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​副官の務め

総司令官ロイエンタール上級大将の副官、レッケンドルフ大尉が扉を入って行くと、思いがけず上官はいつもと違ってデスクにはおらず、窓辺に立って外を眺めていた。
副官たるもの、軍服の背中に漂うその静かな佇まいから、上官の変化にすぐに気付くべきだったのだ。
「おはようございます、閣下。御髪を整えましょうか?」
副官がためらっていては仕事にならない。内心の違和感を振り払って声をかけた。
「おはよう」
上官は静かに振り返りまっすぐにレッケンドルフを見た。その稀有な瞳と目があった途端、レッケンドルフの心臓は拍子を外して飛び跳ねた。
いくら美丈夫の上官とは言え、昼夜離れずお側近くで過ごしてきたのだ。いい加減慣れても良いはずだが、その朝、レッケンドルフは初めて上官にお目見えした時と同じ衝撃を経験した。
その鋭い視線はレッケンドルフの心臓を貫き、心の中まで見透かすようだった。
―おかしいな、昨日までの閣下とまるで別人のように感じられるなんて?
よりによって重要な会議があるその日の朝に限って、上官はいつも以上にレッケンドルフの落ち着きを乱す雰囲気を醸し出しているのだった。
「どうした。まるでおれを初めて見た新兵のような間の抜けた面をしているぞ」
レッケンドルフの心を読んだかのような、ちょっと皮肉を含んだ言い方は全くいつも通りだった。
―いや…、閣下がこのように皮肉をおっしゃるのを聞くのは久しぶりのような…?
そんなはずはなかった。皮肉と冷笑は美麗な瞳と同様にオスカー・フォン・ロイエンタール上級大将について回る特徴の一つなのだ。
だが、ここのところ、時々上官が上官らしくない様子を見せることがあった。そもそも、毎朝このように副官であるレッケンドルフが上官の髪形を整える、というのもそれまでの戦場では経験しなかったことだったのだ。
それを上官の親しみの表現と見たのはレッケンドルフの身贔屓だったのかも知れない。
従僕のように身の回りの世話をするのは副官の職務に含まれていない。だが、まるで地球時代の王が臣下に着替えを手伝わせたように、それもまた上官たるロイエンタールの信頼の現れと思い、逆らいもせず引き受けた。
むしろ、起きたばかりの寝ぼけ眼の上官と朝のひと時を共にできるのは、レッケンドルフだけに許された特権だと思われた。
だが、今目の前に立つ上官は寝起きのぼんやりした様子などは露ほどもなく、どこにも隙は見いだせなかった。
―いや、昨日までの閣下に隙があったわけではないが…。もしかして体調が優れずにいらっしゃったのだろうか…?
本調子ではなかったのは確かだろう。このような瞳の輝きを久しぶりに見た気がする。
レッケンドルフは内心の戸惑いと、落ち着きを失った鼓動を無視して言った。
「閣下、朝食を先にお取りになりますか? または、御髪を整えましてからにしましょうか? それとも…」
上官は窓から射す人工の淡い陽光を背にして、後ろに手を組んでレッケンドルフの言葉を聞いていた。己の副官を初めて見るもののように面白そうにまじまじと見ている。
注がれる強い視線を感じて、レッケンドルフは久しく忘れていた気後れを感じた。徐々に声が小さくなっていく。
言葉の途中で口を閉ざしてしまった副官を、ロイエンタールはちょっと首を傾けて横目で見た。思いがけないことに非常に艶めかしい仕草で、それを見て心臓が再び拍子を外した。
「それとも? 朝食と、整髪と…。おれの今朝のメニューには他に何がある?」
「は…、あの…、最初にお伝えすべきでしたが、ローエングラム元帥閣下及びミッターマイヤー閣下よりほんの30分前に通信がございました。閣下の端末にもお送りしております。後ほど本日の会議のご予定について再確認させていただければ…」
ロイエンタールは頷いた。
「ああ、通信はさっき見た。このことについておれも少々検討したい。だが、まずは髪を整えよう。それから朝食を取りながら会議の話を詰める」
承知しました、と言いかけた言葉は口の中でもごもごと留まった。上官が軍服の上着の前ボタンを上から順に外し、滑らかな動きで上着から袖を抜いたからだ。目を射るような真っ白なシャツ一枚になって上着をクローゼットのハンガーに掛けると、さっとデスクの椅子を引いて腰掛けた。
