~木枯らしの夜に~At the night of the cold blast
濃厚なアルコールの匂いが部屋中に立ちこめ、メックリンガーはそれだけで酔いそうになった。ロイエンタールは両手で胸についた紫の液体を広げ、腹の下まで手を撫で下ろした。
「べたべたするし、アルコール臭い。酒樽になった気分だ」
「私をからかったお仕置きだ。もう一本あけて浴びてみるか」
「勘弁してくれ。普通の水はないのか」
「あったはずだが、暑いならもっといいものがある」
部屋の隅の冷蔵庫を開けて製氷ボタンを押すと、キューブ型の氷がザッと音を立てて出た。それをグラスに受け止め、部屋の中央のロイエンタールの元に戻る。一口大の氷を一つ取り上げ、彼の口元に運んだ。ロイエンタールが口を開いてしっかり氷を含むまで、指を離さなかった。指に唇が触れ、舌が一瞬巻き付き、そして離れていった。
ロイエンタールは簡単には望むものを与える気はない、だがそれは彼も同じだった。
次に相手がどう動くか待ってでもいるように、ロイエンタールは口の中の氷を味わっていた。
先ほどまでは口をきく気になれなかったが、今やメックリンガーは自分が前もって何も考えずに話しだすのを意識した。
「卿の肌はあまりに白く滑らかだ。ワインの紫が良く映えるよ。何か高貴な生き物のようだな」
「気障な言い草だな。体中べたべたしている身としてはうれしくもない」
彼はまだ胸を触っている。そのべたべたした感触が気になって仕方がないのだろう。眉をひそめて手を眺めているので、メックリンガーは寛大な気分になった。
「疲れたのならばポーズを変えよう。そこの長椅子に掛けて」
「疲れたというより飽きた」
そう言いながら、ロイエンタールは無造作に長椅子に腰かけた。自ら演技をしてポーズを取る気がないのは明らかだった。
「これは退屈させて失礼した。話しながらであれば気が紛れるだろう。さあ、もう少し身体を倒して、肘掛けに寄り掛かる感じで…」
「こうか?」
横になって上半身は肘掛けに預けているが、腕をどうしたものか決めかねるように、前に垂らしている。
「頬杖をついて」
メックリンガーは近付いて、背中側にクッションを置いてやり、彼の腕を取って顔に当てさせた。彼の腕は汗で湿ってしっとりと吸いつくようだった。
「上の方の足の片膝を立てて、もう一方は長く伸ばす」
彼はそう言いながら、ロイエンタールの片方の膝をつかむ。そして、空いた方の腕を取って胸の前に置いた。ロイエンタールの膝をつかんだまま長椅子の前に座る。ほんのすぐ近くに互いの身体があった。
鉛筆とスケッチブックを床に置いて、メックリンガーは目の前の身体の中心に手を伸ばす。ワインに濡れたそれは彼が近づいた時から少し力を持ち始めていたが、彼が上下に優しく撫でるとたちまち息づいた。ロイエンタールがため息をつく。
二人は目を合わせたまま、メックリンガーが手を添えた中心にすべての意識を集中していた。やがて彼はロイエンタールの空いている方の手を取った。
「あとは自分で続きをするんだ」
言われた通りに、自分に片手を添えて上下に動かす。ロイエンタールは目をつむって眉をひそめ、口元は何かに耐えるようにきつく結んでいた。しばらくその様子をスケッチしていたが、別の表情をスケッチするべく注意を促した。
「少し目を開けた方がいいだろう。口元リラックスして」
そんな表情を並の男がしたら間が抜けて見えただろうが、目の前に横たわる男はそれでも完璧さを崩すことはなかった。いつもは白い頬を赤く染めて、やはり色づいた唇から赤い舌が見える。扇情的なことこの上ない。
鉛筆が走る音の中、濡れたような肌の擦れる音と、開いた口元から漏れるため息がした。
「…誰かに見られながらするのは久しぶりだ」
「ほう、見ていたのは男か、女か。君を見ながら何をしていた」
「男。自分もしていた」
「ありきたりだな、芸のないことだ」
ロイエンタールは少し身をよじって笑う。
「ビデオに撮ろうとするやつもいたが、それは壊してやったし…」
メックリンガーは手を止めて、自分のスケッチを見る。
「絵に描くのは構わないのか」
