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​アイスストーリーズ

それは口の中を優しく潤したかと思うと、氷そのものを含んだかのような冷たさで驚かせ、やがてほんのりとした甘さを伴って舌の上にゆっくりと広がった。

思わず口を開けてはあーっ、と息をつくと実際には見えないのに吐息が白く凍っているように感じた。

フリッツ

「暑いなー! もう汗が止まらない。お前っていつも涼しそうな顔してるな。暑くないのか」

両手いっぱいのノートを抱えたフリッツが振り返って言った。その額から汗がにじんでいる。制服の白いシャツの腋の下にまで汗をかいているのが見えた。

「暑いさ。そんなに暑いのはさっき休み時間に走り回っていたからだろう」

フリッツの汗だくの様子を指で示したかったがオスカーもまた、山積みになったノートで両手が塞がっていた。

二人は共に級友たちが提出したノートを教官のもとにまで運ぶ当番であり、今はその道のりの途中だった。教官は学外に住居がありこの炎天下にわざわざその自宅までノートを運ばなければならない。ノートの束は多くはなく初めは大した任務ではないと思っていたが、徐々に持ち重りがしてきた。しかも汗に濡れ始めた手に表紙の紙がべたべたと張り付いて何度もはがす羽目になった。

フリッツはオスカーの額にも汗がにじんでいるのを確かめると、再び口の中で暑さを訴え、まるで敵と向かい合っている猪のように大きなため息を漏らした。そうすることで暑熱を追い払おうとしているようだった。

「あとちょっとで先生のところだ。終わったらアイス食べようぜ、アイス」

「アイス? どこでそんなものが食べられる?」

オスカーの口の中にひんやりとして甘いミルクの風味が広がった。寮から一時帰宅する本当に年に1回程度の限られた日に父に連れられて古めかしいレストランに行く。そこではいつもデザートにミルクとチョコレートのアイスクリームが供された。デザートの時間になると父はどこかへ席を立つ。恐らく店内にいる著名な実業家や政治家たちと酒を飲むため。黙りこくって重苦しい空気の中で食事をしていたオスカーが唯一その時だけほっと息をつき、ゆっくりと食事を楽しむことができた。そのアイスクリームはスプーンですくうとほろほろと溶け、もっとその冷たさを楽しみたくてもすぐなくなってしまう。そのことに時々物足りなさを感じながら、楽しみに取っておいたウェハースのパリッとした風味を味わうのだった。

(ああいうデザートはレストランの中だけでなく、どこでも食べられるものなのかな)

あのレストランで食べたアイスクリームがいくらぐらいするものなのか知らないことに気づき、オスカーは忸怩たる思いだった。父の世話になる日々は終わったのだ。これからは自分が食べる物の値段くらいちゃんと弁えていなければ。

「ここの近くにおれが知ってる店があるんだー! そこの店のおばちゃんはさ、おれと同じ出身でさ、おれんところでしか売ってないようなお菓子とか置いてんだぜ。そこへ連れてってやるよ」

「へえ…」

お菓子を置いている店、つまりケーキ屋のようなものだろう。そこなら確かにアイスクリームを注文することができるのかもしれない。

二人は教官にノートを無事届けると、汗がひくまで涼しい部屋で休むようにと言う教官の親切な勧めを断り、再び外へ飛び出して行った。

フリッツはまた吹き出した汗に今度は文句を言わなかった。故郷を思い出させる、大好きなアイスを食べられるという期待の方が大きかったのだ。入学以来ずっと鍛え続けて来たオスカーははしゃぎながら走る級友の後を息を切らすことなく追って行ったが、さすがに曲がり角を速度を落としもせずに走り抜けるフリッツに呆れていた。

「ほらっ、ここだ! おーばちゃーん、アイスちょーだい!!」

フリッツが飛び込んだ店はケーキやクッキーは姿かたちもなく、オスカーがこれまで知っていたショーケースに商品を整然と並べた商店とは程遠い様子で、今まで見たことがないほど雑多なものが置かれていた。様々なパッケージに描かれた絵や写真から、それらは小さなお菓子が入っているらしく、値段も非常に安い。

フリッツは丸顔の年配の女性店主から何か袋状のものを二ついそいそと受け取ると、ポケットから小銭を出して渡した。オスカーの目の前にも袋状のもののうち一つを突き出した。

「ほらっ、お前の受け取れよ」

オスカーは慌てて小銭を取り出して丸顔の婦人に渡し、フリッツからアイスを受け取った。フリッツはすでにばりばりと袋を開けその中身を取り出している。

オスカーは悟られないようにその様子を横目で見つつ、慎重に袋の状態を探った。受け取った時触った様子では中身は固く冷たかった。

「あ、やっべー」

言葉はそう言いながらも焦った様子もなく、むしろ嬉しそうにフリッツは袋の中身を口にくわえた。そうしてから袋をはがすと青い色をした仄かに白い空気をまとったアイスが姿を現した。口にくわえたのとは反対側に棒が突き刺さっており、それをフリッツは手に取ってニカッと笑った。

(なるほど、持ち手がついているんだな…)

手で探って棒がついている側を確かめ、そちらから袋を開けた。無事、持ち手を見つけてオスカーは中身を取り出した。

「…わあ、冷たそう」

思わず呟いたオスカーは子供っぽいせりふを聞かれたかとちらっとフリッツの方を見た。だが、級友は気にする様子もなく遠くの雲を見上げて満足そうに何かに頷きながらアイスを頬張っている。用心深くフリッツの方を見ながらオスカーは恐る恐る口元にアイスを近づけた。それは暑い外気に触れたせいか白い冷気を放って、顔を近づけるとひんやりした。

