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マニキュアリスト

ロイエンタール上級大将が負傷した。

全治一か月の重傷、絶対安静。指揮下のルッツ提督は、イゼルローン要塞攻略戦の総司令官が負傷したと聞いて仰天した。ロイエンタールの旗艦、トリスタンに同盟軍の者どもが侵入し、司令官自らが一対一で肉弾戦に及んだという報を聞いていたから、その時ひどく痛めつけられたのかと思ったのだ。聞けば、対戦相手はかの“薔薇の騎士”の中でも指揮官級の者だったらしい。あのロイエンタールがその人物と対峙し負傷したというなら、よほどのつわものだったのだ。

泡を食ってトリスタンに通信したルッツは、当の司令官が病室からなどではなく、通常通りの指揮官席から通信スクリーンに現れたので、大したことはなかったかとほっとした。事情を聞いて通信を切った後で遠慮なく笑ったが、おそらくあれではかなり不自由するだろうと気づき、気の毒に思った。

ロイエンタールの負傷の診断名は、手首の捻挫―。

 

そもそも、あの侵入者と戦った後、右手首に少し違和感があった。あのように突然の襲撃に俊敏に応戦し、辛くも撃退したことに救援に来た参謀長、ベルゲングリューン中将は賞賛を贈った。しかし、ロイエンタール自身は自分にふがいなさを感じていた。戦艦の中でのんびり過ごして体がなまっていたのだ、あのような者を即座に倒すことが出来なかったとは情けない。右手首の違和感はいかに自分が怠けていたかの証左に思えた。

その夜、強引にベルゲングリューンに戦斧でのトレーニングの相手をさせた。ベルゲングリューンとしては司令官が自ら敵と戦うような事態には二度とするまい、と密かに誓っていたのだ。まるで二度目があるかのようなロイエンタールの激しい訓練ぶりには閉口したが、おそらく、侵入者をついに倒しえなかったことへのうっ憤晴らしであろうと思い、司令官の相手をした。

あまりお疲れにならぬよう、ほどほどに―。

そう思っていたベルゲングリューンだったが、何しろ相手は『ほどほど』という言葉を知らぬロイエンタールである。あの激戦の後でなお、戦斧を振るう力があるのかと驚嘆したが、こちらも本気にならねば「卿は遊んでいるつもりか!」、と檄が飛ぶ。必然的に二人の剣戟は激しいものとなった。

ようやく司令官が満足して矛を収めたのはトレーニング開始から2時間も経っていた。さすがにロイエンタールの息も上がっている。とにかく満足なさったようだとベルゲングリューンはほっとした。更衣室で着ていた装甲服を脱ぎ、その一角にあるベンチに座って汗を拭いている上官にイオン飲料水のボトルを持って行った。

このような時、していたことをいったん止めてからちゃんと「ありがとう」、と言ってくださるのがロイエンタール閣下のお育ちの良いところだな。ベルゲングリューンは司令官の言葉に心温まる思いがした。お礼を言ってから手を差し出したロイエンタールに、ベルゲングリューンはボトルを恭しく渡したが―。

ロイエンタールの手からボトルがすとん、と滑り落ちた。

「あっ、これは失礼いたしました。手が滑って―」

手が滑ったのはロイエンタールだったが、思わずベルゲングリューンは自分のせいのように言うと、ボトルを拾ってもう一度渡そうとした。だが、ロイエンタールは自分の右手をじっと見て眉をしかめている。

「いかがなさいました」

「痛い」

ロイエンタールは右手を開いたり閉じたりしているが、その動きはゆっくりで、見ていると少し震えている。トレーニングの疲労のせいかな、と思う間にもその手首が真っ赤に腫れているのに気付いた。

「閣下、手首が腫れています。いつからこのように!?」

「さっきまでは何ともなかった。多分装甲服が手首を支えて保護していたのだな。ずいぶん腫れて来た。骨折とか、ひびが入りでもしたかな、ベルゲングリューン」

まるで他人事のようにロイエンタールはどことなく面白そうな声音で言った。

「したかな、ではありませんぞ。すぐ軍医を呼びましょう。ああっ、だめです!」

違和感を散らしたいのか、ロイエンタールが右手をぶるぶると振ったので、ベルゲングリューンは慌ててその手を両手に包んで止めた。ロイエンタールの白くて細い指がベルゲングリューンの肉厚の手のひらの中にすっぽり隠れた。その手は熱をもっており、運動したせいばかりではないように思われた。腫れた右手首はそれでもベルゲングリューンの手首より細かった。

