~木枯らしの夜に~At the night of the cold blast
明日から休暇という週末のその夜、メックリンガーは自宅のアトリエで一人、絵筆を握っていた。彼は先日短い休みを利用してスケッチ旅行に出かけた。その時の絵を仕上げる時間を、ここ数週間ずっと楽しみに待っていたのだ。完全に楽しみのためなので、油絵で実験してみようとわくわくしていた。
外は木枯らしが吹いていたが、アトリエの中はほどよく温まっていた。彼はシャツ一枚で時々ワインを一口含んではキャンバスに色を置いていく。窓の外の暗く寒い空気とは違い、頭の中は旅行の時の陽光に照らされた森や川べりが広がっていた。
だが突然のドアを激しく叩く音により、彼の想像の野原は一瞬で消え去った。彼が時計を見るとすでに2300を回っている。常識的な者なら人を訪問したりしない時間だ。
さらにドアを連打する音がして、彼は「はい、はい」と言いながら戸口へ向かった。
インターフォンのモニタにはオスカー・フォン・ロイエンタールの色違いの双眸が映っていた。ぎょっとしてメックリンガーはドアを開けた。
ドアに取り付けたインターフォンのカメラを覗き込んでいたロイエンタールが、たたらを踏んだ。どうも酔っぱらっているのは確実なようだ。
「急に開けるな」
メックリンガーはそれを無視して言った。
「いったい卿はこんな遅くに何をやっているんだね。それにこの建物は住人以外入れないはずだ。どうやって玄関を入って来たのだ」
「玄関でうろうろしていたら、管理人が入れてくれた。卿の部屋がこのフラットだとは知っていたが、正確にはどの部屋か分からなかったから、聞いたら親切に教えてくれた。あれは退役軍人だな」
「そうだ、私がこの建物の管理人になるよう世話をしたのだ。まったく…」
ロイエンタールがドアに寄り掛かって腕組みをしたまま、メックリンガーに目をやる。
「部屋に入れてくれないのか」
メックリンガーはため息をついて彼を部屋に通した。
ロイエンタールは軍服姿で上にコートを着ていたが、室内の暖かさを感じてそれを脱いだ。無造作にそこにあった椅子の背に掛ける。そのままその椅子に掛けた。
「さあ、描いてくれ」
長い脚を優雅に組み、さらに腕を組んで椅子にふんぞり返った若き提督が言った。
「まさか、モデルになりに来たのか」
「その通り」
ロイエンタールは酔ってはいるようだが、その目は澄んでいた。完全に素面とも言い難いが、正気を疑うほどではないと思われた。
「確かに卿の都合のいいときにモデルになってくれとは言ったが…。今が都合のいい時か」
「その通り」
先ほどと同じ答えを繰り返した。やはり大分酔っているのかもしれない。
「酔っている時はお断りだ。アルコールの影響のもとではいつもの卿とは違うだろうからな。しっかり普段通りの受け答えが出来る時でないと意味がない」
「質問票でも読むつもりか」
「私はモデルと会話をして、その人の考えや思考を探りながら描くのだ。その人物の人となりを映し出すためには私はそうする必要があるのだ」
ロイエンタールはうっすらと笑った。
「では聞くがいい。おれが酔っているというのなら、話しているうちに酔いもさめるだろう。さらに言えば、コーヒーでも出してくれるとなお良いな」
「この時間にコーヒーか」
「明日から休暇だ。この時間もくそもあるか」
ロイエンタールは目を細めると、モデルになると言った言葉はどこへやったのか、椅子から立ち上がった。メックリンガーが先ほどまで描いていたキャンバスに向かう。
「卿は思ったよりも常識家だ。芸術家と言うのはもっと奔放な人種だと思っていたが」
「軍人にもいろいろあるように、芸術への取り組み方も人それぞれだ。私は完全に平凡な日常生活の中に芸術を取り交ぜるのが好きなのだ」
まだ絵の具が渇ききっていないキャンバスにロイエンタールは指を置いた。メックリンガーがあっ、と思う間にもまだ濡れて盛り上がった絵の具にぐっと指を差し入れて押した。そのまま指でキャンバスの上に絵の具を押し広げた。
「何をしているんだ!」
「『完全に平凡』か、まるでこの絵そのものだな」
今度は目を細めたのはメックリンガーの方だった。
「今なんと言った」
「おれも芸術に関しての知識は平凡そのものだ。ビッテンフェルトが芸術家提督もああ見えて実はモデルを相手に乱痴気騒ぎをやっているに違いない、などというから、真偽を確かめる気になって来てみた」
ロイエンタールは残念そうにきれいに片づけられ、趣味のよい家具が置かれたアトリエ内を眺める。
「別にそのへんのクローゼットに何か破廉恥なものを隠している風でもないな」
「あの猪武者め…! 卿も卿だ、私のことをそのように思っていたとはあまりではないか」
