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非番のその日、ベルゲングリューンは肌に馴染んだ革のジャケットを羽織ると川沿いの広場へ出かけた。日曜ほどではないが今日も小さな市がたっており賑やかだった。もし、ロイエンタールから今日どこへ出かけたか、と聞かれた場合に備えていくつかの野菜を購入した。
(ほうれん草はいくらでも使いでのある野菜だし…)
青々とした葉が覗く紙袋を小脇に抱えて先日の記憶を頼りに道を進む。あの時は二人を誘うように歌声が聞こえたが、今日は静かだった。見覚えのある路地に辿り着き、奥まで進む。明るい青色のペンキを塗った扉が、今日はやけに意味ありげに見えた。
扉はやはり大きく開かれており、オーディンとハイネセンでは習慣も違うとはいえ、あまりにおおらかすぎる、と思いながらベルゲングリューンは扉を入って行った。
先日は気づかなかったが、部屋の奥には祭壇のようなものがあり、そこに十字架と磔になった一人の人間の姿の彫刻があった。それがどんなものかは分からないながらも、これがこの宗教にとって重要な意味を示すものだということはベルゲングリューンにも理解できた。祭壇の前のベンチの上に、ロイエンタールが持っていたのと同じチラシの束が置かれていた。
やはり、彼はここに来たのだ。だが、何故? 総督閣下が一人でハイネセンの宗教活動を偵察に来たのかも、などと言う理屈はベルゲングリューンはひとかけらも信じてはいなかった。何か彼の興味をひくものがあったに違いないのだ。
さらによく見ようと歩みを進めると、祭壇の奥から人影が現れた。
「何かご用でしょうか」
黄色い頭髪をした若い男で、ハイネセンのこの辺りの街角でよく見るTシャツとジーンズ姿だった。
「この建物は何用に使われるものか、教えてもらえるとありがたく存ずる」
ベルゲングリューン自身の耳にも話慣れない同盟語の問いかけは堅苦しく、仰々しく聞こえた。
「古代の歴史の勉強会の集まりのためにこの場所を使用しています」
若者は微笑みつつも鋭い視線をベルゲングリューンに浴びせながら答えた。
「勉強会? 古代の歴史の? そこにはいかなる素性の人間が集まるのか? 例えば年齢や性別、階級などは何であるか」
「階級? 私たちはみな神のもと平等な人間です」
帝国民に対した時、ハイネセンの人民は時に原始時代の人間を見るような憐れみの表情を浮かべることがある。それが今この若者の表情からもうかがえてベルゲングリューンは苛ついた。
「ああ、そうであろう。だが、卿らの神がどう思おうが、俺には関係のないことである」
「神は等しく異教徒であるあなたの上にも…」
ベルゲングリューンは若者が言葉を続けようとするのを大きな手を払って遮った。
「卿らの神の目がそれほど良く届くのであれば、ある人物がこの場所やその勉強会に来たかどうか知っておろう。その人について話してもらいたく存ずる」
うまいやり方ではないのは分かっていたが、早く真実を知りたいという焦燥感がベルゲングリューンの語気を強いものにしていた。
「…どんな方でしょうか」
写真でも持ってくるべきだったかと思ったが、非常にプライベートなものか帝国軍の式典の際に撮ったものか、両極端なものより他になく、誰に見せてもいいような無難な顔写真の手持ちがなかった。
「背の高い…30代前半の男性だ。ダークブラウンの短めの髪で、細面で眉は弧を描き、額が秀でて鼻筋が通っている。瞳の色は左右で違う。唇は薄く肌は色白だ。」
ベルゲングリューンの心ははっきりと求める人物の姿を映し出した。その詳細な描写に若者は驚いたように瞬きした。
「あなたは警察の人ですか? その人は何か事件でも起こして、それが我々にも関係あるということでしょうか?」
