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​副官の務め ~承前~

総司令官幕下の提督たちはそれぞれが手持ちのアルコールやつまみを持ち寄って、参謀長の私室に集まっていた。
レッケンドルフが酒席に現れると、厳格なはずの提督たちはすでに酔っぱらっていた。
「皆さん、閣下からの差し入れは召し上がりますか?」
両手にワインの瓶を持ち、後ろに料理の大皿を掲げた従卒を従えてレッケンドルフが言うと、提督たちはわっと拍手をして、「食う、食う!」、「さすが艦隊一使える男だ!」と騒いだ。
苦笑して従卒に料理をテーブルに置くように指示すると、ソファに居並ぶ提督たちの間に座を占めた。
「レッケンドルフ大尉、今夜は無礼講だ。かしこまって座ってないで手酌で飲んで、料理も自分で取れ」
気のおけぬ仲間うちでの無礼講ゆえ酒席には提督たちに給仕する従卒の姿はない。ディッタースドルフが促したので、レッケンドルフは頷いた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」
「食え! と言ってもありがたい閣下の差し入れを持ってきてくれたのは卿だったな!」
レッケンドルフはワインをグラスに注ぎ、料理を皿に盛って、笑い話に興じている提督たちを眺め渡した。普段は厳しい表情の参謀長まで大声でしゃべり、笑っている。大皿の料理は瞬く間に賑やかな提督たちの胃の中に消えていった。
昼間、上官のビジフォンに応じたのはディッタースドルフだったが、参謀長はそのことを詫びる風でもない。恐らくすっかり忘れているのだろう。参謀長が参上できない旨を伝えると、上官は瞬時に表情を消した。慌ててディッタースドルフが応対したこと、演習の計画案を建てるためだと説明すると、苦笑して「分かった」、と言った。
―あの返事を聞いて閣下は落胆されたに違いない。あんな状況になったのだから、すぐに参上して閣下に手を掛けた無礼をお詫びするべきなのに…。あんなに閣下を動揺させて、その元凶たる張本人はここで大酒食らって馬鹿話に興じている…。
上官は今頃、私室に籠って一人で昼間の出来事を反芻しているに違いないと思うと、参謀長に対するいら立ちがむかむかと胸を焼いた。今朝、参謀長を庇った自分の行動を思い出して、余計に腹立たしくなった。
その参謀長が急にきょろきょろと視線を泳がせて、まるで初めてこの部屋に入ったかのように周囲を見渡した。何かを探す風だったが、「ああ、あそこにあったのか。もう11時か」と言ったので、時間を知りたかったらしい。太い手首にしている腕時計が見えたが、そのことは忘れているようだ。
「もうお開きにする、卿ら出ていけ」
「何をおっしゃるやら、参謀長どの。これから、これからですぞ!」
提督たちはわっとそれぞれ手を伸ばして参謀長を座らせようと引っ張った。参謀長はうるさそうにして、何か言おうと口を開けたり閉じたりしていたが、ようやく大声で言った。
「おおお、お、俺は、閣下の元に伺わなきゃならんのだ…!」
「まあまあまあ。さすがの閣下も相手がいなけりゃもうお休みですよ。かつてイゼルローンにいた美しい女性たちのことを思うと、寂しい限りですなあ…」
「寂しくされているなら、なおのこと伺わんと…」
何を言うつもりかとどきりとしたが、酔っぱらった提督たちは何も変に思わないようだった。
「閣下ならお一人でもすごい優雅にお過ごしだろうな…。先だっていただいたウィスキーがこれまたすごいやつでな…。それをすごい豪華な部屋でお飲みになるんだ」
アルコールで脳がふやけたのか、ディッタースドルフが『すごい』を連発して称えた。
「差し入れのワインも美味いですよ。前線でこれほどの酒が飲めるとは思ってもみなかった。閣下のお陰ですね」
シュラーが応じてその言葉にゾンネンフェルスが頷くと、バルトハウザーが差し入れのワインが入ったグラスを高く掲げた。
「我らがロイエンタール閣下の青い瞳に…、そして黒い瞳に…!」
提督たちがその声に唱和してグラスを掲げたので、席を立とうとしたはずの参謀長まで唱和して乾杯した。
グラスの中身を空けてから、ディッタースドルフが続けた。
「ああ…。閣下がここにいらっしゃったらなあ。昔はよく俺たちとも飲んでくれたものだが。あの方がお側にいるとこう…、腹の奥がむずむずして甘酸っぱい気持ちになるんだ」
「吐くならバスルームはあっちだ」
「これしきの酒で誰が吐くか。ああ~、閣下がお側にいるだけで胸の中がいっぱいになって、鼓動は早くなるし、手には汗がにじんでくるし―」
「悪酔いしてるな。それか、女の子が必要だな」
「あのな…! 今、このイゼルローンに女の子がいたら閣下のコロンの香りを嗅いでムラムラしたりするか! くそ…! あの方がここにいたら俺は…」
昼間、閣下のソファで起きた出来事を思い出して、レッケンドルフの心臓は飛びだしかけた。参謀長までがワインを口から噴き出した。
提督たちも盛んにブーイングの声をあげたので、けしからんと思ったのは自分だけではないらしい。だが酔った提督たちの非難は別の意味だった。
「閣下を卿の穢れた妄想の相手にせんでくれ…! 許しがたいぞ!」
「そうだ、そうだ、閣下は卿一人のものではない…! 代わりに誰か卿の相手をしてくれそうな若い兵でも探しに出もいけ…!」
「そんな酔狂に付き合ってくれる奴はなかなかおらん…」
「おいおい、試したことがあるのか…」
もうこれは酔っていない方が損だと思い、レッケンドルフはワインを盛大に継ぎ足した。参謀長も同様に思ったらしくワインをがぶ飲みしているが、顔色が真っ赤なのでやめた方が良いのではないかと、ふと心配になった。