「動かしてはなりません。安静、安静ですぞ。思えばお疲れなのに、このようにトレーニングなどするべきではありませんでした。きっと私が力ずくで閣下の戦斧を押し返そうとした、あの時にご無理をさせてしまったのですな。閣下はこのように細い手首をなさっているのに、非常にお強いですから、私も生半可な心持ちではお相手は務まるまいと―」

「ベルゲングリューン」

「はっ」

ベルゲングリューンはロイエンタールの手を握ったまま、自分が息継ぎもせずにべらべらとしゃべっていたことに気づいた。

「卿の言う通り、もう動かさない。だから医者に見せるというなら手を放してくれ」

「ははっ」

ベルゲングリューンは両手を自分の前に掲げたまま、ベンチの前に跪いている。自分の肉厚な手のひらの皮膚を掠めながら、ロイエンタールの華奢な手がゆっくりと抜き出され、そして左手で右手を支えるのを見ていた。

「ベルゲングリューン、医者を呼んできてくれるか」

「あっ、はいっ、失礼しました!!」

高く鳴り響く自分の鼓動は無視して更衣室を飛び出した。

 

右手首を固定され、なるべく動かさないようにと軍医に言いつけられたロイエンタールだったが、すぐにこれはなかなか難題だと気づいた。

軍務においては作戦中でもあり、事務的なことは有能な副官、レッケンドルフがやってくれるし、心配ない。(緊急のご署名が必要な文書などは只今ございません。どうしてもと言う場合のみ、お持ちしますので、どうぞご安心ください)。司令官として旗下の提督たちに指示を出す時も、もっぱら口頭で片が付く。

問題は日常の動作だ。シャツのボタンが留められないので、毎朝、被りで着用できるブラウスを従卒に準備させた。軍服のズボンはもちろんのこと、上着の前の固いホックも問題だ。食事のときナイフで料理を切ることも不可能に近い。料理を切る時の細かい前後の動きが右手に針を刺すような痛みをおこすのだ。肉などの固いものは前もって切ってもらい、左手でフォークだけで食べる。子供の食べ方のようでばつが悪いことこのうえない。彼はミッターマイヤーが、揚げたイモなどを右手に持ったフォークで食べるのを遺憾に思っていた。右手に持ったナイフをフォークに持ち代えることは行儀が悪い、とミッターマイヤーも分かっている。「なんだよ、飲んでる時ぐらい行儀悪くたっていいだろ。ほら、おまえもやってみろ、ロイエンタール、ほれほれ。行儀が悪いな~」

左手を怪我したのでなくてよかった。むろん、右手が使える方がずっとましに違いないが。いずれにせよ、人間の身体とは左右対称にバランスよく使うように作られているのだ。彼は鏡をのぞき込んで非対称な自分の瞳を見て顔をしかめた。

司令官がそのようにして不自由そうにしているのを、周りの部下たちはさりげなくフォローするように気を付けた。あからさまに「お手伝いします!」などと飛んでいくと不興を買う。怒鳴りつけたりなどはしないが、相手はむすっとして「ありがとう」と言い、手伝った者は軽々しく助力を申し出たことを後悔するような沈黙と向き合うことになる。お礼を言うだけましかもしれないが、この負傷を自分の未熟さのせいと思っている者にとって、助勢の申し出はひどくその誇りを揺るがすのだ。ここにミッターマイヤーがいたら、ため息をついて感心しないという風に首を振るだろう。

ロイエンタールはカレンダーに印をつけて、完治すると思われる日まで(左手で)指折り数えて待っている。そのカレンダーがようやく半ばを過ぎようかというころ、ロイエンタールはまた一つの難題にぶつかった。

