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マニキュアリスト

まるでよろめくような、いや、むしろ飛び跳ねているような歩調で、参謀長ベルゲングリューン中将がその夜、司令官の私室に向かって廊下を歩いていた。その部屋を守って扉の前に立つ衛兵に、「閣下のご用事で参った」とだけ伝えて自動扉を入っていった。

昼間、司令官の爪を切ったのは隣室の司令官執務室においてだったが、こちらのほうは完全に私室になる。当然、呼ばれてこの部屋に入ることはめったにない。部屋の奥からシャワーを使う音と人の動く音が聞こえてくる。換気が効いていないのか、シャワーで使っているお湯の湿気を感じる気がした。あるいは自分が汗をかいているせいかもしれない。

「か、閣下。ベルゲングリューン参りました」

うわずった参謀長の声に対して、落ち着いたロイエンタールの声が答えた。

「今行く、その辺に座って待っていろ」

そこには重厚な低いテーブルをはさんで、皮張りのL字のカウチソファと一人がけのソファが2脚あった。カウチソファの端っこに少しだけ尻を乗せて、さも居心地が悪そうに座る。このソファは座面が広くスプリングが効いて座り心地がよい。対面する位置にちょうどよくソリビジョンのモニタを置いたら、ゴロゴロしながら映画でも見れて快適だろう。そのままうたた寝したら起き上がれなくなりそうだ。

閣下は映画などご覧にならないような気がするが、おそらく、ここにゆったり腰掛けてウイスキーなど傾けられることがあるかもしれない。そのままうたた寝したら起き上がれなくなりそうだ。

そうしたら自分がお起こしするというのもありうるな。このソファは二人以上の人間が座っても十分すぎるくらい広々している。この端っこに座ってお休み中の閣下のご様子を伺っていても、広いからお休みの邪魔にならない。閣下の寝顔を見ていたら、自分までそのままうたた寝して起き上がれなくなりそうだ。

バタン、と扉が開閉する音がし、パジャマをきっちり着込んだ湯上りのロイエンタールが出て来た。ベルゲングリューンは夢想から飛び起き、慌てて立ち上がり敬礼する。ロイエンタールの右手の包帯は乾いていたから、ちゃんと医者の言いつけ通り、防水用の手袋をしてシャワーを浴びたものと見える。ベルゲングリューンがカウチソファの端っこに座っていたらしいのを見て、うなずいた。

「そこなら広いから二人座ってやるのに十分快適だな。少し待て、道具を持ってくる」

―自分がお持ちします、と言う間もなく上官は行ってしまい、ベルゲングリューンがソワソワして待っていると、やがて戻って来た。

手にはちゃんとあの革のケースを持っている。

ロイエンタールはカウチに楽々と背中を預けると、長いほうの座面に沿って脚を投げ出した。その足元の方に先ほどまでベルゲングリューンが座っていた。今は立っているベルゲングリューンのすぐそばに、ロイエンタールの細身で長い筋肉の発達した脚が並べられている。

「ベルゲングリューン、卿には迷惑だろうが、本当に助かるぞ。手の爪ならば従卒にやらせても構わんかと思ったが、おれでもさすがにあの年頃の子供に、上官の足の爪を切らせるなど頼めることではないからな」

―子供に頼むのは不謹慎なほどのことがらを、なぜ私ならばやらせても構わんのですか? 

一瞬、ベルゲングリューンは両手を振り上げて上官につかみかかりたい衝動に駆られた。だが、ふと見下ろしたロイエンタールの頬が、シャワーの名残のせいか上気したように赤くなっているのを見て、考えを改めた。おそらく、このお人はこういった個人的な事柄をあけすけにすることを好まない。肉体的な問題を明かすことは弱さの表れだと思っているのだ。貴族階級では足を見せることは裸になるのも同じ、と考える風潮もあると聞いた。軍隊にいればそういうことは否応なしに矯正されるだろうが、誰でも体に染みついて離れないことの一つや二つあるものだ。