そうして、さあ卿の番だと言わんばかりに手を広げて副官に眉を上げて見せた。この珍しいおどけた様子にどうやら上官は機嫌がいいらしい、と察せられた。
「閣下、今日は大変な日になりそうですのに、楽しそうでいらっしゃいますね」
レッケンドルフは整髪料や櫛を手元に準備しつつ、上官の気楽な雰囲気に思わず言わずにはいられなかった。
「大変な日? 会議のことか? そうだな…」
今日の会議で自身の参謀長の運命が決まることなど、大した重大事ではないような口ぶりだ。
しかし、如何なる戦場においてもこの上官が慌てたところなど見たことがない。会議であろうと戦場であろうと上官がいつも通りを貫いているのならば、これは吉兆だ。
レッケンドルフはバスルームから持ってきたタオルを上官の広い肩に掛けた。シャツの上からでも分かる引き締まった肩に続く首筋はまっすぐに伸び、その滑らかな肌の白さと襟足のほとんど黒いダークブラウンの髪とでくっきりと明暗を分けている。背もたれに背を預けずに座る様子に、レッケンドルフはふと、子供の頃の家庭教師のしつけの言葉を唐突に思い出した。
―だらしがなく椅子の背もたれに背を預けてはいけません。背もたれはあなたが楽をするためのものではありません。
子供の頃は理不尽に思っていたが、いつしか自然にできるようになった。だが、この上官はそのような怠惰さとは無縁だったに違いないと思わせた。
上官の柔らかい繊細な髪は櫛を入れると緩やかに分かれ、レッケンドルフの手の中できれいに整った。丹精込めて宮廷マナーを仕込んだかつての家庭教師は教え子が軍隊で理容師の真似をしていると知ったら、喜ぶだろうか。
「お待たせしました。出来ました」
レッケンドルフが複雑な思いを飲み込んでそう言うと、上官は振り返って頷いた。
「ありがとう」
バスルームに片付けに行っている間に上官は再び上着を羽織ったらしく、レッケンドルフが戻るといつものきっちりとした様子でデスクに座って待っていた。
朝食を取りながらいくつかの報告が済むと、上官はカップに残ったコーヒーを飲み干してから言った。
「会議は時間を早めて10時より開く」
突然の通告に驚いたが、会議の準備はすでに整っているのだから慌てることはないと落ち着つきを取り戻した。
「承知いたしました。それではベルゲングリューン中将閣下にはそれより早く…、9時ごろおいでいただくようにお伝えいたしましょうか」
上官は首を振った。
「いや、ベルゲングリューンには10時に会議場に来るように伝えればよい」
「しかし、念のため早めにお出でいただき、昨日打ち合わせたことなどを再確認した方が…」
ロイエンタールはさらに首を振った。
「そのことだが、参謀長についての釈明は取りやめる」
「えっ…。まさか、参謀長閣下を切り捨てられるおつもりですか…!?」
思わず叱責するような強い口調で言うと、ロイエンタールが色違いの瞳をぎらりときらめかせたので、レッケンドルフは首をすくめた。
「いろいろ骨を折ってくれた卿には悪いが、おれは考えを改めた。これまで協議した方法は昨日までであれば有効だったが、今朝の元帥閣下とミッターマイヤーからの通信の内容を考えあわせるに、悠長に構えている時間は無くなった」
「どうなさるおつもりですか…!? 参謀長閣下はあれほど閣下のために身を粉にしておいでというのに、それをお見捨てになるのですか!?」
いつも感じる参謀長に対するそこはかとない対抗意識はどこへ行ったのか。何故、参謀長のために上官に盾突き、このような言葉を投げつけているのか。この征旅の間、参謀長には何度か煮え湯を飲まされた。だが、閣下に心から仕えていることは真実である。その忠誠心を軽々と扱って欲しくなかった。
それはロイエンタールは万能であってほしいという願望のなせる業だろうか。
だが、上官は表情を変えずに淡々と言った。
「ベルゲングリューンを捨てる気はない。そもそも奴には何の落ち度もない。あるとすれば愚かな者どもに付け入る隙を与えたことくらいか。いいか、卿は会議中、何があろうとも冷静沈着な態度を心掛けろ。卿であれば難しいことではなかろうが」