ベルゲングリューンは司令官が旗下の提督たちへの指示を与えた後、指揮官席のシートに沈み込み、鬱屈とした表情で左手の指先を見ているのを眺めていた。どうもこのごろレンネンカンプ提督の司令官に対する態度に不遜なものを感じる。ルッツ提督がうまく気配りしてくれているが、あの扱いの難しい相手に閣下も苦労なさっているようだ。今もそのことで考え込まれているのであろう、とベルゲングリューンは司令官の苦労を思いやった。

だが、ロイエンタールが両手を目の前にかざしたので、どうやら違うかな、と思い直した。

「閣下、どうされました。お手が痛まれますか」

「ん…、いや、そうではない。少し気になってな」

同盟軍の動向について自分などには気づかぬ何かに思い当たられたか、とベルゲングリューンが身を乗り出すと、ロイエンタールは言った。

「手のな、爪が伸びて気になって仕方がないのだが、今は自分で切ることが出来ぬ。瑣末なことだとは思うのだが、こういうことは一度気になると忘れられんものらしい」

屈みこんだベルゲングリューンの耳に向かってなぜか声を落として言う。ささやかれた内容に苦笑しつつもその息を耳朶に感じて、ベルゲングリューンはまるで恥ずかしいことを聞いたかのように顔が熱くなった。しかし、実際ロイエンタールにとっては個人的な肉体問題であるし、あまり大きな声で言いたいことでもないらしい。お育ちがよいことだ、と思いつつベルゲングリューンは考えもせずに言った。

「よろしければ小官がお切りいたしましょうか」

「いやいやいや、結構だ。そんなはした仕事を卿になど頼めぬ」

ロイエンタールらしくもなく慌てたような言葉遣いで、今まで聞いたことがないほど力強く否定された。そのように拒否されて、かえってベルゲングリューンは彼にしては軽い調子で言った。

「何をおっしゃいます。戦場では失礼ながら相身互い、助けを得られるときは遠慮なく助力をお求めください。それに、伸びたせいで爪をひっかけて怪我をしてもつまりません。さっさと切ってすっきりしてしまいましょう」

ロイエンタールはその申し出にむしろほっとしたように見えた。

「では、お願いしようか」

 

二人して司令官の執務室に入り、ロイエンタールは従卒に自分の手回り品を持ってこさせた。ベルゲングリューンがびっくりしたことに、ロイエンタールに指示されて従卒がなにやら得意げに持ってきたのは、重厚さを醸し出す立派な造りの箱だった。その中に櫛、整髪剤、髭剃り道具などが陳列されて入っていた。それらの中から革張りの二つ折りのケースを取り出す。

従卒が上官に促されて退室してから、ロイエンタールはそのケースから彼の求める道具を取り出した。それは銀色に光るニッパー型の爪切りで、ケースの中には付属のやすりも入っていた。ベルゲングリューンは上官の許可を得て爪切りを手に取った。それはまさしくニッパーと同じ形をしており、持ち手と反対側の先の部分が尖って鋭い刃になっている。まさしくそこで爪を切るのだろうと察せられた。

「おお、なるほど、ペンチのようですが、ここが刃になっているのですな、なるほど」

「…卿はこれを使ったことがないのか」

「はあ、私などは軍支給のあの一般的な爪切りです。あれはなんという名前か存じませんが、こう、パチン、パチンと」

ベルゲングリューンはクリップ型の爪切りを使うときの、洗濯ばさみを手に持つときのような動きを右手で再現した。ロイエンタールは分かっているという風に頷く。

「おれも方々飛ばされた尉官の時はあれを使っていたが、軍支給のものは切りにくいし、爪の先が割れるから嫌なのだ。自分の艦を持つようになってからは、荷物に余裕があることだしこれを持ち歩いている」

