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​燭光~Light his Candle~

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は光ではなく、光について証しするために来た。

ヨハネによる福音書 1章6~7節~

静かな足音が響いてオスカーは目覚めた。
もう朝だろうか? だがカーテンの隙間から見える外は薄明りには程遠く、通りにはまだ街灯が灯っているようだった。
「オスカー、起きなさい」
冷たく密やかな声に暗闇の中で鼓動がひとつ、ドキンと響いた。白い手が伸びてきて、枕元のランプの灯りをつけた。黄色いぼんやりとした明かりの中に母の陶器のように滑らかな白い肌が浮かび上がる。母は屈めていた体を起こすと、毛布の中の小さなオスカーには見向きもせず、まっすぐな背を伸ばして立った。すぐ側の暗闇から綺麗に畳まれたブラウスを手にした乳母が現れた。
黒っぽいコートを羽織った母はドアの方をじっと見つめて立っていた。
―いつこちらを振り向いてくれるのだろう。
決して彼を見ることはないと知っているはずなのに、オスカーはその瞬間を待っていたことに気づいた。
だが、なぜこんな夜中に母はいつもなら避けて通るはずの息子の部屋に来たのだろう。
「早く」
ささやき声で言うと母は乳母をつついて促した。オスカーは近づいてきた乳母の表情から母に従わなければならないらしいと察した。
身支度を整え、温かく着込んだオスカーが乳母に手を引かれて正面の玄関に現れた時、階段の下に置かれた大きな振り子時計がボーン、と刻を告げた。オスカーはそれを11まで落ち着いて数えた。これまでそんな遅い時間に起きたことはなかったが、まだベッドに入ってから2時間しかたっていないことに気づいた。
表に出ると母は何も言わずに車に乗り込み、乳母もオスカーの手を引いて乗り込んだ。母が運転席のすぐ後ろに、その隣にオスカーが小さな膝を揃えて座り、向かい側に乳母が乗ると、車はすぐに走り出した。

