のレストランにでも行けばいいだろう」

「今夜はミッターマイヤーが夜勤でおれは一人だ。あんたが気に入っている店でもあれば連れて行ってもらおうと思った」

「…俺が?」

ロイエンタールはソファからすっと停滞することのない動きで立ち上がり、彼の方に向かって歩いてきた。

彼の正面に立って少しだけ高い位置にある彼の目を見る。

「あんたが、好きなものを、おれも食べたい、と言っているんだ」

その色違いの瞳は天井の明りを受けて輝き、少し笑みを含んでいるように見えた。ファーレンハイトの脳裏に一瞬、初めてこの若者が彼の部屋に来た時の様子が浮かんだ。熱を出して頼りなげな傷ついた姿で、その陶磁器のような肌は熱に痛み、触れれば壊れてしまいそうに見えた。

今の彼は自信に満ちてしっかりと両足で立ち、自らの内から輝きを放っているようにまぶしく感じられた。

ファーレンハイトは足の指先から脊髄まで、電流が流れるように感じ身を震わせた。彼は混乱して叫んだ。

「いったい君はなんなんだ!!」

ファーレンハイトは言った途端に後悔した。ロイエンタールの笑みはさっと消え、氷のように感情の籠らない冷たい声で答えた。

「迷惑なら帰る」

そしてジャケットを取り上げるとそのまま部屋を出て行こうとした。ファーレンハイトは慌ててその腕をとった。彼はロイエンタールが冷然と答える前に、一瞬その瞳が不安に陰ったのを見逃さなかった。

「すまなかった、びっくりして言っただけだ。食事に行きたいのであれば俺は着替えなくてはならんから待っていてくれるか」

ロイエンタールは彼の腕をとった手をじっと見てから、ゆっくり視線を上げた。その目はまた笑みを含んでいた。彼の腕を掴んだままの手の上に自分の手を置いたが、やがてその手を持ち上げて腕から外した。

指先にしびれを感じてファーレンハイトは呆然と相手の手を見た。彼らの手はどちらも白磁のような白さを持ち、華奢だった。

何度か努力の末、ファーレンハイトはようやく口を聞いた。

「…君はゾフィーと付き合っていただろう。彼女はどうしたんだ」

「別れた」

「別れた!? また? あんなに仲がよさそうに見えたのに…」

「仲がいいか…」

ファーレンハイトはその時見た彼の冷笑を忘れることは出来ないだろう。同期の友人が酒の席で話した事を同時に思い出した。だが、目の前の笑みを含んだ色違いの瞳を見ているとあらゆる不安は消え去り、ただ自分の鼓動がいつになく高まるのを感じた。

「では、今の君は?」

「端境期だ」

ファーレンハイトは噴き出した。いささか緊張を含んだヒステリックな笑いだったが止めることが出来ず、ようやく眉をひそめるロイエンタールに気付き、笑いを押さえた。

「君でも冗談が言えるんだな」

肩をすくめてから、ロイエンタールは言う。

「それで?」

じっとファーレンハイトを見つめながら、彼は静かに二人の間の距離を縮めた。彼の顔がさらに近付き、自分の頬に彼の息遣いを感じたような気がして肌が粟立った。すぐ近くに彼の輝く青い瞳が見えたが、敢えて波立つ心臓を押さえる。

しかし、ファーレンハイトはまだ完全には立ち直っていなかったから、その時浮かんだ言葉を考えもせずに口にした。

「明日の朝食はクロワッサンでも食べるか?」

ロイエンタールは呆れたように眉を上げた。

「もっと気のきいたことを言えないのか?」

両手で顔を覆ったファーレンハイトはそのまま後ろを向いてしまった。自分が馬鹿な姿をさらしていることは分かっていたが、こうも動揺していてはどうしようもない。彼は後ろ向きのまま言う。

「とにかく10分待ってくれ。着替えてくる。まともな時間じゃないが、料理がうまい深夜営業の店を知っている。君の口に合うかどうかは分からないが…」

「旨いまずいはおれだってわかる。クロワッサンが出てこなければ構わない。あれは食べにくいから好きじゃない」

「がっしりしててちぎってくれと言わんばかりのパンが出てくる店だ。しかもそのパンも店で焼いてて旨いんだ」

なぜパンの話なんかしているんだ、と思いながらファーレンハイトは急いで自分の部屋へ逃げ込んだ。

ソファで丸くなって彼を待っている高級猫のような若者と共に、本当にこれから時を過ごすのか、それとも…? だが、彼を追い出すことなどファーレンハイトには出来なかった。

人生は先が見えない複雑な曲がりくねった道で、彼が選ぶことができる道は一つではない。彼の道と彼がかかわる人間のいくつもの道は、互いにほぐすことも難しいほど交りあっては離れていく。

彼の持論通り、今日の苦しみは明日には喜びに変わっているかもしれない。先の分からない隘路を行くならば、おのれが望むやり方でその道をすすむのだ。

他の誰のものでもない、彼の行く道なのだから。

 

 

Ende

 

 

*あとがき*

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