「いや、事件などではない。単にその人物がここへ参られたか知りたいだけである」
「あなたはその人と何か関係があるのでしょうか」
「いや…、そうだ…。つまり、その人物は家族である」
ロイエンタールのことを何と言っていいか分からず、ベルゲングリューンは一瞬言葉に詰まった。それが良くなかったのかもしれない。若者は眉をひそめて答えた。
「たとえご家族であっても、集会に来た方のことをみだりに話すことは不適切かと思います。特にあなたが本当に家族かどうかも分かりませんので」
こんなことなら結婚式の写真でも持ってくればよかった。
「別に卿らに迷惑をかけるつもりはない。ただ知りたいというだけである」
ベルゲングリューンの苛立ちは頂点に達しようとしていた。民間人相手に怒鳴りつけるような真似をする気はないが、この若者の態度はどうも癪に障った。
「ジョン、どうしたのかね。お客様に失礼なことを申し上げてはいけないよ」
「司祭様、失礼なことなど」
失礼なのは来客の方だ、と言外に匂わせて若者が答えた。祭壇の奥の扉からやって来た、司祭と呼ばれた老人はベルゲングリューンの方ににこりと微笑みかけて、おや、というように首を傾げた。
「あなたは確か、先週のミサの時にこちらへいらっしゃいませんでしたかな。先ほどこちらのジョンにおっしゃっていたのはもしや、あのお連れの方のことでは」
あの時老人は儀式の進行に忙しいように見えたが、どうやら周囲の様子によく気を配っているようだ。穏やかな老人の様子にベルゲングリューンも態度を改める必要を感じた。
「その通りである。少し気になることがあり、その連れの人物がここへ来たか知っているのであれば教えてもらいたく存ずる」
「いらっしゃいましたよ」
「いらっしゃった…!?」
あっさり答えた老人にベルゲングリューンはさすがに驚いて声をあげた。
来客の驚きに不安になったのか、若者が眉をひそめて老人の黒服の袖を引いた。
「司祭様…、よろしいのですか」
『司祭』と呼ばれた老人は若者には頷いて見せるとベルゲングリューンの方へ向き直った。
「確かにいらっしゃったし、少しお話もしました」
「いったいどんな話をされたのか?」
ベルゲングリューンは老人に詰め寄った。
「もし、自分がここへ来たことを誰かが問うても交わされた会話の内容は他にはもらさぬように、とその方はおっしゃった。そのようにおっしゃられるまでもなく、私には守秘義務がございますので、ご本人以外にそのお話の内容を明かすつもりはありません。あなたからご本人に直接お聞きになるとよろしいでしょう」
嫌味などかけらもない口調で淡々と言われてベルゲングリューンはあっけにとられた。
「『妻は、夫と別れてはいけません』。ご家族であればなおさらよく話し合われることこそ、家庭円満の秘訣ですよ」
痛いところを突かれてベルゲングリューンは歯噛みした。秘密で彼の行動を探るようなことをして、それを知ったら彼はどう思うか…。
(それはもう、お怒りになる…だろうなあ)
そのことに気づかないではなかったが、彼に直接聞くことで開けるべきではない扉を開けてしまうことになるのではないか、という恐れが優り、このような行動に出てしまったのだった。
「あの人の…? 夫婦…!?」
若者が口をぽかんと開けて言ったので、ベルゲングリューンは老人の言葉の意味に気づいた。ロイエンタールが二人の間柄について詳しく話したのだろうか。つまり、ベルゲングリューンとの仲に何か思うところがあり老人に相談したのだろうか?
(異国のなんの縁もない神などに縋るほど、俺のことで何か不安や心配事があるのだろうか…!?)
老人の他意のない好奇心と、異様なものを見るような若者の視線にさらされながら、ベルゲングリューンは彼に直接聞く勇気を持てるだろうかと考えていた。

