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朧月夜

月の光が差すバルコニーから白いシルクの長手袋をした手が伸び、月に向かって小型の端末を突き出した。とたんに端末に搭載されたカメラが音も立てずに月を写す。

「オーディンの月は一つしかないの。そちらの夜空とは全く違う。一つしかない月に住む人たちは私たちとは違うのかな。少なくとも私のお義母さまはそうみたい。私とは違う」

彼女は手に持った端末に話しかける。端末が彼女の言葉を聞き取って文字にして、遠い星の彼女の友人たちにレポートを送るのだ。

「みんな、見て。ここから見えるお庭に一つだけの月の光が差してとてもきれい。今夜は大伯父様のお屋敷でパーティーなの。私もきれいなドレスを着させてもらったけど、お義母さまはずっと文句を言っている。採寸した時より身長が伸びてたのよ。私だってびっくりしたけど、なぜあともう少し身長が伸びるのを待てなかったかと言われても、勝手に伸びてたんだもの。でも、ほら見て」

彼女は自分の方に端末を向けてくるりと回った。ちゃんと撮れたかな。

デビュタントにふさわしい白いシルクやオーガンジーでフリルをたっぷりとったドレスの裾がひらりと開く。少し青みがかった白い布は、並の肌色では着た当人を病人のように見せたろうが、彼女の場合、その肌の白さとクリーム色の髪色が調和して月の光の下で幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「ウエストの布を出してリボンを付けたら、ちゃんとぴったりになった。元のデザインより可愛くなったし」

今度は屋敷の中を写そうと、バルコニーの石の手すりに背をもたせ掛けて、舞踏会の会場に向けて端末を差し出す。天井から床までの大きな窓にかかるレースのカーテンから中を臨むと、煌々と光るシャンデリアの下で踊る人々の姿が見えた。

月の光が輝く庭から見ると、それは妙に安っぽくつまらないものに見えた。

彼女はため息をついて端末を構えたまま話しかける。

「どうせならこのきれいなお庭で、月の光の下で踊ったら素敵だと思う。でも、そんなことを言うと、ここの人たちは私のことを馬鹿にしたように見るのよね」

―まあ、あなた、この子を長く手放しすぎましたわ。なんて田舎じみた子でしょう。まあ、このそばかすを見てください。

義母が初めて義理の娘を見たとき叫んだ言葉を思い出す。ほんとうのおかあさまがおいでだったら、こんな失礼な人にお世話にならずにすんだのに。でも、おかあさまはもういない。

―私とあなたとで好きなように、楽しく暮らしましょう、エルフリーデ。

そう言ってオーディンから一緒にあの星へ行ったおかあさまはもういない。

「それにせっかくの舞踏会なのに、あまり上手に踊る人がいないみたい。私、3回くらいパートナーに足を踏まれたし、2回くらい踊っているときに誰かがぶつかってきたし」

それはこのあいだ社交界デビューしたばかりで、晴れの舞踏会に出席して緊張気味のデビュタントの少女たちが多いせいもあった。だが、彼女自身はダンスが大好きで、好きなだけあって上手だったから、他の少女たちの緊張には気づかなかった。

「男の人たちもつまらない。ちゃんと女の子をリードできる人がいないみたい。私がリードしているみたいな気分。たぶんお義母さまだったら私が相手にしっかり合わせて踊ることが出来ていないんだって言うと思う。きっとそうなんだろうけど、だって、イライラするんだもの!」

思わず端末を握りしめて訴えかけると、突然、右の方から人声がして彼女は飛び上った。

―聞かれたかな。

端末を握りしめたまま、少し暗い植え込みの陰にそっと寄り添った。

人声はバルコニーの向こうの端の影に歩いて行き、彼女はほっとした。陰から出て部屋の中に戻ろうとしたが、その時そちらの方からおかしな気配が聞こえて思わず立ちすくむ。

今は家にいて彼女の帰りを待っている、可愛いハウンド種の大型犬2頭がじゃれる時の音のようなものだ。抑えてはいるが短い息遣い、唸るような喉声。

布のすれる音と女性の声が聞こえて彼女はようやく、どうやら恋人同士の逢瀬に立ち会っているようだと気づいた。

どきどきして身を竦めつつも、反対側の暗がりで何が起きているか気になって仕方がない。出来れば走って逃げだしたいが、そうしたらここにいたことを見咎められるだろう。あちらこそ早く立ち去ってどこか別のところでやってほしい。