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ハイネセンの青空はオーディンのそれに劣らず澄んで眩しい。
朝の少し冷たい空気を味わいながらベルゲングリューンは山積みされた野菜をじっくり眺め、朝露を浴びて輝くトマトを一つ手に取った。
人あるところに市場あり。総督府から少し離れた川沿いに毎週日曜日の朝に立つという市場に出かけてみると、その内容は期待通りだった。農場から今朝とれたての野菜や牛乳が直送され、チーズやドライフルーツや豆類の保存食やベーコン、ソーセージ、卵なども軒を並べている。市場を物色して回る客たちに農家や牧場の素朴な人々が威勢よく声を掛けていた。
ベルゲングリューンは隣に立つすらりとした姿のサングラスの青年に微笑みつつ言葉をかけた。
「ほら、このトマトの色の濃さを見てください。それに手に取ってみると身が詰まってずっしりしているのが分かる。美味そうだ」
その言葉に店主の中年女性がすかさずトマトを荒れた手のひらに一つ取ると、素早くナイフで切ってベルゲングリューンに差し出した。
かぶりつくと自然の旨みがじわりと汁とともにあふれ出した。
店主はサングラスの下の美貌を見透かすようにして、「お兄さんも食べてみて」と青年にナイフで切り出したトマトを差し出した。
トマトの汁がこぼれないように大きく口を開いてひと切れ食べた彼の瞳が驚きで見開かれた。
「閣…、オスカー、どうです?」
「うん、美味い」
ロイエンタールの言葉にベルゲングリューンは笑顔の店主と顔を見合わせて頷くと、ポケットの小銭をさぐった。
「良かった。では、トマトを1 kg貰おうか」
「1 kg? そんなに買ってどうするんだ」
隣で彼が真っ白な歯を見せて笑った。トマトを使ってどんな料理が出来るか知らないのかもしれない、とベルゲングリューンは微笑んだ。
「新鮮だからまずはそのままサラダにしましょうか。他には牛肉の煮込みを作りたいな。この味の濃さならちょっとの塩で後は調味料がいらないくらいですよ」
ふーん、ともうベルゲングリューンの言葉は上の空で周囲の賑わいをきょろきょろと眺めている。早起きはしたくない、と眠たがっていたのを無理にお連れして良かった、とベルゲングリューンは思った。
新鮮なほうれん草や玉ねぎを買い、二人は肩を並べてブラブラと店の間を歩いた。柔らかい生成りのコートの下はシンプルな白いシャツと紺色のパンツ姿のロイエンタールはまったく普通に見える。同盟ではサングラスがファッションとしてもてはやされていると知っていち早く試した。彼の細面の輪郭にぴったり似合ったそれを掛けると、あの有名な色違いの瞳が見えずとも、本人の意図に反して見えているのと同じくらい人々の注目を集めた。
軍務以外で二人並んで歩くとき常に思うように、彼の手を取って歩けたらな、と馴染みになった想いを押し隠し、ベルゲングリューンは野菜が入った袋を持ち直した。少なくとも一緒に歩いているし、一緒に同じ部屋に帰ることができる。
蜂蜜の瓶が並んだ店を覗いていたロイエンタールがふと形の良い頭を上げた。どこか遠くの方を見ている。
どうしたのだろう、と思い声を掛けようとしてベルゲングリューンの耳にもそれが聞こえた。
かすかな歌声が、オルガンの音にのって漂って来た。
ロイエンタールと二人顔を見合わせて、どこから聞こえるのだろう、と辺りを見渡した。
彼が店と店の間から見える路地を指さした。白い壁の通路の奥に明るい青色のペンキを塗った扉が、歓迎するように開かれていた。
扉の中は思いがけず天井が高く、窓から明るい日の光が差していた。その中で意外なほどに多くの人々が皆同じ方向を向いて木のベンチに座っていた。
何か飾りのついた木の台を前にした老人が朗らかな声で呼びかけた。
「主よあわれみたまえ」
人々が声を揃えて答えた。
「主よあわれみたまえ」
ベルゲングリューンは内心の驚きを隠して、扉から人々の様子を眺めた。地球教徒が反帝国の隠れ蓑となって様々な罪悪をなした反省から、ハイネセンでは宗教と名のつくものはことごとく排除されたかに見えた。だが、不安定な時代を反映するかのように小さな信仰の集まりの報告は絶えることなく総督府にもたらされていた。ロイエンタールは宗教に関して特に熱心に取り締まっているわけではない。だが、ローエングラム王朝の新たな支配のもとでは、まだまだ宗教の完全な自由はありえない。ロイエンタールも総督としてその方針に従っていた。
(とはいえ、今はプライベートな時間だし、ここにいるいかにも純朴な人々を追い立てる真似はしたくない)
ベルゲングリューンはロイエンタールの袖をそっと引っ張った。彼は分かった、という風にちょっと頷いたがすぐには動かなかった。
「天のいと高きところには神に栄光あれ」
オルガンの音が鳴り響き、人々が一斉に歌い出した。良く揃った歌声は意外に美しく、その音を背に二人はそっとその場を立ち去った。
日の光の下でなぜかほっとしてベルゲングリューンはため息をついた。執務室に戻ったらハイネセンの宗教活動について改めて確認せねばならないのだろうか。あの部屋に集まっていた人々が反政府活動の地下組織を運営しているとは考えにくかった。
隣を歩くロイエンタールも何か考え込んでいる風情だ。
「今のは見なかったことにしますか? 閣下…、オスカー」
「ん…? ああ…、もちろんだ。願わくは職務熱心な誰かからご注進などと報告が来ないことを祈りたいものだな」
それが誰であれ、ロイエンタールの皮肉めいた表情からはありえないことではないと思っていることが察せられた。密告者はどこにでもいるものだ。
(厄介ごとには巻き込まれたくはないが、もし問題が持ち込まれたら総督として処理せねばならなくなる。この方はただの皇帝の代理人ではない。独自の判断力を持った公正かつ有能な総督なのだ)
彼がその独自の判断力を駆使することになったら、その時はお助けできるようにお側にいたいもの―。と、そこまで考えてふいに頬に何かが押し付けられた。
「わっ」
ツヤツヤとした真っ赤なリンゴだった。頬に押し付けられたそれを受け取って彼を見ると笑っている。
「何を難しい顔をしている。また何かつまらないことでも心配しているのだろう」
そう言ってからリンゴを持っていた手をベルゲングリューンの頬に滑らせた。明らかな愛撫にベルゲングリューンの心臓はどきんと波打った。周りの人たちが見ているのではないかと気になったが、こちらを見つめるサングラス越しの彼の瞳の優しさに目が離せなかった。
「もちろん。私が考えることと言えばあなたについての心配事ばかりです」
あなた以外のことを考えることなど出来ない―。暗にそう伝えたつもりだったが、彼は分かっているのかいないのか、くすくす笑ってベルゲングリューンの頬から手を離した。もう一方の手に持ったリンゴをぽんと頭上に放り上げ、また受け止めた。
「再び、おれが陛下に対して何かしでかすのではないかと思っているのか。子供のように信頼されていないとは心外だな」
「冗談でもそのようなことをおっしゃいますな」
「そのようなこととは」
横目でいたずらな視線を向けて言うので、ベルゲングリューンは静かな声で答えた。
「皇帝に対して何か含みがあるようなお言葉もそうですし、私があなたを信頼していないなどと、それこそ心外です」
真面目に言ったのに優しく笑って彼は隣を歩いている。ベルゲングリューンも苦笑した。この素晴らしい陽気の下でありもしない心配事をする自分が馬鹿らしくなってくる。
(いい加減にしろよ、ハンス。この方とこうやって過ごせるなんて、最高じゃないか。少しは楽しんでもバチは当たるまいに)
活気ある市場での買い物に周囲の人々は忙しく誰も二人の方を見向きもしない。ベルゲングリューンは思い切ってそっと彼の手を手のひらの中に包んだ。彼の細くて長い指がぴくりと動いたが、ベルゲングリューンに握られたままゆったりと身を任せている。
(もう少し見て回って、それから帰ったらトマトを使った料理を作って差し上げよう)
彼がその料理を味わって何というか、今から楽しみだった。ちらりと見た彼の表情はサングラスの下に隠れていたが、口角が上がっている。恐らく、微笑んでいるらしいとしか分からなかった。