ロイエンタールは右手をベルゲングリューンの前にずいっと差し出した。

「さあ、遠慮なくやってくれ」

ベルゲングリューンは思わず差し出された上官の手を左手で受け取ったが、右手にニッパーを持ったまま固まった。

まるで手のひらだけがベルゲングリューンの肉体であるかのように、すべての意識がその一点に集中した。包帯から覗く指先の白さ、置かれた手のひらのひんやりとした冷たさ。その指先の透き通る繊細さ。ロイエンタールの手の爪はもともと長さがあって細い形をしている。指先からはみ出た爪の白い部分が確かにかなり伸びており、これは気になっただろうと思われた。自分の手の爪が指に埋まったような丸く詰まってずんぐりした形をしているのを見て、この方は爪の形までおきれいなのだとしみじみ思った。

このような繊細な手の爪を、自分の無骨な手が初めて持つ道具で切るなど、まるで新雪を汚すような行為…。

「ちょっと、お待ちいただいてもいいですか。あの、予行練習を…」

じっと動かないベルゲングリューンに対してロイエンタールが眉をひそめているのに気付き、冷や汗をかいたが、いきなり本番は無理だ。ベルゲングリューンはニッパーの先を自分の左手の爪にあてがった。力加減が分からず、適当と思われるところでニッパーの握りをぐっと握った。

驚くほどの滑らかさで爪がすっぱりと切れ、切った爪が飛んで行った。

「なんと、すばらしくよく切れますな。おっしゃる通り、爪の先も割れません。いつも爪切りの後、爪の先がガサガサしていましたが、あれは道具が悪かったのですな」

「卿のそれは深爪になったぞ。おれの爪はあまり深く刃を入れすぎず、爪の先の白いところが0.5ミリくらいになるようにしてくれ」

「はっ、もう大丈夫です。もう少し練習いたします」

パチン、パチン。

この爪切りは切った爪が良く飛ぶな、と爪をロイエンタールに向けて飛ばさないようにということだけ、苦心して切る。それ以外はなかなか切りやすい道具だった。ニッパーは切り易さもさることながら、銀色の光沢がいかにも銘品と思われた。自分もこういう、ちょっとしたぜいたくな道具を持ってもいいかもしれない。もしかして、また閣下のお爪を切ることがあるかもしれないし。

左手の爪を切ってロイエンタールの爪に向かおうとしたが、上官に「右手もやってしまえ」と言われて、恐縮して右手の爪に取り掛かる。左手でニッパーを握るのは少し難儀したが、それでもきれいに切ることが出来た。

「ふむ、きれいになったな。ではやってもらおう」

ロイエンタールが参謀長の手元をのぞき込んで満足そうに言うと、再び右手を差し出した。ベルゲングリューンは雑念を追い払い、一心不乱に上官の爪をきれいな形に切ろうとする。他人の手の爪を切るとなると刃の向きが逆になるし、そもそも慣れない道具を使ってのことだったが、慎重に刃を入れていく。痛めた手首に負担にならぬよう、心を静めつつロイエンタールの手のひらをしっかり支えて切った。

左手の爪に取り掛かると、その爪の色がきれいな桜色をしており、右手よりも血色がよいことに気づいた。本来の上官の手はこのようになっているのだ。まるで白い百合の花のように細く白く美しいが力強い。きっと自分はいくつもある手のうちから閣下の手はどれだか当てろと言われたら、間違えずにあてることが出来るだろう。

「さあっ、出来ましたぞ!」

ベルゲングリューンが大きな息を吐いて安堵したように言ったので、ロイエンタールはくすくすと笑った。ベルゲングリューンのほうはそれを聞いて少し赤くなったが、言葉を続けた。

「なにかおかしなところはございませんか。やすりはかけた方がいいのでしょうかな」

「左だけ、ざっとやってくれればよい。右手は振動が響くからな」

ベルゲングリューンは指先の肉にあてないようにそっとやすりをかけた。その手を持って自分の親指の先で引っ掛かるところがないか、確かめる。

「よろしいようです。これできれいになりました」

「ありがとう」

満足したため息を伴って優しい言葉がロイエンタールの口から紡がれたので、ベルゲングリューンはどきまぎした。上官の手を押し抱くようにしてようやく絞り出すように言う。

「恐れ入ります」

ロイエンタールがベルゲングリューンに握られた手を握り返して、彼に顔を近づけて言う。

「ベルゲングリューン、頼まれついでにもう一つ頼まれてくれるか」

「はっ?」

 

 

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