突然、思わぬ近さで女性の声が聞こえた。

「なんて退屈なパーティーかしらね。デビュタントが2度目のパーティーにこの場を選ぶとは思わなかった。ここであなたに会えなかったら私きっと叫びだしていたわ」

「ふん、それなら来るのではなかった。良識の鑑だと思われているあなたが、こんな上品なパーティーで叫びだしたら見ものだったが」

「そうね、本当のことを言うと叫びだしたくなったのは、私の方ではあなたがいると気づいたのに、あなたの方では私に気づいていないことがわかってからよ、オスカー」

再びひとしきり犬がじゃれあうような音がしてから、二人の会話は再開した。

「それにしてもこういうパーティーに出席するなんて珍しいわね。今は軍務がお暇なの? よろしかったらリヒテンラーデ侯にお引き合わせするわよ」

意味深な沈黙の後に相手の男性が答える。

「探りを入れても無駄だ。侯爵にはまっとうに挨拶をして、それで終わりだ。それにこれは軍務とは関係ない。親戚から頼まれてそこの娘を連れてきただけだ」

「あらまあ、可愛そうなお嬢さんだこと。そのご親戚はあなたの評判を知っていてそんなことをするの?」

「知っているのだろう。どうやら噂の種にでもしたいらしい」

「それほどそのお嬢さんは切羽詰まっているの? そして、その企みを分かっていて乗ってあげるのね、あなたは。また悪い評判を増やすつもりなの?」

反対側で聞いていたエルフリーデは、その女性が突然「やん!」、と甲高く細い声で叫んだのでぎょっとした。彼女が今まで聞いたことがないほど、不思議と人を平静でいられなくするような声だった。女性はなんとか声を押さえようとしているようだが、それでも漏れ聞こえてくる。くぐもった声で呻いていることから、おそらく今、こちらの端で彼女がしているように手袋をした手で口を押えているのではないだろうか。

その声は徐々に何かが佳境に差し掛かるような、さっきよりずっと切羽詰まった声になり、それを聞いている彼女も、それが何か理解できないながら、その女性と共に心臓を高鳴らせていた。

「―!!」

声にならない叫びが聞こえたような気がして、彼女は手袋をした両手で口を押えた。

とたんに、手に持っていたはずの端末を落とした。

カシャーン、と端末が落ちる音がして、慌てて彼女はそれを拾おうとしゃがむ。

「―今のは何!?」

喘ぎながら女性が震える声で言う。それにおっかぶせるようにして男の低い笑い声が聞こえた。

「誰かがそこにいてずっとこちらの様子を伺っていた」

「まっ…、オスカー、あなたそれを知っていて、私にこんなこと…」

バシッと何かを叩くような音がして、そこに男のクスクス笑う声が重なる。彼女はささやき声ながら、強い口調で相手を責めたてた。

「オスカー! 私の評判を台無しにするつもり!? そこにいる人、出てきなさい! 許せないわ!」

男がのんびりした口調で怒る彼女に声をかける。

「それこそ、誰だか知らないそこにいる人物にあなたの顔を見られては困るのではないか。今なら誰ともわからぬ男女の戯れですむ」

「…私を知っている人物だったら…」

男は少し強い口調で答えた。

「あなたを知っているのだとしたら、そこの人物を口止めする役割は任せてもらおう。自分で対決するような真似はしない方がいいだろう」

しゃがみこんで思わぬ事態に動けずにいるエルフリーデが心配するほど長い沈黙が続いた。そしてようやく女性がため息をついた。

「もとはと言えばあなたが引き起こしたようなものですものね、オスカー。それでは責任を取って頂戴。私はあちらから行きます。あなた、後で、どうなったかちゃんと報告しに来てくれるでしょうね」

何かの思惑がありそうな声音で『後で』と強調して言うのに、男は鼻で笑って答える。

「もちろん、ご報告に上がろう。―後で」

 

エルフリーデはしゃがみこんだまま、黒い影がこちらへ向かってくるのを見ていた。まるで光が差さない場所を知っているかのように、ずっと影を歩いてこちらからは顔もよくわからなかった。

