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​燭光~Light his Candle~3

一旦ドアを閉じて中に入ると静かで温かな空気が感じられてほっとした。いくら戦に慣れた身とは言え、異国で訳も分からず、彼もいない場所で危ない目に合うのは金輪際ごめんだと思った。
彼はもう総督府から帰っているに違いないと思ったのに、部屋は真っ暗で人の気配がなかった。予定では総督閣下は退庁している時間だった。憲兵からの事情聴取に意外に手間取ってしまった。彼が少し待ってくれれば夕飯に何か作れるだろう、いや、むしろどこかレストランでも予約して美味しいワインと料理、人目があったほうが彼の怒りをかわしやすいかもしれない、などと思っていたベルゲングリューンは拍子抜けした。
だが、ふと彼が今回のことでベルゲングリューンにすっかり幻滅してしまい、もうこの部屋に戻らないつもりかもしれないと思いつき、鼓動が瞬時に早まった。
(彼に黙って彼を探るようなことをした…、彼を信頼していないかのような行動をとった…。あまつさえ事件に巻き込まれて彼に心配をかけた…)
彼に初めて会った時から数々の戦場での出来事、特に彼と分かり合ったあの日、あの夕べ、そしてハイネセンでの婚姻の手順のあれこれ…。そこにふいに今朝玄関先で出勤する彼を見送った時、振り返った彼のあの優しい微笑みが蘇った。それらすべてがまるで蜃気楼のようにベルゲングリューンの視界の中で漂い、波の中に消えようとしていた。
だが、ベルゲングリューンの緑色の瞳から感情の嵐が零れ落ちようとしたまさにその時、リビングに続くテラスに外からの明かりを受けて人影がうつったのを見つけ、心臓が飛び跳ねた。
月明かりに浮かび上がるシルエットはまごうかたなき彼の後ろ姿だった。星空の下で夜風に吹かれているらしい。窓を開けテラスに出ると、白い椅子に腰かけた彼の後ろにそっと近づいた。手にビールの小瓶を持ってそれを飲みながら星空を見ているようだった。
「…宇宙に戻りたいですか?」
静かな佇まいを乱さぬように声を掛けた。彼は誰だ、と振り向きもしなかったが驚く様子もなく、微かな笑みを含む声で答えた。
「それは戦場に戻りたいか否かと同義だな。戦の熱狂と興奮の嵐を求めて敵のいない宇宙をさまようか」
質問の答えにはなっていないが、ベルゲングリューンも同じことを聞かれても答えることができなかっただろう。まだ、彼らにとっての戦場は遠い過去のものではなかった。
「宇宙を…戦場を恋い慕っているのはむしろお前の方ではないのか。なにしろ今日は一人で護衛もつれずに出かけて大冒険だったそうだからな」
「申し訳ございません」
いろいろ言い訳や言い逃れを考えていたはずが、彼を目の前にすると率直な謝罪の言葉が何の苦もなく出てきた。
「あなたのことが心配だったのです。いや、心配だからと言って黙って行くべきではなかったとは思いますが…。出かける時はちょっと話を聞ければ、くらいにしか思っていなかったのです」
隠し事など苦手だし、第一彼の方がうわ手だから割に合わない。何もかもすっきりさせたくなり、ベルゲングリューンは空いている椅子を引きよせて彼の隣に座った。
「市場の側のあの場所はあなたにとって何なのか、教えてもらえますか」
ビールを飲む手を止めて、ロイエンタールは小さく首を振った。
「おれにとっては何も意味などない…、いや、この言い方が悪かったな」
否定しようと口を開きかけたベルゲングリューンにビール瓶を振った。
「かつてオーディンにも似たような場所があった」
さすがに目を見張ってベルゲングリューンは答えた。
「似たような? 何か宗教に関連したものということですか…? まさかあのオーディンでそんなことが?」
「あったのさ」
片方の頬を皮肉気に持ち上げて彼はくすくすと笑った。
「親が何も知らない子供のおれを連れて行ったんだ。あまりに昔のこと過ぎて今となってはそれが実際のことだったのか、場所すらどこだったのか分からんが…」
帰りの車内でベルゲングリューンはあの教会の老人から預かった小冊子を少し読んだ。それによればこの教えの起源は地球にあり、近年におけるこの宗教の再興は地球の歴史を学ぶオーディンの貴族階級から始まったのだ、とあったのを思い出した。
そのことを言うとロイエンタールはその通り、と言いたげに頷いた。
「暇を持て余した貴族の道楽と言うやつだろう。真夜中に秘密めかして集まり、ろうそくをともして歌を歌い、呪文のような言葉を唱えていた…」
「この間も、歌っていましたな…。でも、怪しい雰囲気はなかったし、あの老人もしごく真っ当な人物のように思われます」
「司祭の老人に会ったのだな。あの老人は単に過去の聖人とやらに魅せられた真面目な宗教学の学徒に過ぎない。かつてはおれの親が参加していたオーディンの教会の中心にいたのかもしれんが、詳しくは聞かなかった。帝国の役人が同盟へ亡命した者に過去の事情を聞くなど野暮だからな。ただおれは…、おれが見たものが何だったのか知りたくてあの老人を訪ねた…。老人はおれの疑問に答えてくれた。それだけだ」
遠くの山々のすでに定かではない稜線を見ているようでいて、彼の瞳は何か別のものを映し出しているようにぼんやりとしていた。子供の彼はいったい何を見たのだろう。彼が子供時代のこと、特に両親について話すことはめったにないことだと知っていた。誰でも一つや二つ、話したくない子供時代の思いではあるものだが、彼の場合、それとも少し違うことにベルゲングリューンは気づいていた。だから、彼が自分から話してくれるのでなければ根掘り葉掘り聞くような真似はするまいと思っていた。
(とにかく、子供時代の思い出が理由であそこに行ったのだ。結婚生活の悩みとか、人生相談とか、そんなもんじゃない…)
思えば現在のことに関して有能かつ経験豊富なロイエンタールが自分で解決できない、ままならないことなどないのだ。だが、子供のころや過去の話となると彼一人ではどうにもならない。
(そういうことこそ、話していただけたら楽になるだろうになあ…)
だが、彼は伴侶の悩みなど気づかない風にビールの小瓶を夜空に掲げた。
「残念だったな、ハンス。怪しからん夫の不貞の証拠を掴めなくて」
軽い口調に突然血が沸騰して彼の手から強引に小瓶を取り上げた。
「冗談でもそういうことを言わんでください…! あなたがそういうことをする方じゃないのは分かってるし、ご自分でもそんなことあり得ないと分かってらっしゃるのに自分を貶めるようなことを言う…! ああ、いや…」
