
Season of Mackerel Sky
朧月夜
そのバルコニーの光が届かない隅で、エルフリーデは男の腕の中で立ち尽くしていた。自分がどのように言われようと、ただ自分一人が我慢していればいいが、おかあさまについてあんな心無いことを言うとは、なんとひどい人だろう。おかあさまがあの人に何かしたわけではないし、だいたい、おかあさまはもう何も反論することが出来ないのだから、卑怯だ…。
今の状況のことなど何も考えずに、ここから飛び出して、あの人に言ってやればよかった。私はあなたが大嫌いで、おかあさまについてそんなことを言う人は絶対に許さないと…!
エルフリーデははっとして気づいた。
彼女は今、名前も知らない、顔もよくわからない、おそらくかなり年上の男の腕に抱きこまれて、バルコニーの隅に立っているのだった。見る人が見ればかなり問題のある状況だろう。それはそういう経験のない彼女にもよくわかった。
男の腕の中は暖かく、彼女が少し身じろぎしたくらいではびくともしなかった。彼女の口を覆っている手のひらが唇にあたっていることに気づき、彼女は口を動かすことすらできなくなった。息をするには鼻から呼吸するしかないが、彼女の鼻息が男の手にあたるかもしれず、それはとても恥ずかしいことに思われた。
彼女の息づかいは浅くなってきた。
ドレスは肩を出したスタイルだったから、彼女の肩を抱く男の手は直に肌に触っている。その手はがっしりとして非常にあたたかく、自分がまるで小さな子供のように感じられた。
エルフリーデは鼻から大きく息を吸ったが、息を吐き出すことが出来なくなった。彼女を抱く男のコロンの薫りが鼻孔いっぱいに広がって、その薫りは彼女の視界にすら影響を与えた。彼女が今まで意識したことのない、身体の奥の方からなにか切羽詰まったような感覚が突きあがってきて、とうとう彼女はそのままじっとしていることが出来なくなった。
「いい加減に放して!」
勢いよくその腕を振り払うと、案に反してすぐに解放され、彼女は一瞬それをとても残念なことに感じた。その思いが大きくなる前に閉じ込め、男の前から急いで飛び退った。
男は彼女の感情には頓着せぬように肩をすくめただけだった。エルフリーデは男に背を向けてバルコニーの手すりに体を預けて、そこから庭を臨み、何もなかったかふりをした。
「大した母親だな」
一瞬、おかあさまのことを言っているのか、とカッとなったが、彼が言っているのは義理の母のことだと気づいた。
「私のことをあの人がどう言おうともう、気にしないことにしたの。あの人が何と言おうと私とは関係ない」
「だが、一緒に暮らしている以上、あちらは親だから我慢しなくてはならないのは自分の方で、あちらはやりたい放題だ」
覆せぬ事実を淡々と述べるような口調に、エルフリーデはさっと男の方を振り向いた。月の光の下に出てきたはずなのに、男はちょうどバルコニーの上に伸びる木々の枝の陰にいて、その姿はよく見えなかった。
―この人の顔を私は見ることが出来ないのかしら
なぜか、この男が今どんな表情をしているか、見たいと思った。部屋に戻れば煌々としたシャンデリアの下でその顔がよく見えるだろう。
「ねえ、私と踊ってくれる?」
だが男は何も言わずに笑っているだけだった。なぜ笑っているのか彼女には分からなかった。相手からは窓からさす明かりで彼女がよく見えるに違いなかった。
「おれと一緒にいるところを見られたら、あんたの評判は一夜で台無しになるぞ」
「…あなたいったいどういう人なの? やっぱり人さらい?」
「人さらい?」
彼女は馬鹿なことを言ったと思った。そんなはずがない。冷静になってみると、そんな考えはありえないことだと思われた。彼女は彼の方に近づいて、この人はいったいどういう人なんだろう、と彼の顔を覗き込もうとした。
男はまるで彼女が近づくのを拒否するように、言葉を投げかけた。
「母親は放っておいていいのか。あの端末はどうする? しかも、あんたは片足だけ裸足だ」
男の方に近づいていたエルフリーデはその場で立ち止まって、自分の足元を眺めた。彼女はさっきまでの幕間劇を思い出して、どうせ暗くて見えないだろうが男をにらみつけた。
「そもそもあなたのせいじゃないの。さっき、取りに行ってくれると言ってなかった?」
「口の減らない子供だな」
「子供じゃない! もう舞踏会にも出れる大人だもの!!」
我ながら子供っぽい言いぐさだ。口から出た途端に言ったことを後悔した。
「…もうっ…!」
エルフリーデは再び庭の方へ振り返って、バルコニーの石造りの手すりに額を乗せた。それはとても冷たくて火照った彼女の額を気持ちよく冷やした。
彼女の顔のすぐ近くに誰かが立ち、手すりに身を乗り出したかと思うと、その上に飛び上った。
彼だった。
「やだ、やめて、そんなところに立たないでよ!」
だが、男は何も言わずにそこに手をついて、身体を手すりの外に出した。男が何をしようとしているか気づき、エルフリーデはますます慌てた。
「ちょっと、そこから降りたりしないで! 怪我するじゃないの! 危ないわ! 落ちる―」
男は手すりから手を離した。
何かひどい音がすることを想像して、エルフリーデは耳をふさいだが、何も衝撃的な破壊音は聞こえなかった。恐る恐るギュッとつむっていた目を開ける。
急いで下のバルコニーを見下ろすと、五体満足の男がそこにいて、彼女の端末を拾っていた。男は顔を上げて彼女が覗き込んでいるのを見つけると、手に持った何かを彼女に向かって放り上げた。
白い何かが弧を描いて飛んできて、彼女の後ろの床に落ちた。ダンスシューズだ。エルフリーデは急いでそれを履き、再び手すりに戻って下を見た。
だが、男の姿はすでになく、そこにあった彼女の端末も消えていた。
「盗られた!」
思えばあの男は彼女の端末の中身を見たがっていた。そのまま持っていかれてしまったら…!
