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皇帝陛下の家庭教師

「こっちに行ってみますか。たぶんここからなら誰もついてこれないです」

「行ってみようよ。もしここをみんなが通れたらちょっと面白いね」

可愛らしいププッと笑う声がした。

「そんなこと言ってはだめです。あっ、気を付けて…」

「大丈夫、ほらっ、ヘイカもお通りになれた」

突然、フロイライン・バルシュミーデが座るベンチの後ろの植え込みでガサガサと音がして、小さな男の子が二人飛び出してきた。フロイライン・バルシュミーデはびっくりして俯いていた顔を上げて、男の子たちを見る。男の子たちもそんなところに人がいるとは思ってもみなかったので、びっくりしてフロイライン・バルシュミーデをまじまじと見た。

ダークブラウンのつややかな髪に葉っぱをつけた男の子が、彼より少し小さい金髪の男の子を庇うようにさっと前に出た。その後ろに立つ男の子は怖がっているわけでもなさそうで、興味津々と言った表情でフロイライン・バルシュミーデを見つめている。二人ともそれぞれ印象的な色味の違う青い瞳をしていて、真っ白できれいなブラウスと折り目のついた半ズボンを着た、天使のようにかわいい子供だった。

「あなたは誰ですか。どうしてこんなところにいるんですか」

ダークブラウンの髪の男の子はおそらく6歳くらいだろうが、その年齢の子供としてはずいぶんしっかりした口調でフロイライン・バルシュミーデを咎めた。

「あなたたちの遊び場にお邪魔してごめんなさい。一人で考え事が出来る場所を探していたら、ここが静かで良さそうだったものだから…」

ダークブラウンの子供の後ろに隠れていた子が、前に立つ子の肩をつついた。

「フェル、お外はみんなのものだもの。この人にそんなことを言ってはダメだよ」

「でも、陛…、アレク。お外だからよけいにお気をつけしなきゃいけません」

「僕が気にしない、とおっしゃったら、気にしないんでいいんだ」

フロイライン・バルシュミーデはおや、と思った。この二人はおかしな言葉遣いをする。それとも、これがフェザーンの方言だろうか。

金髪の男の子は前に出てきて、きれいなお辞儀をした。

「失礼しました。フロイライン。ヘイカはあなたがここにいることをお許しします。それで、なにを考えてたか申しあげて」

「…なんでもないのよ、気にしないで。それにしても、二人ともいつもここで遊んでいるの? この都会じゃ男の子が駆け回って遊べる、こんないい場所は他にないわね」

「そうなんです。あっちでは急に走ってはいけないとか、泥んこになってはいけないとか、やってはいけないことだらけなんです」

ダークブラウンの男の子がまた、前に出てきて答えた。おそらく、小さい男の子が苛められないように守っているつもりなのだろう。フロイライン・バルシュミーデは二人が警戒しないように、心配のために凝り固まっていた表情を和らげ、二人に笑いかけた。男の子たちもその様子を見てにっこりした。なんてかわいい子たちだろう。もし、自分が予定通り家庭教師の職につけていたら、ちょうど、同じような年頃の子供たちを教えることになっていたはずだ。

―フロイライン・バルシュミーデ、気の毒だが、先方は君を家庭教師に雇うことは出来なくなったと言っている。

―すでに契約もすんでいるのに、それは契約違反です。組合に訴えます。

―先方はちゃんと違約金を払っている。規定通りの金額だし、君としては文句もあるまい。

しかし、結局、彼女は家庭教師の仕事をまた探さなくてはならないし、違約金も無尽蔵にあるわけではない。

「…フロイライン、あなたのお名前を陛…、アレクがお聞きしています」

ダークブラウンの髪の男の子が咎めるような口調で言った。フロイライン・バルシュミーデはハッとなって物思いを振り払った。

「ごめんなさい。考え事をして…。私はマリア・フォン・バルシュミーデ。あなた方のお名前を聞いてもいいかしら」

金髪の男の子がにっこりして、ダークブラウンの髪の男の子の腕を引っ張った。

「ヘイカはアレクとおっしゃるんだよ」

「僕はフェリックスです。一緒に遊びますか」

きっとこの子たちはフェザーンの上流のお屋敷の子供たちで、フェザーンでは子供たちにこういう話し方を教育するのだろう。特に金髪のアレクと言う子はだいぶ混乱した言葉遣いをしている。自分だったらこのような話し方は、どのような階級の子供でも直させるだろうが…。

