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冬のあいさつ

ロイエンタールがその夜自宅へ戻ると、チョコレートの大きな箱が2つとにこにこした執事が、彼を待っていた。

「ひとつは明日、元帥府に持っていく。もうひとつはおまえと他の者で分けてくれ」

執事は主人が脱いだ軍服の上着を手に持ったまま会釈する。

「ありがとうございます。旦那様もさっそく一口お召し上がりになりませんか」

ロイエンタールは眉をあげて執事を見る。彼が子供のころからこの家にいる執事がこのように言った時は、何か主人と話をしたい時だと知っていた。

ため息をついてロイエンタールは頷く。

「ではそうしよう」

楽な服装に着替えて居間に向かうと、すでに執事がコーヒーの用意を整えて待っていた。チョコが箱から出されて、きれいな絵皿の上に盛り付けてある。

ロイエンタールはテーブルの脇に立つ執事を睨みつけた。

「これは自分用に買って来たのではないぞ。一口はもらうが後はおまえたちで分けて食べろよ」

「ありがとうございます。旦那様がお召し上がりになった後で、皆でご相伴にあずからせていただきます。さあ、どのチョコレートになさいますか」

彼は悩むふりをしたが、どれが食べたいチョコレートか決まっていた。

「そのミルクチョコレートのやつ」

「はい、ではこのくらいでいかがでしょうか」

執事がナフキンを持った手でパキン、と一口大に割り大きさを示したので、ロイエンタールは頷いた。コーヒーの熱い液体を一口飲んでから、ミルクチョコレートをかじる。まろやかで濃厚なミルクチョコの風味に、ふとシナモンが香り、思ったより上品で大人が好む味だと知る。

手に持った布ナフキンを畳んでテーブルに置いてから、執事が話しだした。

「こちらはブロムベルクのチョコレートでございますね。かつて当家の近く、この界隈にも同じくらい古い歴史を持つ店がございましたが、そのことをご存知でいらっしゃいましたか」

コーヒーを再び飲みながらロイエンタールは首をかしげた。

「いいや、知らないな」

「もう20年にはなるかと存じますが、その店は残念ながら廃業してしまったのでございます。チョコレート職人で店主であったフリューリング氏の後継ぎが徴兵ののち、戦死してしまい、軍と帝国を恨んだフリューリング氏は店を畳んでしまったのです」

「よくある話だ」

「さようでございますね」

ロイエンタールは執事の言葉の裏にある無言の叱責を感じ取った。だが、戦時下にあって徴兵が常態化した現在では、同じような話がどこにでも転がっているのは本当だ。

執事は少し遠くを見るような目をして主人を見た。

「当家では代々のご家族の方はみな、このフリューリングを贔屓にしておられまして、時候の挨拶に、贈り物にと何かの折にはよくフリューリングのチョコレートをご利用になられたそうでございます」

ロイエンタールはもう一口コーヒーを飲もうとして、カップを持つ手を止めた。

「フリューリングが廃業しましたことでその習慣が途絶えてしまい、わたくしはさびしいことだと感じておりました。ところが、旦那様はこの習わしをご存じではございませんでしたのに、店は違えどこのようにチョコレートを贈り物にお選びでございます。大変結構なことかと存じます」

頷きながら執事は話を締めくくった。

コーヒーカップをテーブルに置いたロイエンタールは、じっとチョコレートを見て考え込んだ。

「20年前と言ったな。それはおれが子供の頃の話なのだな」

「さようでございますね。もうひとかけ、お召し上がりになりませんか」

いわれるままに、ロイエンタールは差し出されたミルクチョコレートをかじる。その時、シナモンとチョコレートの風味と共にふいに思い出がよみがえった。

「…その店のチョコレートをおれも食べたことがあるか」

「はい、小さなお子様には混じりけのない純粋なチョコレートは刺激がつようございます。おやつの時に少しだけ、お召し上がりになりました」

彼の心に薄暗い窓から雪が降っている情景が見えた。

そうだ、あの朝、子供部屋はすでに暖められていて、彼が裸足でベッドから飛び起きても寒くなかった。ドキドキしながらそっと自室の扉を開けると、ドアの外には赤と緑の包装紙で金色のリボンを結んだ四角い大人の手のひら大のものが、紙袋に入れて置いてあった。誰も見ていないことを確かめてそれを手に取り、部屋に戻ると、びりびりと包装紙を破った。その中にはきれいな絵が描かれた箱に入った、板チョコがあったのだ。

子供の頃、冬のある時期になると毎年その贈り物が1個だけ置いてあった。毎日、おやつの時にミルクと一緒に、執事が先ほどと全く同じようにその板チョコを一口大に割ったものを食べた。ブロムベルクの洗練された薄い板チョコではなく、厚みがあるがっしりとしたチョコレートだ。子供の口にはかなり濃厚な味だったに違いないが、もっと食べたくても少ししか食べさせてもらえなかった。それでも、1月も半ばになるとそのごちそうはなくなってしまう。そしてまた、次の贈り物の時期を待つのだった。