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ガタンと車が揺れてオスカーはハッとした。いつの間にか車は停止していた。シートに背を預けてうたた寝をしていたようだった。
母はいち早く車から降り立ち、乳母がオスカーの手を取って車から降りるのを待っていた。
そこは街灯もない薄暗い小道の突き当りにある建物で、扉が開かれていた。こんな夜中にもかかわらず、多くの人がその扉をくぐって建物の中に入って行く。
息子が後について来ているか気にする様子もなく、母もその扉の奥に進んで行った。奥の方にこれまで見たこともないような背が高くて大きな蝋燭が立っていて、その明かりのお陰で暗闇の中に多くの人がいるのが分かった。人々は肘も触れ合わんばかりに隣り合ってひしめき合い、前を向いて立っていた。オスカーも周りの人々に倣って前を見ると老人が一人、蝋燭の明かりの中でも分かるきらびやかな飾り棚の前に立っていた。老人は薄暗がりの中で何かオスカーの知らない言葉を唱えているのだった。
「ルーメンクリスティ」
思いがけず張りのある声で老人が言うと群衆が答えた。
「ディオグラティアス」
母の囁くようなかすれたアルトの声もまた、同じ言葉を唱えた。
「ルーメンクリスティ」
訳も分からずオスカーは周りの人々が声を揃えて同じ言葉を唱えるのを眺めていた。
「ディオグラティアス」
オスカー自身は小さな唇を固く閉じたまま、室内に言葉が広がっていくのを聞いていた。
前触れもなく母が手袋をした手でオスカーの手を取ったので、驚いて小さな叫びをあげた。
とたんにぴしゃりと手を叩かれ、オスカーは唇を噛んで再び声をあげまいとした。
手に小さな紙の燭台に乗った蝋燭が乱暴に握らされた。
同じように小さな燭台を手にした母は何も言わずに輝く祭壇の前にいる老人の方へ一歩踏み出した。オスカーも乳母に手を引かれて母の後に続いた。母は周囲のことなど目に入らない様子でヒールの足音を響かせて歩いて行く。人々はそんな彼女に無言で道を譲るので、後に続くオスカーと乳母も一度も歩みを止めることなく前に進むことができた。
老人が大きな蝋燭から長い柄の飾りのついた燭台に乗った蝋燭に火を移した。立派な服装をした恰幅の良い男性がやはり手に小さな燭台を持って現れ、老人の持つ燭台から火をともした。男性はその家族らしい人々にそれぞれの手に持つ蝋燭に火を移した。次に前に出た老婦人もありがたそうに老人が手にする燭台から火を移すと、連れの若い婦人に蝋燭の火を移した。老人から火を貰うことは何か重要な意味があるらしく、家長らしい者が恭しく蝋燭を貰うとその連れに蝋燭の火を移すという行為が繰り返された。次に母が前に出るとオスカーと乳母も慌てて母の後に続いた。
母の蝋燭に火が灯った。
オスカーは母から火を貰おうと前に一歩踏み出しかけた。
ところが祭壇の奥の暗がりから一人の若い男が現れ、母に近づき蝋燭の乗った小さな燭台を差し出した。
(次は当然僕だと思っていたなんて…!)
頬が燃えるように熱くなった。
母が手に持つ蝋燭の明かりに照らされて若い男の誇らしげな表情が見えた。
オスカーは燭台をぎゅっと握りしめた。寒さか、あるいは心の内の震えのせいか手元が震えた。
だが、後ろに下がろうとするオスカーの手を母は苛立たしげにつかむと、息子の燭台に蝋燭の火を近づけた。
母の細くて長い指が芯から蝋を取り去り、そっと火を近づけた。くすぶり出した蝋燭に顔を寄せて紅くて薄い唇を小さくとがらせるとふっ、と息を吹きかける。その時、自分とよく似た母の白い額に黒っぽい前髪がはらりと落ちたのが見えた。ぽっと芯が赤くなり、やがて小さな炎となった。オスカーの手の中でそれはまるで太陽のように温かな光を灯して明るくなった。
オスカーは瞳の中にそのオレンジ色の明かりを宿しながら、母の手が自分の手を包み込んだ瞬間を瞼に留めた。目の端には若い男が母から蝋燭の火を与えられるところがちらりと見えた。
小さな炎はオレンジの光を放ってオスカーの頬はさっきよりもずっと熱くなった。
ところがその時、急に風が吹きつけて蝋燭の炎は一瞬にして消えた。