いきなり沸点に達したベルゲングリューンの血圧は再び急速に落ちて行った。小瓶を近くの小さなテーブルに置くと、彼のひんやりとした手を取って頬に当てた。
ベルゲングリューンのごつごつした頬は夜風に当たっているのにもかかわらず熱く、一方で細く滑らかな手は冷たく頬を冷やした。彼はどのくらいの間、一人でこんな暗い場所で物思いにふけっていたのだろうかと、不安になった。
「あなたにそんなことを考えさせたのはおれのせいなんだ。あなたは最高の人だ…信じてください…」
「…最高とは買い被りだな…。だが…。そうだな、おれもお前がそんなつもりで行動したのではないのは分かっている」
彼の手のひらの中に頷いてベルゲングリューンはひんやりする身体を引き寄せた。彼がベルゲングリューンの側頭部の髪の毛に頬を擦り付ける。
「うう、まあ、おれも口の利き方には気をつけよう」
謝罪は口に合わないらしく言いにくそうに彼が言ったので、ほっとしてベルゲングリューンは頬が緩んだ。
「いえ、私もなんだかあなたに聞きづらくて、自分で自分を疑心暗鬼の袋小路に追い込んでしまった気がします。もうそんなことはしません」
頷く首筋の柔らかいところに唇で触れると彼の身体がまるで暖を取ろうとするかのようにすり寄って来たので、ベルゲングリューンの身体はいっそう熱を持って熱くなった。
彼の冷えた頬を温めるように手のひらで覆ってこちらを向かせ、鼻の頭にちょっと接吻してからその下の唇に触れた。彼がため息をついた。
だが、彼の腕がベルゲングリューンの腰にしっかり絡みついたところで、ベルゲングリューンは老人から彼に渡してほしいと預かった小冊子をリビングのテーブルに置いたままであったことを思い出した。
(別に後でもかまわんだろう…)
そう思ったが一度その存在に気づいてしまうと、そのままにしておけなくなってしまった。彼の身体がさっきより柔らかく、温まっている。小冊子のことを忘れようと強引に彼を膝の上に引き上げて細いが強靭な身体をきつく抱きしめたので、彼が喉の奥でちいさく声をあげた。
「すみません」
彼は首を振ったがまるで報復するように乗り上げたベルゲングリューンの腰を脚で強く挟み込んだ。このままでは彼が椅子から落ちてしまうと、慌てて手を添えた。
彼もずり落ちそうになりながらベルゲングリューンのシャツの下に手を伸ばしてきたので、息を飲んだ。
「…か…オスカー、駄目です」
「駄目などと言う言葉は聞かん」
「部屋の中に入りましょう…その、渡したいものがあるし…。さっき話した老人の…」
「まだここにいたい」
「いや、ほら夕食もまだでしょう。これから作りますよ」
仕方ないのでロイエンタールを腰に巻き付けたまま、立ち上がろうとした。
「いいと言っているだろう、ここにいろ。腹は減っていない」
自らの重みでベルゲングリューンを押さえ込もうとするかのように肩にしがみついた。
「ビールだけ飲んで終わりじゃおれがあなたの副官に叱られる。ほら、立って…」
「レッケンドルフは置いておけ。ここに、いるんだ、ハンス」
その言い方の何かが心に引っ掛かって、ベルゲングリューンは改めて彼の顔を見下ろした。彼は上目遣いにこちらを見ていたが、視線が合った途端にさっと目を逸らした。
「なんです…? ここにいなきゃいけない理由があるんですか?」
なんとなく予感がしてベルゲングリューンは問いただした。
「なんでもない」
答えも早すぎて彼らしくない。ベルゲングリューンは火傷の痛みを無視して両腕に力を込め、彼を抱え上げた。
「よせ…! 降ろせ、ハンス!!」
彼は手足をバタつかせたが、細い身体をがっちりと抱えたままテラスから部屋の中に戻った。
「部屋に戻っちゃいけない何があるんです? オスカー? 怒らないから教えて」
「いいから降ろせ! 降ろさないとお前を一介の兵士に降格するぞ」
ベルゲングリューンはその言い方に笑って彼を降ろした。彼はため息をつくと、乱れた前髪をかき上げた。
「今キッチンは汚れている。清掃係に明日の朝片付けさせる。それまで入ってはいかん」
「…おれが片付けますよ。キッチンを使わないと料理が出来ないし…」
キッチンのドアを開けかけて、そこで気付いてロイエンタールの方に振り向いた。
「オスカー、何か作ってたんですか? もしかして夕食を?」
「扉を開けると臭いぞ…。と言うかお前は部屋に入った時、気づかなかったのか? おれは臭いが嫌でテラスに逃げ出したんだ」
「いや、臭いは何も…」
ドアを開けてその臭いの正体に気づいた。オーブンからもうもうと煙が出ているのに換気扇も回さず、窓も開けていないのだ。よく警報が鳴らなかったものだ、と思ったら、報知器が撃ち抜かれていた。明らかにブラスターの射撃跡だ。
「閣下…!! じゃない、オスカー! いったい何を…!!」
ベルゲングリューンは急いで換気扇を最大に回し、キッチンの小窓を大きく開いた。
「あちちち」、と言いながら熱くなったオーブンの取っ手を素手で開けると炭になった肉の塊がその中にあった。
「そういやちょっと焦げ臭いと思ったが、火事にあったからおれ自身が臭っているかと思って…。オスカー、こんなになってるのにほっといちゃ駄目でしょう」
ロイエンタールは肩をすくめた。秘密が知られてしまったのでもうどうでもよくなったらしい。
よく見ると炭になったのは肉の周りに置かれた野菜らしき形のもので、肉そのものは外側は真っ黒だが中は生焼けのようだった。
「これならまだ何とかなりますよ」
「…もういい。無理するな、ハンス」
「無理なんかじゃありません。火力を調節すれば大丈夫」
炭を鉄板から取り除き、オーブンの設定を確かめているベルゲングリューンの脇に立って、居心地悪そうにこちらを見ている。ベルゲングリューンはオーブンに顔を突っ込んで、頬が緩むのを彼に見つからないようにした。
「笑ってるな…」
「笑ってませんよ、嬉しいんです。あなたが私のために料理してくれるなんて」
「お前のためという訳ではない。それに失敗した」
「大丈夫です。野菜はほうれん草…は別の場所で炭になっちまったが、まだトマトがあるし、サラダでも作りましょう、ね、一緒に」
ロイエンタールの頬のあたりがぴくぴくと動いた。大きなため息をつくとベルゲングリューンに背を向けて冷蔵庫の扉を開けた。彼が微笑んでいるだろうことはその顔を覗きこまなくても分かった。
ベルゲングリューンももう微笑みを隠す必要はなかった。

