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First Taste of Love

フェリックスの腹がグーと鳴って胃が空っぽであることを主張した。ベッドサイドに置かれたレッケンドルフの端末の時計表示を見ると、すでに昼を大幅に過ぎていた。
まさか、自分たちはずっと話していたのだろうか? もちろん朝から今までの時間の半分はお互いの身体に注意を向けていた。
フェリックスは隣で疲れ切って眠っている男をちらりと見た。昨晩から先ほどまでのことを考えると、自分は彼にとても良くしてもらった気がする。それはそれはとても…。
フェリックスは赤くなってそれ以上のことを考えないようにした。そうしないと、またこの人を起こしてしまいたくなってしまう。とにかくあまりに疲れさせてしまったのは確かだ。
じっと眠っている男の様子を見守る。この年齢の男性にありがちな中年太りの運命からは逃れているが、とても鍛えているというわけでも、あるいは美容に気を使っているわけでもない。きっと適度にエクササイズをして体調管理に気を付けているのだろう。彼は時間を効率的に使うことが得意なのではないかと言う気がした。
だけど、食事はどうしているのかな。昨日も今朝もフードサービスから食事の宅配があった。美味しいし、おそらく良い食材を使った新鮮なもの(当然それに見合った費用だろう)だったが、どことなく味気ない。今朝は二人でキッチンのテーブルで食欲を満たす以外の狼藉を繰り広げたので、そのせっかくのフードサービスの食事すら満足に摂取していなかった。
フェリックスは静かな寝息を立てている男の腕をそっと自分の胸からどかして、ベッドからそっと降りた。

 