緑色の絵の具がついた指を顔の前に広げて、ロイエンタールはメックリンガーを横目で見た。その切れ長の目は昼間見るより、ずっと感情豊かに輝いていた。だが、その瞳の裏に何の感情が湛えられているかは分からなかった。
ロイエンタールが絵の具の付いた指を差し出して見せたので、メックリンガーは内心舌打ちして筆を拭くためのタオルを手に彼に近付いた。
彼はそのままタオルをいたずら者に手渡せばよかったものを、なぜか、その手を取った。まるで拭いてほしいというように、差し出されたからかもしれない。
ロイエンタールの手は大きく骨ばっているが、すんなりと優雅で細い形をしており、まるで今まで戦斧など持ったことがないかのように白く、傷一つなかった。その手を両手に取ったメックリンガーは自分の手がまるで、農夫の手のようにごつく日焼けしているように思った。彼は手にコンプレックスなど感じたことは、今まで一度としてなかったのだが…。
絵の具を拭きとってからも彼はその優雅な手を取ったままでいた。自分はこの手を描きたいからじっくり眺めているのだ―、彼はそう考えた。
ロイエンタールはメックリンガーの先ほどの言葉を受けて口を開いた。
「卿はどのような男か? おれは卿の芸術面での活躍を知らんから、卿の戦略からしか卿のことを語れぬ。それによると地道さを恐れず、完全に理知的で、コントロールされているという印象だな」
相手を確認するようにロイエンタールは少し近づいた。
「だが、意外性はない」
メックリンガーは目を見張った。
「卿は私自身のことを話しているのか、それとも、私の作戦能力について話しているのか、あるいは私の作品について話しているのか」
「それはすべて別のものなのか?」
取られた手を相手に預けたまま、ロイエンタールは鼻先をすりよせんばかりに顔を近づける。メックリンガーにはそのきめ細かな肌の色合いや、アルコールが入っているにしては濁りのない瞳といった細部までよく見えた。
その瞳が細められて相手が笑っていることに気づく。
「もし同じだとしたら、なるほどミッターマイヤーなどは力強い絵を描くだろう。それがどんなものか知らんが」
なぜここにミッターマイヤーが出てくるか分からなかったが、彼らは親友同士だから脈略もなく彼の思考の中に現れるのかもしれない。メックリンガーは彼の着想に乗って聞いてみた。
「では卿が描く絵は?」
「いろいろな色を混ぜると最後には黒になるというだろう」
「チューブから出したそのままの黒ではなく、いろいろな色が混じって黒になっている絵だというんだな。それはどんな形を表現している?」
「形はない」
少し目線をメックリンガーの向こう側に泳がせていたが、それが正面に戻って来た。
「そして、卿の絵は一見複雑そうに見えて、実はその思考をほどけば分かりやすくて退屈な絵になりそうだな」
メックリンガーは勢いよく相手の手を離した。タオルがひらりと床に落ちる。
ロイエンタールは両手を脇に広げてまっすぐメックリンガーを見た。
「一度卿の秩序だった思考を理解すれば、あとは迷う必要はない。卿の思考は安定していて浮薄な感情の入る隙などないから、想定外の対応は考えなくてすむ。ルールに従ってさえいれば予想しやすいから楽だ」
足元に落ちたタオルを少し蹴って自分の進路から退けると、ロイエンタールは片足を一歩前へ出して前かがみになり、メックリンガーの顔を覗き込むように見た。
「理知的すぎて感情の入る余地がない。そんな絵が面白いか?」
「何も分からんくせに人の作品の批評をするのか!」
「人は自分が理解する範囲で物事を処理する。おれの処理能力が低いからと言って卿はおれを責めるのか? 芸術は大衆のものではなかったのか? あの展示会の花畑はおれでもその面白みが分かった。着想は単純だが、人それぞれに考え、各々に違った感情を芽生えさせる余地を与えている」
前かがみになって、目は上目遣いでこちらを見ているロイエンタールは、額にかかった前髪を掻きあげてから続けた。
「卿は言っていただろう。自分が感動してこそ、見る者に感動を与えられると。おれはあの作品の作者の感情の動きを感じた。卿の作品からは何も感じない」
自分の顔は今真っ赤になっているに違いない―。顔の表情を穏やかに保つことはできず、眉間に深い溝が刻まれ、小鼻は膨らみ、口の端は震えている。『怒り』のカリカチュアだ。
メックリンガーはテーブルからスケッチブックをひっつかんだ。その拍子に傍に置いてあった絵の具のチューブが何本かバラバラと床に落ちた。
「今すぐ服を全部脱げ」
その命令に動じることもなくロイエンタールが片方の眉をあげる。
「モデルになりに来たのだろう。ならば言う通りにするのだ」
「ポーズの取り方なぞ知らんぞ」
「私が指示する通りにすればいい。そこに立って、頭の上で両腕を組む」
「疲れそうだな」