フェリックスは手に持っていた袋から、手ごろな大きさのボールを取り出した。小さな子供向けのフライングボールの練習用ボールだ。オーディンでも将来はフライングボールの選手にさせたいと、親が子供に小さなときからボールに親しませているが、フェザーンでもやはりフライングボールは人気らしい。

「やっぱりアレクもフェリックスも、将来フライングボールの選手になるの?」

その言葉に二人は真面目な顔で頷いた。フロイライン・バルシュミーデはジャケットを脱いで、綺麗に畳んでベンチにおいた。

「じゃあ、私が特訓してあげる!」

わっ、とフロイライン・バルシュミーデが裾の長いスカートを翻して、二人に向かってジャンプした。きゃあっ、と男の子ふたりは笑ってボールを互いにパスする。フロイライン・バルシュミーデはひらりとボールをカットすると、今度はアレクを味方に見立てて、フェリックスの迫る手からふわっとボールをパスした。アレクがかなりしっかりした動きでキャッチした。

「あの噴水をゴールにしようよ!」

3人は走り回った。フロイライン・バルシュミーデの周りを男の子ふたりは絶妙のコンビネーションで飛び回り、駆け巡った。若いフロイライン・バルシュミーデもさすがに、この子供たちの活発さにはついて行けない。二人はフロイライン・バルシュミーデが10メートル走るごとに、20メートルの距離を行ったり来たりしている。とうとう、フェリックスがフロイライン・バルシュミーデを振り切って、噴水に向かって走る。アレクがフェリックスの行く先にすでにいて、フェリックスからのパスを受け取ると噴水にボールをたたき込んだ。

―バシャーン!!

ちょうど噴水までたどり着いたフロイライン・バルシュミーデに、盛大な水しぶきが正面からかかった。フロイライン・バルシュミーデのブラウスはびっしょりと濡れてしまった。

「ああ~!」

男の子二人が悲鳴に近い叫びをあげた。だが、フロイライン・バルシュミーデがケタケタと楽しそうに笑ったので、二人もほっとして笑った。

「冷たい! 走ったせいで暑くなったわ! 二人ともまだ特訓する?」

「フロイライン・シュミッツは水を拭いたほうがいいよ。ヘイカがハンカチをお貸して差し上げる」

「貸してあげます、でしょ、アレク」

アレクはかわいい顔をしかめた。フェリックスにつつかれて「貸してあげます」、と言い直した。

「フロイライン・バルシュミーデはよく言いました」

フロイライン・バルシュミーデは首をひねった。

「フェリックス、どういう意味? 『よく言いました』?」

フェリックスは重々しく頷いた。

「僕は陛…、アレクのお話しの仕方が変だなと思うのだけど、どこが変か分かりません。今度僕は学校に行くから、お勉強して、そしたら僕がアレクにお話しの仕方を教えて差し上げます。それまで、誰かがアレクに教えて差し上げたらもっといいけど」

フロイライン・バルシュミーデはフェリックスがその気なら、と今の言葉遣いも正そうと思った。

「フェリックス、お友達には『差し上げる』って言わなくていいのよ。そうね、『アレクに教えてあげる』くらいでいいかな」

「アレクに教えてあげる…。なんだか変」

「そのうちに慣れるわ。それから、さっきの『よく言いました』も変ね。あなたたちにとって私は…」

フロイライン・バルシュミーデははた、と気づいた。自分はこの子たちの家庭教師ではない。自分が彼らの先生なら、『おっしゃいました』と言わせたいところだが。

「フロイライン・シュミッチェルはヘイカのお友達だよ。だから、『よく言った』!」

アレクが突然大きな声でそう言ったので、フェリックスもフロイライン・バルシュミーデも笑った。誰か大人の言葉遣いの真似らしかった。アレクも一緒になって笑った。

フロイライン・バルシュミーデは急に笑いを収めて、ハックションとくしゃみをした。彼女はぶるっと震えてブラウスの袖の上から腕をさすった。どうも、冷えてしまったらしい。