陽気な空気の中で男たちが羽目を外して騒ぎ、レッケンドルフも何がおかしいのか分からぬままに笑っていた。酒席は女性の姿が影も形もない戦地で古来から如何に兵士たちが苦労してきたかと言う、興味深く深遠な話題で盛り上がっていた。
気付くと参謀長が深刻な表情をして黙り込んでいる。いつもは血色の良い日に焼けた顔が心なしか青い。さっきは真っ赤だったのに極端な変わりようだ。
「大丈夫ですか、ベルゲングリューン閣下。顔色が悪い」
「卿は…、卿は…知っていたか、その…、女性がいない時に…」
何を言い出すのかとレッケンドルフは眉をひそめた。
「あなたは任官以来どちらにいらっしゃったのですか。軍にいてそういう噂の一言も聞いたことがないとおっしゃるおつもりですか」
中将閣下に対する口の利き方を忘れて投げつけるように言った。驚いたことに無礼な言葉に参謀長は頷いた。
「いや…、噂は聞いていたが現実のこととは思っていなかった…。そもそも、男同士でどうするんだ」
「想像つきませんか」
馬鹿々々しくなって突き放すように言うと相手は再び真っ赤になったので、何も知らないわけではなさそうだと思った。
「まあ、想像はつくが。その…、いろいろ触ったりなんだりするのだろうが、最終的には…。そのう…、女性相手とは勝手が違うだろう…」
まるで処女のように手の中でグラスを回してブツブツと言う。士官学校以来の悪戯心が湧いてきて、レッケンドルフは参謀長の真横まで尻を動かして間を詰めた。
「女性相手だったら最終的にはまあ、入れるわけですよね」
「う…、うむ」
「男相手でも同じですよ、入れるんです」
「入れる…? だ、だが…男にはそのような場所は」
「人類共通の部位がありますでしょうが」
参謀長は真剣に考え込んでいる。まさか、本当に分からないはずがあるだろうか? 噴き出しそうになりながら、ここで笑っては台無しだと表情を引き締める。
「…そ、それは痛いのかな…?」
分かっているのだろうか? だが探りを入れながら聞く様子から、推測しつつも正確には理解出来ていないと思われた。じわじわと愉快な気持ちがアルコールの熱と共に腹の中に広がっていった。
「そうですね、入れる方は気持ちいいだろうことは簡単に想像がつくと思いますが」
「う、うう」
唸って参謀長がひどく真っ赤になった。その変わりやすい表情は見ていて愉快なことこの上ない。
「一方、受け入れ側としましては、もともとそのための場所ではありませんから、不用意に攻め込まれますと非常に辛いということはご理解いただけますかと」
「ううむ…痛い…だろうな…」
「よって入れられる方は強固な忍耐を強いられる訳です。それだけ相手に対して譲らなくてはいけないのですから、並大抵の覚悟ではありません」
「ううむ…そうだろうな…」
参謀長が真っ青になって真剣な表情で手の中のグラスをもてあそぶので、かえって気の毒になって来た。戦場での豪胆なイメージとは裏腹に、随分子供っぽい所もあるようだ。自分の言葉の影響力を和らげるかのように、レッケンドルフは優しく付け加えた。
「だから、相互に信頼関係がしっかり構築されていれば問題ないのです」
参謀長がはっとしたように顔をあげてレッケンドルフをまじまじと見返した。あまりに真面目な表情なので、レッケンドルフは気恥ずかしくなってきた。
―今にも恋愛相談でも始めそうだ…。
だが、参謀長が口を開く前に、新しく封を開けたワインのボトルを手にしたバルトハウザーが二人の間に割って入った。
「ほらほら、二人ともこのワインを飲みたまえ。これもべらぼうに美味い。さすが閣下のお見立てだ」
3人で閣下の華麗なる『皮肉と冷笑』に捧げて乾杯すると、レッケンドルフは何を話していたか忘れてしまった。