彼は想像していたのだ。これは親切なおじいさんがいい子にだけあげるプレゼントで、特にいい子だった彼には特別にこんなに素敵なものを贈ってくれたのだと。

だが、本当は―。

誰がそのチョコレートを贈ったのか。ロイエンタール家の代々の家族が贔屓にしていたチョコレート店、そのような店に執事などの使用人が勝手に買いに行けるようなものではない。

それでは誰が―。

ロイエンタールは子供の頃と同様に、それ以上考えることを止めた。それ以上先の思考の深淵をのぞきこもうとする前に急いで引き返した。だが、記憶はどんどんとその淵からあふれ出てきた。

その贈り物はある時を境に姿を消した。もう、扉の前に素敵な贈り物が置いてあることはなくなった。それは彼が10歳になる前のことだった。彼は悪い子だったから、もうプレゼントを貰えなくなったのだと思って非常に悲しんだ。

 幼年学校に行って軍人になりたいと望んで、初めて ― に逆らったから

ところがある朝、同じようなチョコレートの包みが扉の前に置いてあり、彼はほっとした。それまでと同じように、その日のおやつに少しだけ、執事がチョコレートを割った。ところが、そのチョコレートは去年までと違う味で、少し食べにくささえ感じられたあの濃厚さが薄れたように感じた。

ロイエンタールが不思議に思っていると、その時、執事が「おいしいですか」と声を掛けたのだった。

子供ながら彼は悟った。贈り物をもらえなくなった自分を可哀そうに思った執事が、どこかでチョコレートを買ってきて去年までと変わらないふりをしたのだ、と。

フリューリングが健在だったならば、執事は無理にでもその店のチョコレートを手に入れようとしたかもしれない。だが、フリューリングは廃業してしまい、それはかなわなかった。味の違いは子供だったロイエンタールに、贈り主の真実を悟らせた。それでも、執事のその行動により、彼は完全に見捨てられたわけではないと分かって、ほっとしたのだった。

そう、毎年チョコレートを彼の部屋の扉の前に置いていたのは―。

代々の習わしに倣ってしぶしぶチョコレートを贈っていたが、フリューリングが廃業したことでこれ幸いとその習慣をやめたのか? 別の店のチョコレートを選びなおさなかったのは、ただの考えなしの怠慢だったのか? いずれにせよ無慈悲な仕業には違いなかった。

そうだ、帝国の父親ならばこの時期、だれでも子供のために考え抜いた贈り物を贈ったに違いない。それを老舗の名品とはいえ、子供の口には濃厚すぎるチョコレートを一枚だけ―。

自分はその贈り物をどれほど待ち望み、大きな期待を掛けていたか、そして毎日少しずつ大事に食べて、食べきってしまった時の悲しさと言ったら…。

その時、ふとロイエンタールは視線をあげた。目の前に立つ執事は遠目には沈着冷静な従僕の鑑といった風情で立っている。だが、その目は彼を心配そうに見ていた。彼を子供のころから知り、見守ってきた数少ない人物だ。

今日、ロイエンタールは苦い記憶のことなど思い出しもせず、親しいものへの贈り物にふさわしい品としてチョコレートを買い求めた。子供だったあの時、チョコレートの贈り物がぷっつりと途絶えたままだったら、きっと誰かのためにそれを贈ろうとは思いもしなかったはずだ。

だが、この執事が小さかった彼を思いやってこっそりチョコレートを買い、彼に贈った。これは誰かの代理として贈ったのではなく、執事自身の贈り物だったのだ。

執事はじっとしたままの主人にますます心配そうな目を向けてから、布ナフキンを手に取った。

「さあ、もう少し召し上がりませんか」

ロイエンタールは苦笑した。

「これ以上食べたらおまえたちの分がなくなってしまうぞ。もう仕舞ってよい」

それからロイエンタールは呟くように言った。

「ありがとう」

執事は戸惑った風に彼を見ていたが、当の主人はもう何を言ったかも忘れたようにコーヒーを飲んでいる。執事もそっと答えた。

「こちらこそお気づかいいただきありがとうございます。大事に少しずつ頂戴したいと存じます」

「ふん、好きなように食べろ。それにしてもこのチョコレート店もずいぶんと繁盛しているようだったぞ。こういった甘いものがみな、たいそう好きなのだな」

「さようでございますね。旦那様もお好きでございましょう?」

「まあ、ひとくちふた口くらいならな」

それぞれの思いをあいさつに代えて、帝国の冬の贈り物が届く―。

 

 Ende

 

 

 

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