エルフリーデはバルコニーから窓へ走って、そこに立っていた誰かにぶつかりそうになった。慌てて謝って、あまりみっともなくないようにドレスの裾をちょっとつまんで、小走りで舞踏会の会場を駆けていく。
―取り返さなくては…! あれにはおかあさまの写真や、私の日記、いろんなデータや…。
子供のころから大事にしてきた諸々の思い出がそこには詰まっている。誰だか知らないおかしな男にそれを取られるわけにはいかなかった。あの男が下のバルコニーから立ち去って、まださほど時間が経っていない。下の階のどこかにいるはずだ。
白いレースとオーガンジーのフリルをたなびかせて、まるで蝶のような姿の少女が、大きな階段を駆け下りて行く。誰もそれをみっともないとも、田舎じみたとも思わなかった。それはまるでみずみずしい、風のようなすがすがしい若さだった。
息を切らした彼女が下の階の広間にたどり着くと、彼女の義理の母親の前に軍服姿の男が立って、何かを渡しているのが見えた。義母は今まで見たことがないような、真っ赤な顔で目を潤ませて、相手を見上げている。エルフリーデが慌てていなければ、その表情は恍惚とした、あるいはうっとりしたとも言える表情で、まるでいつもの義母らしくないと気づいたことだろう。
義母の前に立つ男の背は、さっきまでエルフリーデの横に立っていた男のものとよく似ていた。
―軍人だったんだ。だからあんな高いところから軽々と降りて何ともなかったんだ。
彼女は心の奥で、彼を心配していたことに気づいた。それに彼が本当に彼女のものを取り上げて持って行ってしまうつもりだとは、信じたくなかったのだと分かった。
男は義母に頭を下げると、きびきびした態度で振り返って立ち去った。その時、一瞬だけ、その横顔が見えた。
艶やかな暗褐色の髪が高い額に垂れ、そこからまっすぐな鼻梁が続き、陶器のような白さの滑らかな頬があり、彼女が立つ場所からは色までは分からなかったが、そこに輝くような明るい瞳が見えた。だがそれもつかの間で、すぐに後ろを向いてしまった。その横顔は彼女の姿を認めたようにも思ったが、気のせいかもしれなかった。
それはきれいな男だったが、貴族の柔弱さとは違う厳しさを感じさせた。あのようなきつい口のきき方をする意地悪な影とは全く違う人物のようにも見えた。
フラウ・コールラウシュは義理の娘が近づくのを見て、泰然と微笑みかけたので、娘の方はびっくりして義母をまじまじと見た。
「あなたがどこに行ったかと心配したわ、エルフリーデ。それにしてもまあ、よかったわね。あの方があなたの大事な端末を拾って届けてくださったのよ。あなたはずっとこれを探していたんですってね。あの方が手伝って探してくださって、ようやく見つけたけど、あなたとははぐれてしまったから、私から渡してほしいとおっしゃって」
なるほど、そういうことにしてくれたのか。エルフリーデは彼の立ち去ったほうを見ながら、ぼんやりと義母に聞く。
「あの方がどういう方かお義母さまはご存じなの?」
義母は慌てたように扇で顔をあおいだ。
「あら、まあ、若い女の子は紹介されてもいない男の人に興味を持ってはいけませんよ。ええ、まあ、あの方のことは知らないわけではないけれど…」
もし、この帝都に二十歳以上でオスカー・フォン・ロイエンタールに興味がない女がいたら、それは世捨て人だろうとフラウ・コールラウシュは思った。とにかく彼はその女性関係のうわさにもかかわらず、娘の相手にと望む母親は後を絶たない。とうの母親の彼に対する思惑もあるだろうし、彼の持つ莫大な資産のせいかもしれなかった。
―もし、この子に彼の心を繋ぎ止めることが出来るとしたら、社交界はびっくりするでしょうね。
そこには母親である自分も高く評価されるだろうという打算もあったが、さすがにそれを口に出すことはなかった。
「さあ、あなたの伯父様にご挨拶をしてから帰りましょう。もう主だった人たちは帰り始めているわ」