「どのようなお心づもりでいらっしゃるのか、お教えいただければ間違いなく冷静でいることをお約束いたしますが」
ロイエンタールは会議進行の手順について副官に指示した。頭に血が上っている提督たちにまるで関係ないと思われる要塞内の整備の報告をして気勢を削ぐ。その後、かなたの元帥閣下からの通信を披露して皆の意識を戦場へ向ける。
「三日後に演習を行うから早急に計画を立てるようにと奴らを急き立てるんだ」
これらの全く関係のない事柄で議事を終始させれば、必ずや、ベルゲングリューン参謀長の進退はどうするつもりだ、と言い出すものが出てくる。
「それに対してご自身で釈明をされるのですか…?」
「釈明などする必要はない。その辺りはおれが上手くさばくから、卿はベルゲングリューンに非はないという一点のみに注意して、おれが何を言おうとも口裏を合わせろ」
「…参謀長閣下への非難の矛先を逸らせるという閣下の狙いは分かりますが…。釈明はなさらないということは、もしや、問答無用でこの問題のけりをお付けになられるおつもりですか」
「そうだ。ベルゲングリューンは告発された張本人だし、演技することは出来まいから奴には言えぬ。会議中は卿の機転を頼りにしているぞ」
はっきりと信頼を表す言葉を聞いて、不安は忘れて腹の底から力が湧いてくるのを感じた。戦の最中であれば参謀長に先んじられるのは致し方ないが、こういった場合にロイエンタールが頼みにするのは副官なのだ。
「ご信頼ありがとうございます。閣下のお望みどおりにいたします」
ロイエンタールは頷いた。
「では、あと30分くらいしたら執務室へ行く。それまでに簡単でかまわんから会議のアジェンダを作成しておいてくれ」
「承知いたしました。失礼いたします」
端末を抱えて退室しようとすると、背後から「そうだ、レッケンドルフ」、と声がかかった。
振り向いて視線が合うと、上官は相変わらず面白がっている表情でにやりと笑った。
「ここのところ調子が悪かったが卿のお陰で持ち直した。礼を言う」
「とんでもございません。やはりお加減がお悪かったのですね。何もお手伝いできませず…」
言われてようやく気づく自分を不甲斐なく思いながら、レッケンドルフは答えた。上官は少し真面目な表情になって首を振った。
「何を言う。通信に代わりに出たり、ベルゲングリューンとおれの間に立って折衝したり、何かれと気遣ってくれたではないか」
そう言うと、ロイエンタールは前髪をかき上げてから胸の前で両手を広げた。
「この通りもうだいぶ良くなったゆえ、髪を整えるのは今日限りで良い。これまでご苦労だった」
残念ではない、と言ったらうそになる。上官と気軽なおしゃべりをしながら過ごす、毎朝の短い儀式…。それがもう経験できないのは非常に悲しむべきことだ。だが、それがロイエンタールの復調の証であるならばレッケンドルフとしては歓迎せざるを得ない。
レッケンドルフは咄嗟に上官に答える言葉を見つけられず、敬礼してから退出した。

突然の会議の変更、体調不良を隠していた上官、もう毎朝上官の整髪をする必要がなくなったこと…。様々なことを考えて、前もって上官のためにもっと何か出来たのではないかとレッケンドルフは少し落ち込んだ。
だが、再び執務室で上官と会議の打ち合わせをする頃にはすっかり自信を取り戻していた。完璧主義は積極的な任務遂行の妨げにしかならない。
―とにかく、自覚はせずとも閣下のお手伝いは出来ていたようだから、良しとしよう。後悔するよりこれから閣下のためにいっそう努力をするのだ。
会議中はロイエンタールの存在を全神経で感じつつ、自分で作成したアジェンダ通りに議事を進めた。前もって上官の意図を知っていたのだから、不安などなかった。
だが、会議場に入った時、扉を開けてロイエンタールを先に通した際にふと、普段と違う香りが漂ったのが気になった。上官が以前着けていたヘアオイルの香りだった。
―この大事な会議にいつもと違う香りを着けられるとは…。
ヘアオイルの香りは強くはないが、心落ち着く香りとは言えない。香水の類にアレルギーはないし、プライベートでは爽やかな香りのコロンが好きでよく身に着ける。だが、このヘアオイルの匂いを嗅ぐと、心臓の鼓動が早まる気がするのだ。
―動悸がするなど、よほど強い成分が含まれているのか?