ベルゲングリューンはロイエンタールの足元のソファの端っこに腰掛け、爪切り道具を引き寄せた。座った場所がロイエンタールの足から少し離れているので、ベルゲングリューンは前かがみになっている。

「ベルゲングリューン、遠いとやりにくいだろう。もう少し近くに座れ」

「あ、は、はい」

ベルゲングリューンはずりずりと尻をずらして、ロイエンタールの足に近づいた。ロイエンタールは足の指を握ったり開いたりしている。その左足におずおずと手を伸ばした。とたんにロイエンタールが驚いたような声を出した。こんな声はこの上官からついぞ聞いたことがなかったが、あえて文字で表現するならば『わひゃっ』と言う言葉と似ていた。

「そろっと触るな! くすぐったいだろう。足は怪我をしていないのだからしっかり持ってくれ」

「あ、さ、さようですな。失礼いたしました。では」

ためらいが指先に出ないよう、がっしとロイエンタールの足の土踏まずをつかんだ。つかんだ足がぴくっとして、ロイエンタールが息を吐いたのが聞こえた。今度は『ぶふっ』という音といささか酷似していた。もしかしたら、このお方は足裏が弱いのではないだろうか?

ベルゲングリューンは上官の弱点をつかんだ気がして、少し大胆な気持ちになった。彼はソファに横座りに座って、腰のあたりからひねって上体をロイエンタールに向けていた。それを止めて奥の方の脚をソファの座面に全部乗せ、膝を前に折って座った。これでしっかり上官の方に体を向けて座ることが出来る。

指の爪より、足の方が爪が固い。どのように刃を当てれば切り易いか試行錯誤の後、ようやくパチン、とひとかけ切った。何度かパチン、パチンと切っていったが、足の爪など自分の爪であっても切りにくいものだ。ロイエンタールの足の親指の爪は手と同様に長くて細かったが、他の指の爪は細い足指に合わせたように小さいものもあった。幸い、変形した爪はなかった。だが、小さな指をつかむとまるで壊してしまいそうな気分になり、どうしても強く握れない。そうするとまた、ロイエンタールに奇声を上げさせることになる。ベルゲングリューンは自分の膝にロイエンタールの左の足裏を押し当てた。そのうえでロイエンタールの足首から土踏まずの辺りをつかむとぐらぐらしないと気づいた。

ロイエンタールが喉の奥でなにか唸っている。掴まれた足の指を開いたり閉じたり動かしている。いらいらしたようにロイエンタールが言った。

「早くしてくれ。まだもう片方あるんだぞ」

だが、ベルゲングリューンが再びしっかりつかんで切り始めると、今度はゴソゴソと座りなおすように腰を動かした。ベルゲングリューンはその動きのせいで手から逃げ出した足をつかみなおした。

「閣下、動かれますとちゃんと切れません。どこか指の皮膚に刃が当たるかもしれませんから、くすぐったくても我慢してください」

「別にくすぐったいわけではない。居心地が悪いだけだ」

光沢のある滑らかな革張りのソファは、ベルゲングリューンが過去に体験したことがないほど座り心地が良いものだった。いくらロイエンタールのお尻が奢っていても、これ以上のソファがそうそうあると思えない。くすぐったくてじっとしていられないのだ。もしかして、それもあって従卒の子供相手では頼みづらかったのか―。

「なるほど」

「なんだ、何がなるほどだ」

ロイエンタールが再び脚をバタバタさせたので、ベルゲングリューンは危うく中指の爪を深く切りすぎるところだった。

「ほら、閣下! 今まさにグサッと行くところでしたぞ! いい加減我慢なさい!!」

ベルゲングリューンはグイッとロイエンタールの足を引っ張り、自分の組んだ脚の上に載せて固定した。ロイエンタールは引きずられてソファの背もたれから少しずり落ちた。

ベルゲングリューンはこの厄介な足が自分の近くに来たことに満足し、中指、薬指、小指と一気に切った。我ながらなかなか上手ではあるまいか。

「さあ、こちらは終わりました」

彼はもうさっさと終わらせてしまおうと、右足を遠慮なく自分の組んだ足の上に引き寄せた。ロイエンタールは少し寝転がった態勢で押し黙っている。ふてくされているのか、参謀長の諫言に素直に従って大人しくしているのか。