柔らかな息遣いと共に答えがする。
「…さっきその絵がちらりと見えたが…、はっきり何が描いてあるか分からなかった」
「写実主義ではないからな」
「…は…あ…んんっ」
それはメックリンガーの答えに対する返事ではなかった。目を開けるように言われたことを忘れてまぶたをぎゅっと瞑り、一心に何かを追い求める表情―。手の動きが早くなった。
「だめだ、手はゆっくり。目も開けてこちらを見る。我慢できなかったら声を出すといい」
「…ああ…、んん…、モデルに無理はさせないといっただろう…」
少し荒い息の中でそう言うと目を開けて、画家が近づくのを見る。汗ばんだ前髪が額に垂れて、その陰から強い光を放つ瞳が見えた。
彼の前に座り、その膝の上に手を置き、じょじょに大腿の上を滑らせる。
「私にひとつのアイデアがあるが、絵画に造詣の深い卿に聞いてほしいね」
ゆっくり自分を滑らかな動きで撫で続けるロイエンタールは、片手をあげて目の前にある身体の鎖骨辺りを指でなぞった。汗が滴り落ちるのをその指が追いかけ、汗と指が胸の突起にとどまった。
メックリンガーが身震いをする。
「…伺おうか」
喉にかかったかすれた声でロイエンタールが答えた。メックリンガーは何を言うつもりだったか、かろうじて思いだした。
「ここに長椅子に寝そべった一糸まとわぬ男がいる」
ロイエンタールが鼻で笑った「…どこかで見たような絵だな」
「さて、これからその男の相手がそこへやってくる絵がいいだろうか。それとも、すでにことを終えて立ち去ったあとを描く方がいいだろうか」
彼が身をかがめて白い胸に描かれた紫色のストライプを舌で追うと、ワインの風味と一緒に汗のしょっぱさを感じた。ロイエンタールの汗ばんだ手のひらが彼の頭を抱え、もう片方の手で背中を撫で、後ろの腰の隙間からズボンの中に入り込む。ロイエンタールが熱いため息をつきながら答える。
「さあ…、これから来るのと、終わった後と…?」
ワインに染まってより一層濃い色をした胸の突起を口に含むと、息を飲む音が聞こえた。まるでワインを飲むときのようにそれを舌で転がし、隆起した粒のような感触を楽しむ。そして、べたつく腹を撫でながら手を下へおろして彼を待つその中心へ向かった。
「…その絵は…、見た者のその時の気分で…」
器用に片手でメックリンガーのズボンの前を緩め、自分のものですでに濡れた手がするりと下着の中に忍び込み、反応している部分をしっかり握った。それとほぼ同時にロイエンタールの中心を力を入れて撫でる。どちらからともなく唸る。
「…ある時はこれから相手が…その男に襲いかかるように思い…」
膝を完全に自分の進路から退かせようと大きく開かせ、ワイン以外のもので濡れて光るその中心を見つめる。そしておもむろに口に含んで丁寧に味わい始めた。
「…またある時は…終わった後のように見える…うっん…はあ、ああ!」
まるで引き抜かんばかりにメックリンガーの頭髪をつかむと、ロイエンタールは相手の口に腰を押しつけた。メックリンガーがさらに手を添えて扱き上げようとした時、思わぬ力で腕をつかまれ、引っ張り上げられた。目の前に上気し、うるんだ瞳のロイエンタールの顔が現れた。
「その絵は今すぐ描くのか」
汗ばんだ額から前髪をかきあげてやりながら、メックリンガーは答えた。
「そうだな、私の感情が新鮮なうちに」
ロイエンタールがまた何か言おうとするのを口で封じて舌をねじ込んだ。熱心な舌が差し出された舌にからみ吸いつく。お互いにワインに交じって新鮮な相手の味を味わい、その香りに酔いしれた。
「まったく君はひどい男だ。まんまと私を怒らせて、すっかり振り回されてしまった」
二人は暑くていろいろな匂いのするアトリエから脱出して、メゾネットの2階のメックリンガーの寝室にいた。アトリエは暖房を消して掃除ロボがフル活動し、換気扇が最大強度で回っている。
シャワーを浴びてさっぱりしてから、ベッドの上に並んで座り、冷たい炭酸水を飲んだ。
「まるで偶然今夜を選んで来たようなふりをして、本当は前々からこの日を狙っていたのではないか?」