オイルの瓶にオーガニックと銘打たれてあったから有害な成分ではないだろう。だが、一番落ち着きが必要な時にレッケンドルフの心臓は安定感を失っていた。
表面上は上官に習って鉄面皮を貫いたが、何故か会議が進むにつれてそれも難しくなって来た。上官はいつも通りの無表情でまっすぐ背中を伸ばして椅子に腰かけている。その向こうで、参謀長が何度か身じろぎする様子が視界の端に入り気が散った。
―さすがにベルゲングリューン閣下は落ち着いた気分とは程遠い心境だろうな。
もしかして、参謀長もこの香りを嗅いで動悸がして落ち着きを失っているとしたら、閣下は罪なお人だと思った。

その後の進展を考えあわせると、ロイエンタールもベルゲングリューンもこの刺激の強い香りに支配されて、過激な行動をとったのだと解釈できそうだった。
到底耐えきれなさそうな一触即発の局面。レッケンドルフは上官の冷静な仮面があれほど揺らいだ場面を見たことがなかった。戦場で乱戦の場合ですら、どこかに余裕を残しているロイエンタールなのだ。
あのロイエンタールが動揺して感情を爆発させているところなど、初めて見るものだった。上官も時には感情のままに行動することがあると知った。
それは直視するには眩しすぎて、だが同時にその激しさに魅了された。
上官の冷静な仮面を剥いだのが参謀長の必死の行動だったのだと思うと、少し悔しいような気がする。自分とロイエンタールとの完璧に調和した空間に乱入された気がした。
ロイエンタールは会議場から執務室に戻った途端、大きく息を吐いてソファにどさりと腰掛けた。手足を投げ出して後頭部をソファの背に預けて、いかにも疲れ切った様子だ。感情を出し切った時には常人のようにこの上官も弱る時があるのだ。目をつむって顔を仰向けているが、心なしか青ざめている。
レッケンドルフは何というべきか掛ける言葉を失っていた。ふと一つ、すべき事柄を思いついたが、それが副官として適切かどうか判断するいとまを与えず行動に移した。
総司令官のデスク脇のキャビネットの引き出しからウィスキーのボトルとグラスを取り出し、それを両手に持って上官がいるソファに戻った。
次はどうするべきか? ソファの上官の隣に座ると、ふわりとあの濃密なヘアオイルの香りがした。グラスをローテーブルに置いてウィスキーを指一本分注ぐ。
ロイエンタールがじっとウィスキーを注ぐ手元を見ているのが分かった。
空気に重いアルコールの香りが漂って、その香りを嗅ぎながら何も言わずにロイエンタールにグラスを差し出した。
グラスを受け取るとき、ロイエンタールの指がレッケンドルフの手に触れた。ひどく冷たい指で、はっとして上官を見ると色違いの瞳と目が合った。
湖のように澄んだ瞳と、その対照をなす黒ダイヤのような瞳が驚くほど輝いていることに、改めて軽い驚きを味わった。
ロイエンタールはグラスを口元に持って行き、ゆっくり一口ずつ口に含み、味わうように飲んだ。半ばまで飲んだところでほんの一瞬、舌先を出して唇の端を舐めた。アルコールによって潤った唇は濡れて艶を増していた。
ロイエンタールがため息をついてちょっと俯いたので、輝く瞳が長いまつ毛の下に隠された。レッケンドルフはずっとその瞳を見つめていたことに気づいた。
ロイエンタールの陶器のような白い頬に少し赤みが戻っている。手の甲でちょっと押さえるようにして唇の端を拭ったのを見て、レッケンドルフはハンカチを取り出した。
濡れた赤い唇にほとんどハンカチが触れた時、はっと自分を取り戻した。身を乗り出していたのを慌ててのけぞらせて、焦るあまりハンカチを取り落した。
膝の上に落ちたそれをロイエンタールは拾って、自分の口元を拭った。
労わりの微笑みか、あるいはからかいの嘲笑か―。何か名状しがたい表情を浮かべて、ロイエンタールはハンカチを差し出した。
上官の手に触れないように、レッケンドルフはハンカチを受け取った。唇は拭う前よりも艶を増して、柔らかそうに見えた。
その誘うような濡れた唇に唇を重ねれば、見た目通り柔らかいか確かめることが出来るだろう。唇の皮膚に舌を走らせ、舌先をその口内に差し入れればウィスキーの香りを味わえるだろう。
ロイエンタールが残ったグラスの中のウィスキーをすべて一気に飲み干した。喉仏が動いてごくりと飲み込むと、いつもの優雅さとは程遠いふいごのような大きなため息をついた。
「レッケンドルフ、ベルゲングリューンに連絡を取ってここへ来るよう伝えてくれるか」
目の前の唇が開いて、深みのある優しい声が紡がれた。
「承知しました」
レッケンドルフはほっとしてソファから立ち上がった。デスクの上のビジフォンを操作しようとして指先が震えているのに気付いたが、無視した。

 

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