
Season of Mackerel Sky
アイスストーリーズ 4
ハンス
どうやら日ごろの疲れがたまっているらしく夕食後はすぐに眠気に襲われるという日が続き、じきに体調の悪化が食欲に表れた。なにかさっぱりしたものが欲しい、というオスカーにハンスは温かなチキンスープ、温野菜のサラダを用意した。澄んだスープを一口ずつゆっくり飲むとその滋味に富んだ風味と温かさが胃に広がった。適当にワインとチーズで済ましていた日々に比べると栄養と手間に格段の差がある。そのおかげか知らないが、不思議と腹から力が湧いてくるようだった。
「温かくて美味い。食欲も戻ってきたような気がする」
「少し顔色も良くなったようですね。夏風邪かな…」
「いや、単に疲れていたんだろう。明日には血が滴るステーキを食えるくらい元気になるさ」
珍しく軽口をたたいて安心させるように言ったが、ハンスは心配そうな表情を崩さなかった。
「しばらくは無理をなさらんでください。ステーキなんてまだ駄目ですよ。明日ももっと消化のいいものを用意するようにしましょう」
「ポリッジだのオートミールだのは甘いし見た目がぐちゃぐちゃしていて好きじゃない。しっかり歯ごたえがあるものの方がいい」
「そんなこと言って、少し良くなったからと言って油断は禁物です」
実際に食卓にローストビーフ等が出たところで食べられるかというと少々自信がない。だが、慌てるハンス相手にあれこれ言い募るのは妙に心躍る楽しい遊びだ。
「少し薄味だったから、物足りなくてそんな風に思われるんですかね…」
本当は口の中が痛むようで味覚が少し変になっていると思った。だが何か言う前に「そうそう、ちょっと待ってて…」とハンスが何かを思い出したかのように立ち上がり、キッチンに行ってしまった。オスカーはその後ろ姿を見送ってため息をついた。
キッチンで何やらガチャガチャと音を立てていたと思うと、ハンスは手に二つの小さめの皿を持って戻って来た。
少し深さのある皿には不思議な黄色味を帯びたアイスクリームがこんもりと鎮座している。惜しげもなく皿にたっぷりと盛られたそれには白いウェハースまで添えられていた。
「…これは…?」
「ちょっとしたデザートですよ。食べてみて」
ハンスはさり気ない風を装って向かい側に座ったが、そわそわとして皿を置き、見ないふりをしながらこちらを見ている。その様子になんとなくこれは普通のアイスクリームとは違うのだろう、と気づいてオスカーは躊躇いがちにスプーンを取り上げた。
一口食べてすぐにひんやりと冷たい甘さの中に濃厚なミルクとバニラの香りが香った。
「とても滑らかだな。美味しい」
「良かった」
ハンスは真っ赤になって相好を崩した。握りしめたままだったスプーンでようやく自分のアイスクリームを一口食べ、途端に目を大きく見開いた。
「おおっ、こりゃうまい…。我ながら…」
「我ながら? もしかして手作りなのか?」
「あっ、ええと、そうなんですよ、黙ってようと思ったけど…」
「店で食べるものより格段にうまい。アイスクリームは家でも作れるものなのだな。知らなかった」
「ささっと混ぜるだけです。簡単なんですよ」
照れたようにハンスは言ったが、外でも手軽に食べられるアイスクリームをわざわざ手作りしようなどと思うだろうか。
「お前はいろいろ手作りするのが好きなのだな。以前からよく料理していたのか」
「いやあ、そうでもないです。でも、うちの母はまあ料理が上手い方で、それでいつの間にか自分も見よう見まねで母の真似をして作るようになって…」
ベルゲングリューン家の家庭事情についてハンスは特にこだわりもなく話す。そのこと自体がハンスの子供時代が平和なものだったことを思わせた。
スプーンがかちん、と音を立てて皿の底をついた。ぼんやりと考え事をしていたせいか、気づいたらアイスクリームを十分味わわないうちに食べきってしまった。
白いウェハースを手に取りじっと見つめるオスカーにハンスは「それは手作りじゃないんですよ」と言って笑った。
「ん…。ウェハースはあまり好きじゃない。口に貼りつくし…」
「ああ、貼りつく…」
ハンスの表情が少し曇ったように見える。
「だがアイスは美味しかった。もうちょっと食べたかった」
取り繕うつもりが、子供じみた台詞が思わず口をついて出た。物欲しそうに不満げにそんなことを言うなど、せっかく作ってくれたハンスがどう思うか。だが、言われた方はもともと赤らんでいた頬をもっと真っ赤にして目を輝かせた。