それはすでに夜中の2時を回った時刻のことで、ようやくこの時間になってパーティーはお開きになるのだった。いつもならエルフリーデはこの時間にはぐったりしているのだが、今夜は不思議と眠くなかった。
「お義母さまはあの方と他のパーティーでもお会いしたことがあるの?」
フラウ・コールラウシュは今まで男性に全く興味を示さなかった義理の娘がそのように聞くのでうれしくもあったが、相手が相手なので少し心配しつつ答えた。
「いいえ、あの方はあまりこういった集まりには顔を出されないわね。見てわかる通り立派な軍人さんですから、お忙しいようよ。でも、あなたがあの方とまたお会いしたいというのなら、私の知り合いにあの方の親戚の方もいるから…」
「…いえ、お会いしたいという訳でもないけど…」
その娘らしいためらいの言葉に、フラウはますます喜んだ。ぜひお会いしたい、などときっぱりと言われたら困るところだ。若い娘は朝と夜とではすっかり見違えてしまう。だが、結局それは男性ゆえだと思うと、フラウは自分が夫から預かっている娘の将来が心配にもなるのだった。
エルフリーデは確かに自分でも、このパーティーに来た時の自分と、今の自分は全く違う人間のように感じた。あれほど大事だった端末は義母から受け取って以来、手提げに入れたまま、覗きもしない。あとで星のみんなに連絡しなくては、と思うものの、その内容は今までの他愛もないおしゃべりとは違うものになりそうだった。
大伯父のリヒテンラーデ侯爵も彼女を見て同様に感じた。パーティーの前にあいさつに来た時は特徴のない白い顔に気をひかれることもなかった。だが、楽しかったパーティーのお礼にと、義母と一緒に現れた彼女は、彼がかつて慈しんだ末の妹の娘とそっくりだった。彼女の実母とそっくりな頬はきれいなピンク色に染まり、顔色はつやつやとして生気に輝いていた。その足取りも柔らかに弾むような歩調で、来た時のような子供じみた快活さとはまた違っていた。
「そなたに会えてよかった。また、この家に遊びに来るとよい」
「ありがとうございます」
エルフリーデと義母は一緒にお辞儀して大伯父のありがたい言葉に感謝した。フラウ・コールラウシュは今日得た収穫を夫に披露する時が楽しみになった。
実際、彼女の苦労は報われたのだ。リヒテンラーデ侯爵は母娘の後姿が遠ざかるのを見送って考えた。
―確かあれの父親がいい官職に就きたいと申していたな。父親がよい官職にあればあの娘もよい夫を得ることが出来るだろう。
侯は年を取ってある面ではせっかちになっていたから、明朝早々にコールラウシュに地位を用意してやろうと考えた。それはあの娘にとってもいいことだし、なにより彼の周りをますます強固にする役に立つと、侯爵は信じて疑わなかった。
エルフリーデではその日の明け方、コールラウシュ邸に帰った途端に熱を出して、さすがの義母をも慌てさせた。次の日は1日寝ていたが、その日の夕方には熱はひいていた。
「みんな、私やっぱりオーディンに来てよかったと思う。だって来なければ、今まで知らなかったようないろんな人に会うこともなかった。それに考えもつかない感情を持つこともなかった。私、これからはもっと外に出て、いろんな人と会おうと思う。それにあんまり端末は外でいじらないようにする。なんだか、それって少し子供っぽいような気がしてきた。もちろん、家に帰ってきたら、その日どんなことがあったか、連絡するからね」
ベッドに腰掛けて、風の通る窓からオーディンの空を見る。やはり月は一つしかないが、それも悪くないと思い始めていた。一つしかない月の下では確かに人々は自分が知っている人とは違うようだ。だが、自分も変わったのだとはっきり分かった。
「私、大人になったみたい」
端末に向かってではなく、自分に向かってエルフリーデは呟いた。
その時、あの笑い声が聞こえたような気がして彼女は赤くなった。きっと大人は自分が大人だとは意識しないだろうから、すでに大人である彼は笑うだろう。
だが、彼のその笑いは意地悪なものではないような気がして、エルフリーデは微笑んだ。
Ende