 

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その日、ベルゲングリューンが帰宅すると先に帰ったはずの総督閣下はおらず、部屋は真っ暗だった。
(どこかへ飲みに出かけたのだろうか)
だが、彼が執務室を出て帰宅する際にそのような話はなかった。いつもならどこかへ寄る時や遅くなる時には前もってそのことを教えてくれるのだが。
この地の総督が一人歩いているところを暴漢が後ろから襲い…、とありえない想像が頭をもたげかけて、ベルゲングリューンは慌てて首を振って否定した。
(馬鹿げただ心配だ。ふらっと気まぐれにどこかへお寄りになりたい時もあるはずだ。料理でもして待っていればそのうち帰られるだろう)
あえて頭の中を空っぽにしてトマトを刻む。肉の焼き加減や料理の次の手順を考えることに集中していると、やがて彼の身の安全についての焦燥感が薄れて来た。
オーブンの中の肉が焼けるかという頃合いに扉を開ける音がして彼が帰って来た。
「閣…、オスカー、お帰り。ちょうどいいタイミングだ。肉が焼けましたよ」
彼が小さく頷いて手に持った細長い紙袋を差し出した。
「なんですか? ワイン? これを買いに行って遅くなったんですか?」
何も言わずに再び頷いたのでベルゲングリューンは袋を受け取った。彼が着替えに行っている間に袋からワインを出し、ラベルを確認してから栓を抜いてデカンタにうつした。袋はハイネセンの有名ワインショップのもので総督閣下御用達として最近雑誌に取り上げられ、ちょっと話題になっている店だ。
(だが、この店は総督府からうちへの帰り道にある。じっくり選んだのなら時間もかかるかもしれないが)
ダイニングテーブルについた彼は疲れた表情であまり食欲もないようだった。彼の足元にひざまずいて膝を抱え込みいったい何があったのか問い詰めたいのはやまやまだが、それはせずに彼がワインを飲み、あたたかい料理にナイフを入れ、人心地つくまで待った。
「か…、オスカー、今日はどうでしたか…?」
「ん? どうも何も、お前も一緒だったではないか」
赤くなってベルゲングリューンは答えた。
「午後は一緒ではない時間もあったでしょう。その時どうしていらっしゃったかなあと」
我ながら情けないことにまるで母親を独占したがる幼児のように聞こえた。彼が今まで何をしていたか聞くにしても下手な聞き方だ。
「どうもこうもない。いつも通りだ」
感情を表さない声で言われて取り付く島もない。それがベルゲングリューンに対する無関心を表すものではなく、彼の事情に立ち入って欲しくないためだと分かっていた。あえて重ねては聞かず、ベルゲングリューンは頷いて食事に戻った。
(彼に心の内を話して欲しかったら、そのための時間の余裕を彼にあげなくてはいけない)
彼が相手の時、焦りは禁物だと理解しているはずだった。
だが、確認したい書類があると言ってロイエンタールが書斎に引き上げた時、椅子の下に不思議なチラシを見つけたベルゲングリューンはひどい焦燥感を覚えずにはいられなかった。
―慈しみ深き神はあなたの心の弱さをご存知です。すべてを打ち明けて安らかになりましょう。
チラシは素人が自分で作成したらしい素朴なデザインで、綺麗なタイプ文字でそう書かれていた。ロイエンタールがなぜ、このようなチラシを持っているのか。どこで入手したのか。神とはいかなる神か。この神を禁じられた土地でどこに神などいるのか。
何より、彼は神の助けを必要としているのか。
どこでチラシを入手したかは簡単に分かった。チラシの片隅に教会なる場所の住所が簡略化された地図と共に書かれていたのだ。
その住所は日曜日の朝市でまぎれこんだ建物を示していた。
あの時、彼はどこかおかしな様子だった。今日帰りが遅かったのはあの場所に行ったからだろうか。
書斎から出て廊下を歩く足音がこちらへ向かっているのが聞こえた。ロイエンタールが来る。ベルゲングリューンはチラシを急いでポケットにしまった。

 

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