「本当に? そんなに美味しかった? 良かった…。でも、今日はちょっとしか作らなかったからもう残っていないんですよ」
我ながら驚いたことに、心の底から残念な思いが沸き上がった。それほどアイスクリームが好きという訳ではないのに。だがこの手作りのアイスはとても美味しかった。
「そうだ、明日は朝市が立つ。新鮮な卵を買って二人でたくさん作りましょうか」
「卵? 卵で何を作るんだ?」
「アイスクリームですよ、アイスクリームには卵黄が入っているんです。そうだ、作りたかったレシピがあるから、あれを作ってみよう」
「卵黄?」
「卵の黄身のことです。あなたのアルコールのストックにはコアントローなんてないですよね、もちろん…。バニラビーンズも今日使い切ったから買わないと…」
「コアントロー? リキュールのコアントロー? アイスクリームに?」
「そうですよ、お菓子にはよく使われるんです」
ハンスはそう言って本棚からいそいそとレシピを取り出し、「これこれ」と見せようとするので、オスカーは閉口した。
「いったい何が書いてあるかさっぱり分からん。おまえに任せる」
「一緒に作るんですよ」
「分かった、分かった」
皿を片付けつつ、徐々にキッチンへ逃げ出そうとしたオスカーにハンスはさらに追い打ちをかけた。
「朝市にも一緒に行きましょう。お好きなナッツ類を選んでほしいから…」
「ナッツ?」
「そう、ナッツもいれるんです、このレシピは家庭で作れるアイスケーキで…」
どうやらハンスが作ろうとしているアイスクリームは奥が深いようだった。
朝市ではピスタチオとアーモンドをナッツの店で選び、乳製品の店ではこってりとしたクリームとリコッタチーズを購入した。ミルクチョコレートをケーキとクッキーが並ぶ店で買うと、眠気を押さえつつハンスの後について回ったオスカーはホットコーヒーとブリオッシュのスタンドでほっと一息ついた。ハンスは「1パック1.5ディナール、ひと家族30パックまで」のお得な今朝生みたて、農場直送、新鮮卵の行列に他の客たちに交じって並んでいる。
ひと家族と限定しているということは母親と父親、子供たちがそれぞれ30パック卵を買い求めるという実例があったのだろうか。いくら安くてもそんなには食べられまい。いや、もしや安く買ったそれを転売する輩がいるのかもしれない。そう言った行為を生み出す社会に潜む問題とは…。
彼を見ているオスカーに気づいて、ハンスがにっこりして手を振った。籠にいっぱいに詰めた卵のパックを両手にぶら下げているご婦人が二人の視界の間を通り過ぎ、ハンスは大げさに目を丸くして『あんなに卵をどうするんだろう? ねえ?』と言いたげな表情を作って見せた。
オスカーはくすっと笑って小さく手を振り返した。その時ふと、自分の両親は共に朝市で買い物をするなどということはしたことがあるまい、と思った。
しかし伯爵家の令嬢だった母はともかく、父は子供の頃は平民と同じような暮らしをしていたのだから、両親と一緒に買い物もしたかもしれない。ロイエンタール家のかつての暮らしぶりを父は息子に語ろうとしなかった。特に貧乏だったという話は聞かないが、特別裕福だったわけでもあるまい。父のそのまた母は(自分にとっての祖父母がまだ生きていたら、何か違っていたかもしれないと子供の頃は思ったものだ)手作りの料理やお菓子、アイスクリームを作ってくれただろうか。そういうことはなかったのではないかと言う気がした。
(子供の頃の父にとってレストランで食べるウェハースのついたアイスクリームが特別なご馳走だったのかもしれない)
それは恐ろしいような気付きだった。あの父に子供時代があり、その頃のご馳走を思い出して自らの子供に食べさせたなどと言うことがあるだろうか。だがそれはすべて推測に過ぎす、父は子供時代のことなど何も語らずに罵声と悪態のみを残して死んだ。
「いやあ、お待たせいたしました。前後の客の話ではかなりうまい卵だそうで、黄身はオレンジ色をしていて、割るとふっくら盛り上がるそうですよ。では行きましょうか」
笑顔のハンスが手に卵のパックを持って戻って来たので、オスカーの思索は中途半端なまま終わった。