*+:。.。 。.。:+* *+:。.。 。.。:+* *+:。.。 。.。:+*

 

ふと気づくと、オスカーは柔らかなシーツのあいだで眠っていた。窓のカーテンの隙間からまだ弱い薄日がベッドの上に差していた。もうじきに夜が明けるだろうということが分かった。
なんの変哲もない、いつもの朝と同じだったので昨夜のあれは夢だったのだろうか、とオスカーは思った。
だが、窓から離れてベッドに戻ろうとした時、暖炉のマントルピースの上に置かれた小さな蝋燭に気づいた。蝋が流れ落ちている様子からついさっきまで火がついていたらしい。蝋燭の側には綺麗なポストカードが立て掛けられていた。昨夜、寝る前にはなかったものだ。
それに、ベッド脇の小さな椅子の上にはブラウスと半ズボン、背もたれにコートが掛かっていて、深夜の冒険が夢ではなかったことを示していた。
オスカーは椅子の上から衣類を取り上げてベッドの上に置き、暖炉の前まで椅子を引っ張って行った。椅子の上に乗ると、蝋燭の奥にある鏡に立てかけられたポストカードを手に取った。
それは赤ん坊を抱いた女の人の絵姿だった。青いマントを肩にかけたその女の人は白い顔に濃いブラウンの髪をして、優しい表情で丸い頬をした腕の中の赤ん坊を見下ろしていた。
(なんだか悲しそう。それにお母さまに似てる)
たぶん、この絵をお父さまが見つけたら捨ててしまわれるだろう。オスカーはポストカードを手に椅子から降りると、自分の勉強机の引き出しの中にしまった。

ENDE
 

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