しばしの間、爪を切る音と、ロイエンタールがため息をついている音だけが聞こえた。

ふと、ベルゲングリューンは自分の股間に何やら違和感を覚えた。彼はひとかけ爪を切るごとにロイエンタールの足を少し緩め、切った個所を眺めて再び足を固定して切っていた。その足の固定が緩むと同時に、ロイエンタールの足がまるで疲れた、というかのようにベルゲングリューンの中心地点めがけて倒され、一押ししてから元に戻ることに気づいた。

何度か繰り返したのちそれが気のせいではなく、確実に上官の足裏が自分のその場所にぴったりと当たっていることを確信した。気づくとなおさら意識がそこに集中し、一気にそこは活性化した。

「あの、閣下。当たっているんですが」

「は? なにが?」

目を見開いてきょとんとしたような表情をする。無邪気を装っても無駄ですぞ。

「あなたのおみ足です。それが小官の、え~、大事なところを直撃しておりますが」

「だいじ…。ああ、これは卿のものか。フニャフニャして足触りのよい足置きだと思っていた」

ロイエンタールは『足置き』をぐいぐい押した。奇声を上げたのは今度はベルゲングリューンの方だった。次にロイエンタールの足はあからさまに、参謀長の大事なところを効果的に撫で上げた。

「閣下! いい加減になされませ!!」

ベルゲングリューンは悪戯好きの右足をつかんで、大慌てで自分から遠ざけた。その拍子にロイエンタールが寄り掛かっていたソファの背もたれからすっかりずり落ちて、ベルゲングリューンに掴まれた足を天井にして転がった。

ベルゲングリューンは自分が引き起こした事態に固まった。

ロイエンタールは面白そうに自分の上にいる参謀長を見上げている。ロイエンタールの片脚を高く持ち上げて、ベルゲングリューンは上官の両脚の間に身を乗り出している。

ベルゲングリューンの思考は真っ白になった。参謀長の心臓は一度すべての機能を停止した後、一気に逆流して彼の顔を真っ赤にさせた後で、さっと遠のいて今度は真っ青にすると大量の冷や汗を噴出させた。

ベルゲングリューンが掴んでいるロイエンタールの右脚はすんなりと天井を向いて、その足首の手触りは滑らかだった。パジャマのズボンの裾がずり落ちて、筋肉の発達したふくらはぎが覗いている。なぜそうなったか不可解ながら、ロイエンタールのほぼ直角に開いた脚はぺったりとベルゲングリューンの膝立ちの脚の外に広がって、彼を受け入れるような形になっている。パジャマの上着の裾がめくれて、白いへこんだ腹がちらりと見えた。さらに開ききった上官の中心部は柔らかな生地のパジャマのせいか、その個所の形がはっきり手に取る様に分かった。