メックリンガーは声こそ荒げはしなかったが強い口調で言った。
「早くするんだ。時間稼ぎをする気ではあるまいな」
そのような言葉にもうろたえることはなく、腹立たしくもロイエンタールは悠々と軍服の前ボタンをはずした。一つ一つ焦ることなく、ゆっくりと。
―こちらを焦らしている
彼は分かっていた。ロイエンタールが筋の通らぬ理屈をこねて、彼を怒らせようと挑発したことを。彼はまんまと挑発に乗った。分かっていながら腹立ちを押さえることが出来なかった。
服を脱ぐ僚友を前に、彼はスケッチブックを手に握っていらいらと立ち尽くしていた。だが、大人しく待っていることが出来ず、足音荒く部屋の隅へ歩み寄ると、ヒーターを最高温度にあげた。天井の空調システムと床暖房が静かな音を立てて働く。
振り返ると上半身裸のロイエンタールが、椅子に座って軍靴の紐を解いていた。解き終わって無造作に靴と靴下を脱ぐ。焦らすことはやめたらしく、事務的な態度でズボンのホックをはずし、それを脱いで脇に放ると形の良いまっすぐな両足をさらしながら、下着を下ろした。
まるで面白い茶番だとでも言うように片頬をあげた表情で僚友を見た。
「腕を? 組む?」
「そうだ、頭の上で両肘を持つ。疲れるというなら楽な方法を探してくれ」
「ふん、まあやってみよう」
ロイエンタールはまっすぐに立った。こんなことは普段からしているとでも言うように、天井の高いアトリエの真ん中に立ち、両腕は高く上げたまますべてをただ一人の観察者の前にさらした。
メックリンガーはまるで何かに追われるように鉛筆を走らせた。彼の焦燥が現れたスケッチは、どれも描き始めたとたん次の事象を描こうとし、一筆書きのようだった。部屋の中はまるで温室のように熱気が立ち込め、汗が紙に落ち、スケッチがにじんだ。汗で手が滑り、彼は鉛筆を取り落とした。いらいらとスケッチブックの新しいページをめくると、床にかがんで鉛筆を取り上げた。
目の前にロイエンタールの裸足の指があった。
なんと、この男は足の指の形まで完璧だ。爪は大きく、長く、足指も細く長いが力強い。しっかり細い筋が通った足の甲に引き締まった足首が続き、まっすぐで長い脛と張りのあるふくらはぎ。メックリンガーは彼の膝小僧にようやっと傷跡を見つけて、この足が生きた足である証を見た気がした。たるみのない大きな筋肉を持つ大腿にもかすかな傷跡を見つけた。
彼は床にかがみこみ、見たものをすべてスケッチに描きだしていた。どうにかしてあの滑らかな肌の質感を捕えたいと手がうずいた。シャツの袖をまくり上げ、髪を乱した姿で汗を流しながら、自分は気が狂ったのではないかと思った。
突然、彼は自分が本職のモデルでもない裸の男の前に膝をついて、スケッチブックを抱えていることに気付いた。
メックリンガーはゆっくり目をあげた。
少し高いところに白くがっしりとして骨の浮いた腰があり、真ん中に今は静かに横たわる男の欲望の証が誇示するように見えた。その上に平らで筋肉に囲まれた腹、ほどよい厚みのある胸、首の根元には深いくぼみがあり、汗が溜まっていた。そのさらに上には額に汗を浮かべたロイエンタールが顔は正面のまま、色違いの目を下向きに向けて、観察者をじっと見つめていた。
目があっても逸らすことなく、ただじっと見つめ続ける。お互いの目を合わせたまま、まるで時が止まったかのような瞬間が過ぎた。
「暑い。喉が渇いた」
メックリンガーははっとして立ちあがった。自分もひどく汗をかいていたが、それは部屋の暑さのせいだけではなかった。
彼はシャツを脱いで、それで顔の汗を拭いた。シャツの下には袖無しの肌着を着ていたが、それすらも邪魔に感じた。だが、それには構わず彼はテーブルに置いてあったワインのボトルの首をつかむと、そばにあったグラスに中身を注いだ。
それをロイエンタールに渡そうと、彼の方へグラスを差し出す。ロイエンタールは腕を解いて手を差し出した。まるでそれを受けるのは当然であるかのように―
メックリンガーはなぜかそれが気に入らなかった。彼は衝動的にグラスの中身をロイエンタールに投げつけた。
「あっ」
完全に虚をつかれて、ロイエンタールは片手をあげて顔を防御しようとした。ワインは彼の腕と胸にかかって、流れ落ちる。
もう一度、メックリンガーはワインのボトルをつかむと、今度はそのままロイエンタールの方へボトルの口を向けた。ワインが音を立ててボトルの口から流れ出し、それをロイエンタールが受け止めようと口を開けた。ゴクゴクと喉仏を動かして飲むが、口の中にすべて入りきらず、裸の胸に紫色の液体が滴った。
ロイエンタールがくすぐったそうに身をよじって笑いだし、ワインはごぼごぼと音を立てた。滴り落ちたワインは彼の白い身体に紫色の筋をつけて流れ落ちる。ボトルがすっかり空になると彼の足もとには水たまりが出来ていた。