「お風邪? 大丈夫? ジャケットを羽織ったほうがいいよ」

フェリックスが心配そうに言うと、ベンチにジャケットを取りに走って行った。「あら、いいのよ―」とフロイライン・バルシュミーデが言う間もなかった。

「フェリックスは優しいのね、アレク」

「そうだよ。フェリックスは優しいし、とっても賢いんだよ。ヘイカよりずうっとお兄さんだし、ヘイカはフェルが大好きでいらっしゃるんだ」

「ヘイカ?」

「アレクのことだよ。もう5歳だから、ミッターマイヤーみたいに『私』っておっしゃるつもりだけど、いつもお忘れになるの」

フロイライン・バルシュミーデは眉を上げて、アレクのかわいい丸々とした赤いほっぺたの上の青い瞳を見つめた。この子ときたら大変な言葉遣いだ。この子の親御さんはいったいどうしたのだろう。

フロイライン・バルシュミーデはしゃがんで、アレクのふわふわとした金髪の巻き毛を撫でた。アレクはびっくりして彼女を見たが、やがてにっこりした。

「ヘイカはフロイライン・バルシュミーツがアレクをなでなでするのをお許しします」

あらあら。フロイライン・バルシュミーデは自分の職業意識にこだわるのをやめた。

「ありがとう、アレク」

その言葉にアレクがパッと笑ったので、その笑顔のあまりのかわいらしさに思わず、フロイライン・バルシュミーデはアレクを抱きしめた。アレクがキャッキャッと嬉しそうに笑った。

「ヘイカもフロイライン・バルシュミーデにありがとうとおっしゃるよ!」

あら、やっと名前を正しく言ってくれた。フロイライン・バルシュミーデは嬉しくてアレクを抱き上げようとした。

「動くな。不埒な女め。それ以上動いたら撃つ」

上の方から男の声がして、フロイライン・バルシュミーデの後頭部に何か固いものが当たって、ゴリッと音がした。フロイライン・バルシュミーデはアレクを抱いたまま、芝生の上に膝立ちして固まった。彼女はいったい何が起こったのか分からなかった。混乱した思考の中で、とうとうあの人に捕まったのだ、もう自分はおしまいだと思った。

軽い足音がして、フェリックスが駆け寄るのが分かった。

「フェリックス、駄目よ! 来たら危ない!」

しかし、フェリックスは止まらず駆け寄ってウワーン、と泣きながら言った。

「兄さま! ばかあ~、フロイライン・バルシュミーデはお友達なの!」

その声を聞いたアレクも火がついたように泣き出した。

「ハインリッヒのばかあ~」

小さな子供の泣き声が公園中に響き渡った。フロイライン・バルシュミーデは頭に押し付けられた固いものが、数瞬のためらいの後に離れていくのが分かった。彼女は恐る恐る泣いているアレクの金髪から顔を上げて、後ろの方を見上げた。

ブラスターを掲げた士官学校の制服を着た若者が、こちらを戸惑った表情で見下ろしていた。よかった、彼ではない―。

彼女の眼の中に光が入ってちかちかしたと思ったら急に真っ暗になった。頭がふわっとしてフロイライン・バルシュミーデはアレクの足元に倒れた。

フロイライン・バルシュミーデは小さな手が彼女の頬を撫でるのを感じた。

「大変、フロイライン・バルルミーデはきっとお病気だよ。ハインリッヒ、お部屋まで運んで」

「いや、しかし、陛下…」

「これは陛下の命令です!」

「…いけませんよ、陛下。そういうことはおっしゃらない、とお母上様とお約束したでしょう」

アレクがうう、と詰まった。フェリックスが助け舟を出した。

「兄さま、本当にフロイライン・バルシュミーデは悪い人じゃないよ。だから、陛下のためにお部屋に運んであげて」

ハインリッヒ兄さまはため息をついて、「連れて行ったら部屋に閉じ込めればいいか」、とつぶやき彼女を抱き上げた。

あら、まあ、この人までおかしな言葉遣い。やっぱりこれがフェザーンの方言なのかしら。フロイライン・バルシュミーデはぼんやりとした意識の中で考えた。

 

 

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