ふと、気配を感じてベルゲングリューンは振り返った。どこからともなく黒とこげ茶色の混じったような毛の長い、中くらいの大きさの犬が彼らに向かって走り込んで来た。

「おや、ジョーイがお客さんを見に来た」

老人の足元に飛び掛かって黒衣の裾にまつわりついた様子が滑稽だったので、三人とも揃って微笑んだ。
「ジョーイ、よさないか。いつもと違ってずいぶん元気だな」
ジョーイが老人によじ登ろうとしているので、若者が引き剥がそうと手を伸ばした。
ほとんど半狂乱に見える犬の様子を見るともなしに見ていたベルゲングリューンだったが、異常を察知するのは動物並みではなくとも、民間人よりは敏感だった。
明るい光が差す大きな窓のガラスが突然割れ、火を噴く瓶が室内に飛び込んで来た。ベルゲングリューンが飛び掛かって老人を火炎瓶の進路から突き飛ばした。床を転がり祭壇にぶつかろうとした火炎瓶を、ベルゲングリューンはジャケットで勢いよくはたいた。一瞬広がりかけた火は皮ジャケットに阻まれて収まった。
「いったい何事だ!?」
「奴らだ! 反対派ですよ! 司祭様! せっかく寄進された祭壇を壊されたら大変だ」
「ジョン! 構わずにお逃げ!」
若者が祭壇に駆け寄ると割れた窓からいくつも石が投げ入れられ、そのうちの一つが若者の背に当たり、若者は倒れた。ジョーイがワンワンと盛んに吠える声がガラスが割れる音に交じって建物内に響いた。
「ジョン!」
駆け寄ろうとする老人を狙うように再び石がいくつも降って来たので、ベルゲングリューンは再びジャケットを振るって老人に当たるのを防いだ。
「くそ! なんてこった、反対派だと!?」
思わず帝国語で悪態をつくと老人の手を引っ張って扉に向かったが、扉は閉まりびくとも動かなかった。
「さっきまで開いていたのに、開かない! 鍵は?」
老人はさすがに狼狽えて揉み手をしている。
「鍵などついておりません。外から閉じ込められたのでは…」
ベルゲングリューンは老人をさっと振り返った。こんなところで迂闊にも訳の分からぬ輩に閉じ込められるとは。
(しかもいぶり出されそうだ。異国で平時に火事に巻き込まれるなんざ、ごめんだ)
そうこうするうちにも室内には犬の鳴き声とどこからともなく、きな臭い匂いと煙が漂って来た。
(ここに今、閣下がいらっしゃらなくてよかった)
このまま炎に囚われてしまったら、確実に自分がここにいることを彼が知ってしまうだろう。自分の身が危険にさらされているというのに、彼を探っていたことを知られてしまうことの方が心配になるなど愚かなことこの上ないと思った。

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すぐ近くて女の甲高い悲鳴が上がり、ガラスが割れる音がした
「憲兵だ! 隠れろ!!」
突如としてすべての明かりが失われ、オスカーの目の前は真っ暗になった。誰かが怒号をあげながらオスカーに体当たりしてきたせいで、手から燭台が飛んで行った。
辺りは叫びと悲鳴と荒々しい足音に満ちた。何かが崩れる音がして金属が打ち破られ、ガラスが踏みにじられる音が響いた。オスカーは真っ暗闇の中で逃げ惑う人に押され、蹴とばされ、流されて気づいた時には壁際に押し付けられていた。
誰かが人波から盾になってオスカーを壁際に押さえ込んでいた。顔も見えず、声も聞こえないのに、なぜかそれが父親だと分かった。
(どうして? さっきまでどこにもいなかったのに。それにお母さまは?)
冷たい夜気を頬に感じてオスカーは目を上げた。そこにいるのは確かに父で、肩越しに周囲を鋭い視線で確認すると、壁際のオスカーから離れた。
いつの間にか先ほどまでいたたくさんの人々の姿は見えず、代わりに憲兵の制服姿の男たちでいっぱいになっていた。壊れた祭壇がちらりと見えたと思ったが、よく確認する前に父に腕を引っ張られてオスカーは外に出た。
二人とも憲兵に連れ去られるのではないか、と思ったが父は平気で憲兵と話している。そこに髪を乱した母がそれでも丁重な態度の憲兵に腕を取られてやって来た。
父は母の頬を平手で勢いよく叩いた。その勢いで母は側にいた乳母の腕の中に倒れ込んだ。
「愚か者めが」
父は乱暴にオスカーの手首を掴んだ。母が震える両手で顔を覆っているのを後ろを振り返って見つめるオスカーには構わず、表通りに止めた地上車へ引っ張って行った。
「こんな益体もない神などに縋って、しかも子供を連れまわすなど…」
父の言葉の意味は分からなかったが、母の行為に怒っていることは分かった。父と息子を乗せた車は乳母に支えられながらふらふらと歩く母を待たずに発車した。通りで交通整理をしている憲兵が父に向かって敬礼しているのが煌々と照らされたライトのお陰で車の窓からも見えた。
オスカーはちらりと父の横顔を見た。母と同様、息子の方を見向きもしなかった。ただ、オスカーの手首をじっと握ったまま、前を向いて座っていた。手首はしびれるほどきつく握られていて、オスカーは父が自分に触れたのは本当に久しぶりだと思った。

 