下着を―履いて―いない。

硬直したベルゲングリューンの膝に、すっとロイエンタールの左手が伸びて、置かれた。

「ベルゲングリューン…」

ベルゲングリューンは一気にソファから転がり落ち、テーブルの角に脛をぶつけながら、部屋の出入り口付近まで後ろ向きに飛び退った。

「しっ、しつれ…、失礼いたしました! 申し訳ございません! 飛んだことをいたしまして…!!」

ロイエンタールがソファの上で左のひじをついて上体を起こした。その上官の顔がほほ笑んでいるのを見て、ベルゲングリューンはますます惑乱した。

「…申し訳ございません!」

「ベルゲングリューン、なにを卿が謝ることがある。からかったのはおれの方だ。卿がカッとなっても仕方あるまい」

ベルゲングリューンはうつむいて両手を額に当てた。

「…いえ、その、閣下に対しあまりに馴れ馴れしく…」

「それを許したのはおれであるから、それがいけないのであれば、その罪はおれにある」

「…そんな、閣下…」

閣下がお許しになる以上に自分は想像を逞しゅうし、この方の神聖な空間を犯したのだ―。

だが、ロイエンタールは重ねてベルゲングリューンに声をかけ続けた。

「ベルゲングリューン、顔を上げてくれ」

ベルゲングリューンはうつむいて固まったままだ。ロイエンタールは大きくため息をついた。

「ベルゲングリューン、卿がここに来てくれないと困るのだ。おれはこれでもけっこう、卿を頼りにしている。卿が必要なのだ」

ロイエンタールは左手をベルゲングリューンに向かって伸ばした。

「真面目な卿をおれはからかうべきではなかった。ベルゲングリューン、今あったことはあまり重大に考えるな。ここに戻ってこい」

「か、閣下…」

その優しい声音と言葉は真っ赤な参謀長の顔を上げさせた。ロイエンタールはまだ微笑みをその口元に浮かべている。ベルゲングリューンはそろそろとソファの方に歩みを進めた。上官の延ばされた手に、自分の震える手を伸ばし、その指先がそっと重なった。

「ベルゲングリューン、卿には個人的なことを頼んで世話になっているのに、からかうなんて本当にひどいことだった。もうあと中指、薬指と小指の爪だけだ。おれもじっとしているから、卿も我慢してやってくれ」

ロイエンタールは差し延べられたベルゲングリューンの手に、銀色に輝くニッパー型爪切りを渡した。

 

参謀長が1時間以上も司令官閣下の私室に閉じこもって、出てきたときは放心状態にあったらしいという噂が、翌日どこからともなく流れた。司令官閣下の扉を警護していた衛兵から、というより、参謀長がその部屋を出ていくところを見た副官が衛兵と話していた内容を、通りがかりのものが聞きつけ、別の者に話して噂になったたようである。

当の参謀長は前夜の物思いからはすっかり立ち直っていた。今朝、ロイエンタールが軍議の後で彼にさりげなく言ったのである。

「卿に思い切ってやってもらったおかげで、たいへんすっきりした。今朝は気分がいい。あとどのくらいでまた、我慢できなくなるか分からんが、多分まだ来週も卿にやってもらった方がよさそうだな」

「は、ご信頼いただきまして大変光栄に存じます」

「長すぎず、短すぎず、ちょうどよい。卿は何をやっても上手なのだな」

ベルゲングリューンは少し赤くなった。

「滅相もございません。ですが、次もしっかり励みまして閣下にご満足いただけるように努めます」

「個人的なことで気がひけるが、しばらく自分でやるのは無理であろうし、卿に全部任せたほうが良かろう。もう他の者には頼めぬな」

「過分なお言葉、恐縮です。ありがとう存じます」

ロイエンタールの後ろに立っていたレッケンドルフが、口をあんぐり開けて真っ赤になっていたが、なにか勘違いしたらしい副官をベルゲングリューンはそのままにしておいた。ロイエンタール上級大将の爪切り係は帝国広しと言えど、このベルゲングリューンより他に右に出る者はいない。自分に挑戦する者は相応の覚悟をしてもらおう。

イゼルローン要塞攻略のため、旗下の提督たちに通信で答えているロイエンタールのそばに立って、ベルゲングリューンはこっそりと軍服のポケットをさぐった。そこには小さな紙包みが入っている。封筒の底を切って袋状にした無骨なものだが、その中にロイエンタールの三日月形の小さな爪が入っている。昨夜、軍服のズボンに引っ掛かっていたのを見つけたのだ。我ながらどうかしていると思いながら、それがロイエンタールのものと知っている以上、捨てることが出来なかった。おそらく、いずれ、閣下のお爪が珍しいものではなくなる時があれば、その時…。

 

Ende

 

 

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