ソファの上でバルトハウザーが眠り込んでグラスを倒してしまい、それを合図にお開きとなった。シュラーとゾンネンフェルスが僚友を助け起こして肩を貸した。部屋の主のベルゲングリューンはブツブツ言いながら自分のデスクで何かを探している。

「ここにあったか」、とようやく目当てのものを見つけたらしく、先ほどから目の前に置いてあったファイルを手に取って読んでいる。非常に真面目な表情なので、酔っぱらっているようには見えなかった。
「よしっ…」
参謀長はそう呟くとファイルを閉じて、立ち上がろうとしたが、どうやらどこに足があるか分からないらしい。立ち上がれずに椅子の上でじたばたしているのでレッケンドルフは手を貸しに行った。
「ベルゲングリューン閣下、お休みになりますか」
「いや…、これを…このファイルをロイエンタール閣下にお渡し、しし、してから…」
そして、レッケンドルフが差し出した手を払って「酔ってないぞォ」と言うので、ため息をついて参謀長を見下ろした。
参謀長はデスクに手を突いて腕の力だけで身体を持ち上げようとしていた。椅子に浅く腰掛けて背もたれにすっかり寄り掛かった体勢では、立ち上がるのは難しいだろう。
―椅子の背もたれに背を預けてはいけません。背もたれは…。
何故この言葉を再び思い出したのだろう。参謀長が椅子に掛ける姿にはどことなく既視感があった。
―いつだったか、閣下もこのように座っていらっしゃったことがあったような気がする…。
この征旅の間は上官ばかりでなく、参謀長とも長い時間を共に過ごした。少しアルコールに浸かったレッケンドルフの脳内で、ロイエンタールとベルゲングリューンのシルエットが混じり合い、記憶の中で一つになってどちらがどちらか分からなくなった。
「レッケンドルフ、俺も手を貸す、そっち側の腕を持ってくれ」
ディッタースドルフが手伝いを申し出て、二人して参謀長の脇に手を入れて椅子から立たせた。
「よいしょっ…」
参謀長は自分で威勢のいい掛け声をかけると、ちゃんと二本足で立ち上がって、思ったよりしっかりした足取りで鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。
「…大丈夫ですか―」
呼びかけに口笛が答えたかと思うとそのまま行ってしまったので、ディッタースドルフと思わず顔を見合わせて苦笑した。この提督は他の僚友より酒が強いのか、レッケンドルフ同様あまり飲んでいなかったのか、いつも通りの様子をしていた。
「皆、行ってしまった。レッケンドルフ大尉、どうだ少し俺の部屋で休んでから帰るか?」
「いえ、もう遅いですしこれで…」
指を一本出して、ディッタースドルフはそれを顔の前で振った。
「ちと、卿と話したいことがある。うまいブランデーを飲ませてやるから来い」
仕方なくディッタースドルフの後について行った。