だが、あちらからは月の光に反射するドレス姿の彼女の様子がよく見えるに違いない。

「その手に持っているものを渡してもらおうか」

そう言ってこちらへ大きな手をぬっと突き出した。

エルフリーデは気力を総動員してようやく立ち上がった。震える声で答える。

「誰だか分からない人に私のものは渡さない。これは私の端末だし、これであの女性が心配になるようなことは何もしていないもの。あなたこそ、彼女に何をしたのよ」

男はぎょっとしたように彼女の方を見た。

「なんだと」

「なんだかすごく苦しそうだった。あの人が怒るのも無理ないと思うくらいだったもの。人が嫌がることをするような人の言うこと、私は聞いたりしませんから」

端末を胸に抱きしめて、よく見えない相手をにらみつける。だが、思いがけないことに相手の男はいきなり笑い出した。

「…ひ、人が嫌がること…、苦しそうだったって…、ず、ずいぶんしっかり聞いていたじゃないか…」

笑い声に混じってそういいつつ、男は身をよじって笑った。その楽しそうな笑い声は艶やかで、聞いているエルフリーデは肌がざわつくような気分になり、端末を持つ手をぎゅっと強く握りしめた。

突然笑い出したのと同様に、男はいきなり笑いを収めると、さらにエルフリーデに近づき、無言で彼女の両手に手を乗せた。

「……!!」

彼女が声も出ずにびっくりしている間に、相手は彼女の握りしめられた手をほどき、難なく端末を取り上げてしまった。

「ちょっと…! 返しなさい!!」

エルフリーデは男の手から端末を取り返そうと、手を伸ばす。男は高く手を上げて端末を操作している。中のデータを調べようとしているらしい。

「そこには何もないわよ! 返しなさい!!」

「何もないのであれば、見られて困ることもなかろう」

「私の個人的な情報が入っているのよ! 失礼じゃない!!」

男は後ろ向きになって、振り上げられる彼女の拳から逃れようとする。エルフリーデはその後ろ姿に向かってダンスシューズを放り投げた。

男の手から端末が飛び、シューズと一緒にバルコニーの手すりを飛び越えて行った。

「あっ」

男は空になった手をあっけにとられて見ていたが、再び笑い出した。

 

エルフリーデは「ああ~」と言って、手すりから身を乗り出して二つが飛んで行ったと思しき方を見る。このバルコニーは上階にあり、見ると、下の階にも同じようなバルコニーがあり、そこに二つとも落ちているようだった。端末のアラームがぴかぴかと光っている。

「あった! ねえ、ちょっとあなた、あれを取りに行ってよ!」

ようやく笑いを収めた男に言うが、相手は肩をすくめるだけだ。

「あれはお前のものだろう。自分で放り投げたのだから、自分で取りに行け」

「もとはと言えばあなたのせいだから、責任取って取りに行ってよ!」

いったい彼女の言葉のどこがおかしいのか、男はまた笑い出した。

「女性から責任を取れと言われたことは初めてではないが、このような場面で言われるのは初めてだ」

なんてふざけた人だろう。彼女は笑っている男を無視して、下のバルコニーを見下ろす。アラームの緊急事態を告げるような忙しい光り方は、彼女の義母から連絡が入った時、すぐ出られるように設定したものだ。まずい。

「お義母さまから連絡が入っている。あれに出ないと…」

彼女の焦燥感があふれた声音に気をひかれたか、男も彼女の隣に立って身を乗り出した。

「おかあさまか」

「義理だけど。おとうさまの二度目の奥さんなんだけど、あの人に会って鼻持ちならないって言葉の意味がよく分かるようになった。あの人、とても親切だけど、そのせいでいつもいたたまれない思いがする。こんなこと言ってはいけないってわかっているけど」

なぜそのような内輪の話をするのか、おそらく相手の顔もわからない薄明りの下だからだろう。自分はこの見も知らぬ男に喚き散らし、相手は遠慮なく自分を笑って、辺りには不思議な親密感が漂っていた。

男は突然言った。

「取りに行ってやろうか」

驚いて相手の顔を見上げたが、急に後ろの開いた窓から人声がして、再び誰かがこちらへやってくる気配がした。

 