そっと青いアイスに歯を立てた。

「あつっ…!」

さすがにフリッツが聞きつけて笑った。

「熱くないだろ! すっげえ冷たい、だろ!」

「まるで熱いくらいに冷たいと思ったんだ」

弁明じみたオスカーの言葉に、フリッツはタンバリンを鳴らすような屈託のない軽い笑い声を立てた。

「当たり前だろ、ガンガン君は銀河一冷たいアイスだぜ、しかも旨いのな」

まるで自慢するように言う。銀河一かどうかは知らないが、確かに冷たかった。べとつくシロップの甘みが口の中を刺激する。あまりに冷たいので短く息を吹きつけながらアイスを一口ずつ口に含み、その食べ方は熱々の料理を頬張るのと同じだとオスカーは気づいた。

「ほらっ、見ろよ」

フリッツがオスカーに向かってベーっと舌を出したので、どういうつもりだとむっとする間もなく、その舌が真っ青に染まっていることに気づいた。

「青いぞ」

「だろー、お前の舌も青くなってるよ。やべーよな」

鏡もないので確かめようもないが、フリッツの舌がアイスの着色料のせいで青くなっているのならば、恐らくオスカー自身の舌もそうだろう。

二人はフリッツ御用達の店の前でふうふう言う他は黙って残りのアイスを食べた。最後のかけらを食べるころには溶けかけたアイスの汁がオスカーの手と口をベタベタにした。食べ慣れているはずなのにフリッツの手も溶けたアイスでベタベタになっていた。店の婦人の好意で店先の水道を借りて手を洗ってきれいになると、オスカーはほっと一息つくことができた。

口の中はまだ冷え切っていて、大気の熱さがむしろ気持ちよかった。

風が吹きつけて二人の若い額から軽やかに前髪を払いのけた。

その時、眩しく照り付ける太陽が天空を通り過ぎた鳥の陰により一瞬遮られた。

オスカーはふと、腕時計を見た。

「時間が遅くなる。早く帰った方がいいな」

フリッツは「そうだな」と言いながら、それでも慌てることもなく頭の後ろで腕を組んだ体勢でぶらりぶらりと歩きだした。オスカーもそれ以上急かす気分になれず、小石を蹴りながらフリッツの脇を歩いた。

真っ青なアイスをもっと食べていたかったような、だが1本でもう十分堪能したようにも思える。父に連れられて行ったあのレストラン…。アイスクリームの甘くて優しい味わいが急に遠ざかり、代わりに脳を直接刺激する氷のような冷たさとフリッツの真っ青な舌で頭がいっぱいになった。バニラとチョコレートのアイスクリームなどなんと子供じみた食べ物だろう、とオスカーは独り言ちた。

 

 

ふと思い立ってあのレストランに立ち寄ってみた。老舗のそのレストランは主な顧客だった門閥貴族の没落のあおりを多少受けているようだった。だが、貴族たちの代わりに新たに力を得た商人たちや平民たち、軍人たちの中にその活路を見出したようである。店内はそれらの人々で賑わっていた。オスカーが予約のために姓名を告げた時その貴族的な名前に明らかに冷たい反応が返って来た。かつてただの一度も自らの出自を誇ったことなどない彼のことである。この反応はむしろ当然のこととして心にとどめた。生まれの特権を享受し惰眠を貪っていた貴族どもがとぼとぼと帝都を後にする姿などを見かけると遠慮なく嘲笑ったものだ。ところが、彼が店に現れると支配人が温かな挨拶と共に彼を出迎えたのだった。

「お久しぶりでございます。またお会い出来てうれしゅうございます」

支配人はオスカーの軍服を一目見てかつての上得意の息子が並の軍人ではないことを察したに違いないが、馴れ馴れしい態度などとることなく応対した。かと言って存命の頃の父の思い出を語りなどして彼を戸惑わせることもなかった。それでも、支配人の指示を受けてのことであろう、やはり往時を知る年配の給仕が丁寧にオスカーの注文を受けた。

やや退屈ながらも手堅い料理が続くコースを一通り味わっていると、店の重厚な内装と相まってかつて父と共に向かい合って食事をした時のことが逐一思い出された。子供の頃どんな料理を食べたかなど覚えておらず、料理を美味しいと思ったかすら定かではなかった。今宵出された料理は昔ながらのメニューとはいえまさか当時と同じということはあるまい。なぜ、自分はそんな曖昧な記憶を探りにこの店にわざわざ来たのだろう。ただ一つ言えるのはあの頃の思い出への復讐をしたかったのだろう、ということだ。

メインの皿が片付けられ、コーヒーのカップと共にデザートの注文を取りに現れた給仕にメインの料理を褒めた。何気ない風を装って料理長は以前と同様か聞いてみたところ、その通りであるとの答えを得た。給仕が差し出したデザートのメニューには思った通りアイスクリームがあった。子供の頃、食後にアイスクリームが出たことをそれとなく言ってみる。

「そうでございました。あの頃は幾つかお好きなデザートをお選びいただきましてそこにアイスクリームを添えるのが定番となっておりました。ロイエンタール様がご子息にはケーキは重すぎるから、とおっしゃってアイスクリームをいつも特別にご所望になりました。それでミルクアイスだけではなく、チョコレートアイスに特別にウェハースを添えてお出しするようになったのです。…いかがなさいましたか、何かコーヒーにおかしなものでも…」

「いや、何でもない。今夜はとても楽しかった。しかし甘いものはやめておこう」

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