「まあ、あんたが思ってもみない時を狙っていたのは確かだな。休暇前だからゆっくりできていいだろう」
自分の年のことを言っている気がしたが、それには構わず、メックリンガーは目を細めて年若い僚友を見た。
「最初から私をベッドに誘い込むつもりだったのか?」
相手は切れ長の目で横目にこちらを見て水を飲みながら答える。
「ベッドでなくて長椅子だったがな。だが、どうなるかは分からなかった。その穏やかな表面をどうにかして突き崩してやったら、そうしたらいったい何が出てくるか。その反応を知りたかった」
「私の絵が退屈などと…。いろいろ見て回って勉強してくれたのはうれしいが、私の絵を貶して怒らせるなど、まったく意地が悪い」
なぜか、ロイエンタールは顔をそむけた。
「ああ~、そのことだがな。あれはすべて口から出まかせだ」
水のボトルをサイドテーブルに静かに置き、メックリンガーはロイエンタールに向き直った。
「出まかせ? だが、あれほど強烈な批判は初めて受けた。あれは妙に私が無意識のうちに感じていた、自分の芸術の弱点を鋭く突いていて…」
そしてもう一度、今度はロイエンタールの両肩をつかんで揺さぶった。
「出まかせ!?」
「悪かった。卿の絵は一つも見ていない。下の部屋で見たのが初めてだ。実のところ、退屈ともなんとも分からなかった」
ロイエンタールは目を合わせまいと、あらぬ方を見ている。まったく一つも見たことがないなど、がっかりさせることを言う。だが…。
その両肩をつかんだメックリンガーは相手を怒るべきか、愛でるべきか、分からなかった。彼は手放しがたい思いから、この部屋にスケッチブックを持ってきていた。そこには自分が今まで描いたどの絵よりも、荒々しい感情に満ちたスケッチが描かれていた。
誰もが彼の演奏を、詩を、絵を称賛した。どこへ出しても誉められた。だが彼自身はずっと飽き足らぬ思いにとらわれ続けていた。きっと自分が目指すものは今生では決して届かぬ所にあるのだ。その思いが自分の芸術と正面から向き合う気力を彼から失わせかけていた。そのことを忘れようと芸術はただの趣味だと思いこもうとし、一心に軍務に注力するようになっていた。
彼を称賛する人々に対して、自分の芸術に対する苦悩は打ち明けることが出来なかった。
その思いをまるで見透かしたようなロイエンタールの言葉に、彼は激昂したのだった。出まかせにしては的を得すぎている。きっとこの明敏な男には、人が見られまいと隠し、他の者が見逃すものを一瞬でとらえる力があるに違いない。
ロイエンタールがメックリンガーの視線を追ってそのスケッチブックを見た。少し心配そうな目になって言う。
「本当におれの裸の絵を描くつもりか」
メックリンガーは彼の肩を離して、隣の位置に戻ると、その頭をなでてやる。子供扱いにむっとした気配がしたが、ロイエンタールは何も言わなかった。
「そのような心配はいらない。君は知らないだろうが、この帝国ではヌードは完全に許可制で、資格がある者だけが、選ばれたモデルを相手に描くことが出来る。友人を私的に描いたものなどもってのほかだ。もし私が君のヌードを書いたら、それは完全に私だけのものにするしかなく、公表することは不可能だ」
「そうか。描かれたいわけではないが、人間の姿を描くことも許されぬとは歪んだ国だ」
「そう。だが、いずれ近いうちにそれも変わる…。そうではないかね」
彼らが仕える若き英雄についてしばし思いを馳せ、二人は黙り込んだ。だが、メックリンガーが沈黙を破るようにおどけた声で言った。
「いやはや、しかし、あの批判がすべてでたらめだとは…。これはいっそのこと、君のすべてを描いた絵を公表して懲らしめるべきかな。きっと見る者に強い感情を掻き立てる絵になるだろう」
ロイエンタールの表情は彼が初めて見る、よわり切って困ったようなものだったので、また頭を撫でてやった。ロイエンタールがその手をつかんで、胸に引き寄せる。
「やめてくれ。撫でるなら別の所にしてくれ」
「はいはい、このモデルはわがままだな」
外の木枯らしもこの部屋には届かない。帝都の夜は静かに更けていった。