着飾った婦人二人が盛んにしゃべりながらバルコニーに出てきた。

「なんてことでしょう! エルフリーデったら通信に出ないわ。あの子ときたらいつも端末に向かって何かしていて、この通信にも気づいているはずなのに私を無視しているんだわ」

「あらまあ、少し落ち着きなさいな。きっとどこかでお友達とお話でもしていて、気づかずにいるんですわ」

「とんでもない、あの子ときたらオーディンにお友達なんておりませんもの」

「この会場で新しいお友達が出来たかもしれませんわ」

相手はおっとりした人物のようでエルフリーデの義母が憤慨するのをなだめている。エルフリーデはその婦人を心の中で応援した。

彼女はなぜか、バルコニーの隅の暗がりに押し込められて、男の腕の中にいるのだった。男の大きな手が彼女の口をふさぎ、肩は相手の手ががっちりつかんで身体に押し付けられて、声を上げることも、身動きすることもままならなかった。

―もしかして、人さらいだったらどうしよう

まさか、でも―。すぐそこにいる義母に助けを求めるべきだ。だがその結果、義母がどれだけ彼女をしかりつけ、馬鹿にするかを考えると今はじっと身を潜めているのが賢明だと思われた。

―二人とも早くあっちへ行って! お義母さまが行ってしまったら、まず、この手にかみついて、この人がひるんだすきに急所に頭突きをする! そうしたら逃げれば追いつかれない。

義母と連れは月の光の下でまだ話している。扇で盛んにあおいでいるから、部屋の中が暑くてそれでバルコニーに出てきたのかもしれない。

「まあ、聞いてくださいな。あの子ときたら自分で何でもやってしまうんですの! なんて田舎じみたことでしょう。自分で端末を操作してお付きの者が手を貸そうとすると、構わないで、というんですのよ」

「あら、今どきの子では珍しくもありませんわ。でも、確かにずいぶんはっきりしたものの言い方をする女の子だとは思いましたけどね」

「そうでしょう。あの子が初めて自分で端末を使って写真を撮った時はびっくりしましたわ。そんなことは自分でするべきではないのに」

「あらまあ」

「今まで住んでいた星ではみんなやっていたというんです。でも、ほら、田舎では人手がありませんものね。なんでも自分でやる風潮があるようです。真の貴族は自分の手をそのような機械で汚さないのだと言って聞かせましたら、ずいぶん感銘を受けたようでしたわ」

感銘を受けたのではない、あきれてものも言えなかったのだ。今も義母に反論しようと思わず飛び出しかけたが、男の手が彼女の身体が前に出るのを抑えた。

「しかも、今日のドレスも着てみたらまあ、試着した時はぴったりだったのに、あの子ったら身長が伸びていて…! そのうえ、自分で布を出してサイズを調整して、リボンまで縫い付けて! あの時ほど驚いたことはありませんわ」

「お裁縫が得意なのね」

「刺繍をしたり、クッションを作ったりとは違いますよ…! ドレスのサイズを直せるなんてお針子じゃあるまいし、なんてみっともない…!」

「そんなに悪いことではないと思いますわ。たぶん、お嬢さんが手を出す前に周りの者が先回りしてやって差し上げるといいわね。いずれ、お付きにさせるべきことと自分でするべきことの区別がつくようになりますわ。お嬢さんは賢い女の子のようですから」

エルフリーデはぜひ、この婦人と会ってお話してみたいと思った。義母の貴族の令嬢はこうあらねばならない、という思い込みをどうにかして諭して、もう少し彼女が暮らしやすいようにしてくれたら…。

だが、友人の言葉に対して義母は別に感心したようでもないようだった。

「賢いならば、私の言いたいことが理解できるはずだし、素直に従うことが出来るはずですわ。あの子の頑固なことと言ったら…。あの子の母親もとても頑固だったようです。夫のコールラウシュと喧嘩して、一人であんな田舎に引っこんで娘を育てて、亡くなる直前まで決して夫と連絡を取りもしなかったという女性ですもの。リヒテンラーデ侯爵のお血筋とは到底信じられませんわね」

「まあまあ、フラウ・コールラウシュ、部屋に戻って少し冷たいものでも飲みませんこと? きっとお嬢さんもじきに戻っていらっしゃるだろうし…」

その言葉の最後は二人が部屋の中へ戻って行ったためによく聞こえなくなった。バルコニーに静寂が戻った。

 

 

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