レシピを熟読したハンスの指導のもと、ピスタチオとアーモンドを焦がさないように炒るという任務がオスカーに課せられた。その間、ハンスはチョコレートとオレンジピールをザクザクと小気味よい音を立てて刻んだ。ナッツの香ばしい香りがし出したころ、ハンスは包丁をハンドミキサーなる機器に持ち替え、ボウルに入ったクリームを泡立てた。液体状だったクリームが固まり始めたことに目を見張っていると、ハンスは「ふむ、いいかな」と言ってミキサーを止め手際よく冷蔵庫に入れた。
「ナッツも美味しそうだ。オスカー、もう火を止めて。今度はリコッタチーズを練って」
「練る?」
手渡されたスプーンを見て首をひねる。どうも料理にかかっては知らないことが多すぎる。
「後でクリームと一緒に混ぜるので、混ぜやすいように滑らかにしたいんです」
頷いたオスカーがボウルに入ったリコッタチーズをスプーンで練り始めたのをしばらく見てから(ちゃんと言われた通りできるか確認したに違いない)、ハンスは自分の任務に戻った。小さめのボウルに卵黄、砂糖、バニラビーンズを入れ、先ほどから沸かしていた鍋の湯の中に浮かせ、ゴムベラで混ぜ始めた。そんなやり方で温まるのだろうか? いや、温まり過ぎないようにするのだな、と思ううちにもハンスは鍋から小さなボウルを持ち上げた。再びハンドミキサーを持ち上げ、黄色い液体を泡立てた。
「オスカー、そっちも良さそうだ。チーズをこの中に入れて」
「これでいいか?」
「待って、まず半分だけ。コアントローを持ってきて」
ボウルを持ったままその場を離れようとするオスカーに、司令官の声で「ボウルは置いて」とハンスの指示が飛んだ。
ぶつぶつと口の中で何やらつぶやくオスカーが手にコアントローの小瓶を持って戻って来ると、ハンスはすでに残りのリコッタチーズを自分のボウルに入れていた。
「さあ、それをここに入れるんです」
「ひと瓶全部? なわけないな…」
「このテーブルスプーンで1杯と半分です」
ハンスはそう言いながら自分でコアントローを必要な分量だけボウルに入れ、さらに混ぜた。混ぜていた手を止めると、今度は「ナッツとチョコレートを持ってきて」と声がかかった。オスカーは黙ってその命令に従った。
ハンスはいつの間にか冷蔵庫から取り出したクリームを、卵黄と混じったリコッタチーズと混ぜ合わせた。
「オスカー、それをここに入れて」
「承知しました、閣下」
ふと手を止めてハンスがボウルから顔を上げた。悲しそうな表情を無視してざらざらとボウルの中にナッツや刻まれたチョコレート、オレンジピールを振りかける。
「すみません、オスカー。命令するみたいに言って。でも、お菓子作りは手際よくする必要があるんですよ」
あまりに申し訳なさそうな口調だったので、オスカーの機嫌はたちどころに直り、この状況の可笑しさに気づいた。
「仕方ないな。料理に関してはおまえの方に一日の長がある。何でも言いつけてくれ」
「もう後は混ぜて型に入れるだけです」
紙が敷かれた型にクリームとチーズにナッツが混じるものが流し込まれた。ハンスはトントンと型の側面を叩いて表面をならすと冷凍庫にしまった。
「後は?」
にこっとしてハンスは時計を指さした。
「後は冷やして固まるのを待つだけです。半日くらい」
「長いな」
「夕食の後ならちょうどいい時間だと思うんです。美味しく出来ますよ」
なるほど、濃厚なクリームとさっぱりとした味わいのリコッタチーズを混ぜ、そこにナッツやチョコなど食感の違うものを入れて冷やし固めるアイスケーキなのだ。昨日食べたアイスクリームとは違うが、手作りにもかかわらず見た目に凝ったアイスが出来上がるだろうし、これは美味しいだろう、ということがオスカーにも分かった。
「復讐は冷やして食べるとうまい、とかいうことわざがあるな」
ボウルやスプーンを洗うハンスを手伝いながら、オスカーは言った。
「ははあ。復讐はアイスクリームの味、ですかな。…誰に復讐するんですか」
オスカーはハンスに自分の過去の詳細を話したことはなかった。だが、疑うような視線を向けてそう言ったことからも何かしらこだわりがあることを察してはいるらしい。
復讐か…。腕まくりしたお互いの肘がぶつかり合うほど近くハンスの隣に立って、オスカーはこれまで存在も知らなかったようなキッチン道具を洗っている。考えるまでもなく、両親が経験したこともないことを今まさにしているのだ。
「復讐など不要だ。おまえとおれとで作ったアイスクリームを食べるのだからな」
それはきっとこれまで食べたどのアイスクリームよりも冷たく、だが甘くて美味しいものになるだろう。
ENDE