ブランデーは口実で、話したいことがあるという方が本筋だろうと思っていたが、ディッタースドルフは本当にブランデーを出して来た。ありがたくグラスを受け取り一口飲むと、その濃厚な風味に思わずため息をついた。
「さっきは随分と参謀長をからかっていたな」
聞いていたのかとレッケンドルフは苦笑して手を振った。
「酔った上でのくだらないおしゃべりです。ご容赦を」
「…念のため聞くが、本当に卿が言う通りだと思ってるわけではないだろうな」
レッケンドルフは肩をすくめて答えた。
「古来からあることらしいですからね。両方にとって良いものでなければ何千年も前から行われていたはずがありません」
それを聞いたディッタースドルフは笑って一人がけの椅子に沈み込んだ。
「なるほどな。しかし、あんなことを言って参謀長をけん制しているつもりか?」
「…なんのことでしょう」
空とぼけて言うのを無視して、ディッタースドルフは続けた。
「いくら朴念仁の参謀長とは言え、閣下がその気になればすぐに真実に気付くだろう。卿が参謀長を閣下から遠ざけようとしても、上手くいかんだろうな」
レッケンドルフは黙ってブランデーを口に含んだ。
ディッタースドルフもしばらく黙って酒をすすっていたが、やがて「卿は参謀長殿のことをどう思っている」、と聞いてきた。
「…告発された件は閣下のお陰で無事…」
「あの馬鹿げた告発のことじゃない。閣下の副官として、参謀長をどう思うか卿の意見を聞いているんだ」
強い語気で問う真意を測りかねたが、レッケンドルフは正直に思うところを答えた。
「参謀長殿はこの征旅においてロイエンタール閣下のご信頼をいっそう得られたようです。一時は不安に思いましたが、今はベルゲングリューン閣下が参謀長で良かったと思います」
「なぜそう思うんだ」
「私はいつでも閣下のお役に立つ自信があります。参謀長であろうと私の能力が劣っているとは思いません。参謀長の方が軍歴も長く経験もありますから、戦場では一歩譲るだろうことは否定しませんが…」
思いがけないことを聞いたと言いたげにディッタースドルフが眉を上げた。レッケンドルフは会議場での情景を思い起こしながら、続けた。
「ですが、やはり私はあの方のようには出来ない。閣下にいざということがあったら、私の足はすくんでしまうでしょう。ですが、きっと参謀長は何も考えずに閣下を助けに飛び込むでしょう」
「いざという時か…。その時には参謀長も閣下の側にいるだろう。閣下をお支えするのは参謀長に任せておいて、卿には卿の出来ることをすればいい。それが適材適所というものだろう、違うか」
ディッタースドルフはレッケンドルフの考えを一蹴した。
「俺などは閣下のご様子をお側で確かめることすらできない。出来ることと言えば俺の艦隊を率いて閣下の指令を忠実に遂行し、いざとなったら盾になるだけだ」
グラスを置くとレッケンドルフをまっすぐ見てディッタースドルフは厳しい声で続けた。
「卿が出来ないことを参謀長がやる。逆もしかり。閣下のためを思えばそれでいいんだ。すべて自分でこなそうとするなど、俺から見たら贅沢の極みだ」
レッケンドルフは少しうつむいて、グラスの中でブランデーが光を受けて琥珀色に輝く様子を見ていた。ディッタースドルフの言う通りだが、人は自分にないものを求めるものだ。
押し黙るレッケンドルフを見て、ディッタースドルフはため息をついた。
「まあ、気持ちは分かるよ…。今日の参謀長の様子を見て、俺もあのように出来るだろうか、と考えないではなかった。だが、閣下のためにすべてを投げ出すというのは、限られた人間だけに許された特権らしい」
「…我々には許されていないのですか」
「残念だがな」
レッケンドルフは苦笑してグラスに残ったブランデーをゆっくり飲み、小さくため息をついてから立ち上がった。
「帰るか? 帰りにくいようだったら今夜はここにいてもいいぞ。慰めてやろうか」
「ご親切にどうも。明日も早いですからお言葉だけ頂戴して、部屋に帰ります」
レッケンドルフが断ると、ディッタースドルフはにやにやと笑った。
「卿の部屋は閣下のすぐ近くだろう。参謀長と鉢合わせしないようにな。奴さんが首尾よく行ってれば今夜会う心配はないだろうが」
「仮に参謀長が閣下のお部屋の周辺をうろついていても、顔を合わせないようにします」
互いに笑ってレッケンドルフは部屋を出た。ディッタースドルフの言葉が気になったわけではないが、もし、参謀長とかち合う危険性があるならば、やり過ごしてから部屋に向かおうと思った。少し夜の空気を浴びようと、ふらりと建物を出る。イゼルローンの人工の月がぼんやりとした光を放って空にかかっていた。
―私に出来ることか…。やれやれ。どうやら閣下の御身だけではなく、参謀長の安全もまとめて考えた方が良さそうだ。
閣下が参謀長を重宝したいのならば、そのために便宜を図らなくてはならない。それがレッケンドルフの務めなのだ。
レッケンドルフは思いついた複数の問題点をどのように解決に導こうかと考え始めた。いつしかその考えに熱中し始め、朧な月がやや傾いても気づくことはなかった。

Ende
 

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