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夕日に照らされた焼け跡の前の通りに地上車が止まり、一部の隙も無い軍服姿の青年が地上車から降りたった。憲兵の案内に従って消火剤の匂いが漂い、まだ熱のこもる焼け焦げた木材の間を青年は眉をひそめながら慎重に歩いていく。
仮の救護所となったテントの下には黒衣の老人とジーンズの若者、まだら模様の犬を足元にまつわりつかせ、火傷をした腕に包帯を巻かれている最中のベルゲングリューンがいた。
ベルゲングリューンはやって来た人物の軍服を見てはっとしたが、すぐに安心したようにため息をついた。
「なんだ、卿か」
レッケンドルフ少佐は眉をひそめた。
「閣下がおいでになると思われておいででしたら私でお気の毒ですが、以前からのご予定通り、閣下は只今フェザーンと会議中です。そのことはよくご存知かと思いますが。そのため急ぎ私を代理に寄越されました」
「う、うむ…」
ロイエンタールの副官、レッケンドルフ少佐がやって来たということはベルゲングリューンがここにいて何が起こったか、彼は知ってしまっているということだ。
それを裏付けるようにレッケンドルフは言葉を継いだ。
「閣下は皇帝陛下とミッターマイヤー元帥閣下との大事なお話しを中断され、事の真相を確かめるべく小官をこちらへ寄越されました。ベルゲングリューン閣下ほどの方がこのような場所で暴漢に襲われ、あまつさえ火事に遭われるとはいったい何事ですか」
まるで火事に遭ったのはベルゲングリューンの落ち度であるかのような口調だった。
「なぜこんな目にあったかはおれも知らん。それはこちらの人たちに聞いてみたらいいさ。いずれにせよ、憲兵がおれの意見を聞くのならばだが、この人たちに非がないことは明らかだ」
新来の軍人の姿を見て怯えたような表情だった老人は思いがけないことに帝国語を理解するらしく、ベルゲングリューンの言葉に感謝するように頷いた。背中の怪我を庇いながら憲兵に反抗的な態度を見せていたジーンズの青年も明らかにほっとしたようだ。
老人がおずおずと口を開いた。
「この方のお陰で私たちは生きながらえることができましたし、教会も守られました。どうかこの方をお諫めになりませんよう…」流暢な帝国語だった。レッケンドルフはちょっと面白そうな表情をして老人の方をちらりと見た。
「もちろんですとも」
軽く頷きつつそう言って請け合うと、憲兵に指を振って合図した。老人と若者の背後にいた憲兵は掲げ持っていたライフルを降ろし警戒を解いた。二人がハイネセン総督の夫かつ、軍事査閲監、総督府の重鎮たるベルゲングリューンを拘束して怪我を負わせたというような情報が総督府に伝わっていたのだろうか。
「では、帰りますよ」
少し柔らかさの見える声音でレッケンドルフは促した。まるで子供を迎えに来た母親だ、と思いながらしぶしぶベルゲングリューンは立ち上がった。茶色い斑犬が興味深そうにレッケンドルフの脚の周りを嗅いでいたが、近づいてきた老人に気づいてその脇にとことこと駆け寄った。
斑犬のつぶらな瞳に見守られながら、老人がベルゲングリューンに手を差し出した。
「あなたが教会中を飛び回って火を消し、かの者たちの襲撃を防いでくれたおかげで私たちのこのささやかな祈りの場所を守ることができました。お怪我までされて申し訳ない」
「いやあ…」
じろじろ見ているレッケンドルフの視線の前で頬が赤くなるのに耐えながらベルゲングリューンは老人と握手をした。老人は手を離すと、黒焦げになりながらも燃え残ったキャビネットに近づいた。その棚から布に包まれた何かを取り出した。その包みを開いて現れた小さな冊子をベルゲングリューンに渡した。
「こちらをあの方にお渡しいただけますか。今度の日曜日にお出でになる時にお渡しする予定でしたが、あなたにお渡しした方が早いと思われますので…」
ベルゲングリューンは何かおどろおどろしいものでも飛び出してくるかのように手の中の冊子の裏表紙をひっくり返して見た。何度か繰り返してから再び老人を見た。
「…おれに渡してもいいのですか。その…何か秘密のものでは…」
老人は首を振って微笑んだ。
「我々の教えの歴史を簡単に解説したもので、秘密文書などではありません。かつて私が記したものですが大した反響もなく…。あの方に興味を持っていただけて幸いなことです」
「あの方…。本当にいいんですか、その方にちゃんと届くか分かりませんよ。あの人に読ませたくなくておれが勝手に捨ててしまうかも」
老人はベルゲングリューンが教会にやって来てから初めて、大きな口を開けて笑った。
「あなたはそんなことをする方ではない。私には分かります」
ベルゲングリューンはますます赤くなる頬のほてりを感じながら首を振った。今日初めて会ったばかりの人間に自分の本性を見透かされるなどあまり愉快な経験ではないが、老人の言う通りだった。
冊子を手に持ったまま振り返るとレッケンドルフが澄ました表情で彼を待っていた。
「『あの方』がお待ちですよ」
いつも通り、彼の副官の取り澄ました顔を引っぱたきたくなる衝動を抑えながら、ベルゲングリューンは迎えの地上車に乗り込んだ。

​燭光~Light his Candle~2

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