レッケンドルフが目覚めると、部屋の中にコーヒーの香りに交じってなにか甘い匂いが漂っていた。ベッドに一人でいることに我ながら驚くほどうろたえる。若い恋人を飽きさせ、あまつさえ最中に昨夜から蓄積した疲労のせいで寝てしまったのだ。
バスローブを羽織って匂いの元をたどってキッチンに行くと、そこは今朝、そのテーブルの上で何事もなかったかのようにきれいになっていた。ちゃんとシャツにズボンをはいたフェリックスがオーブンをのぞき込んでいた。足元は裸足でくるぶしがズボンの裾から覗いていて、その白さがとても艶めかしく見えた。今まで自分はそんなところにフェチズムを感じたことなどなかったはずなのに。おそらくその白さが青年の他の箇所の白く滑らかな皮膚を連想させるからだろう。
フェリックスがオーブンから顔を上げて、レッケンドルフににやっとしてみせる。そんな表情が驚くほど彼の父親と似ていた。
「シャワーを浴びてきたらいいですよ。あと少し時間がかかりそうだから」
「時間? 何に?」
「甘いものが食べたくなったから、パンプディングにしたんです。あと10分もすれば出来ますよ。それともコーヒーを飲んで待ちますか?」
レッケンドルフはどこかに魔法使いの料理人が隠れているのではないかとでもいうように、きょろきょろとキッチンを見渡した。
「プディング? どこかで買ってきたのか? その格好で外に出たのかね」
彼の目にはフェリックスは人目にさらすのは憚るほど、寝室での名残をとどめて気だるげに見えた。フェリックスは眉を上げて男を見る。
「この格好? 変だったかな…。おなかが空いたから今朝の残りのパンを食べようかと思ったら、もうぱさぱさに乾いていたから、プディングにしたんです。どこかに牛乳と卵を買いに行こうと玄関を出たら、お隣のご婦人が貸してくれて…」
「ご婦人? ご婦人なんていたのか? 借りた?」
レッケンドルフは若いセクシーな有閑夫人を想像したが、フェリックスが続ける話を聞いて、おかしなことを言わなくてよかったと思った。
「お隣さんが誰かも知らないんですか? フラウ・ダニエラっていうおばあちゃんですよ。プディングに使う分くらい貸してあげるって申し出てくれて」
お隣はフラウ・ベヒトルスハイムという小金持ちの気難しい老婦人で、時々訪ねてくる息子夫婦としょっちゅう喧嘩している。一度などは息子がドアの外で泣いているのを見た。
「ああ、お隣のあの老婦人か…。ダニエラなんて色っぽい名前の持ち主とは知らなかった。君、卵の貸し借りでそんなに親しくなったのか」
「卵と牛乳、シナモンもですよ。レッケンドルフさん宅に居候しているフェリックスですって自己紹介したら、ダニエラって呼んでって言ってくれたんですよ。かわいい素敵なおばあちゃんですね」
「君…」
ちょっとぽかんとした表情だったレッケンドルフがなぜか面白そうに笑い出したので、フェリックスは肩をすくめた。相手がシャワーに行くつもりがなさそうなので、コーヒーをカップに二人分注いだ。
そのコーヒーをありがたく受け取ってレッケンドルフは笑いを収めて言った。
「ああ、なんだか不思議な感じだ。君は本当にあの閣下とそっくりだ」
「もう顔のことはいいです。僕も父とよく似ていて変な気分だなあ、と思いますよ」
「顔の話ではないよ。確かにそっくりだが、ある意味では君と閣下は全く似ていない。その表情や雰囲気も…。だが、あの閣下も本当に驚くほどあらゆる女性の興味を惹きつける方だったね」
今度はフェリックスのほうがぽかんとした表情をした。そんな無防備な表情は、ロイエンタール元帥もミッターマイヤー元帥も持ち合わせていない表情だ。現代の若者だけが持ちうる、平和な時代の子供の特権だ。
「女性? 僕は別にそんなに女性にもてるってわけじゃないですよ」
「そうかい? あのパーティーに一緒に来た女の子は? 彼女の前にも誰かと付き合ったりしただろう」
「それはまあ…」
こんなことを根掘り葉掘り聞くのは自分をいじめるようなものだ。だが、レッケンドルフはこの青年についてもっと知りたい、という気持ちを抑えることが出来なかった。
オーブンがチーン、と出来上がりのチャイムを鳴らしたので、フェリックスはレッケンドルフから目をそらした。オーブンに屈みこんでレッケンドルフを見ずに言う。
「あなたの方こそ。きっと僕以外にも前に何人もいたんじゃないですか」
「まあ、士官学校のころや戦場に出ていたころはね。しかし、結婚後は妻がいたし、離婚してからはまったくそんな気になれなかった」
フェリックスはまだオーブンに屈みこんでいる。
「士官学校? それは男…?」
「最初は学校の1年先輩でね…。任官してからはほとんど女性が相手だったがね。しかし私はむしろ、君の経験を聞きたいね。私が初めてではないだろう」
フェリックスはオーブンを開けて、レッケンドルフが自宅にそんなものがあるとは知らなかったガラスの容器を、たくさん重ねたタオルで天板から持ち上げた。こちらへ向いたフェリックスは、オーブンの熱気のせいだけとは思えない赤い顔をしていたが、小さくうなずいた。
「…ギムナジウムのころ、皇宮で侍従のアシスタントのアルバイトをしたんです。その時知り合った人。ほんの少しの間しか付き合わなかったけど…」
「ほう。皇帝陛下の侍従とね。ランベルツ君の同僚かな。どうして別れたんだい」
「別に喧嘩したわけでもなく、彼が出世して、どこか別の忙しい部署に出向になってしまったんです。兄さんの部下の一人だったんだけど」
「…もしかして、兄さんが何か手を打ったと思ってるのか」
「たぶん…。彼も兄さんも僕には何も言わなかったけど。僕はまだ16だったから、彼が何かの責任を負ったのだったら、悪かったなと思って」
「そいつはいくつだった?」
「35くらいだったかな…。兄さんより年上だったから…」
レッケンドルフは憤慨した。
「ずいぶん年上じゃないか。そいつが責任取って当然だ、いたいけな少年をたぶらかすひどい男だ」
「そんなんじゃないですよ。僕は別にひどい目にあったわけでもないのに」
だが、フェリックスが顔を上げずにパンプディングを見ているので、何かその少年時代の思い出に影を差すようなことがあったのではないかと思われた。義理の兄が彼らを引き離したということだけでも十分傷つく思い出だろうが…。
パンプディングはちょうどよい甘さでシナモンの香りが食欲をそそった。フェリックスは適当に切り分けたプディングを皿に盛って、それぞれの前に置いた。一口食べたレッケンドルフがすぐさま青年の料理の腕前を褒めると、彼はようやく少し表情を和ませてお礼を言った。
「そういえばミッターマイヤー閣下の奥方は料理上手で有名だったね。君はお母さんから料理を教えてもらったのかな」
「…ええ、まあ…」
レッケンドルフはこれは失言だったかな、と思った。青年は母親と喧嘩して家出中なのだった。しかし、母親から影響を受けていることは明らかなのだから、彼女の存在を避けて通るなど馬鹿げたことだ。
「もちろん、君も自分でいろいろ料理してきたのだろうだがね。私などは軍人時代に一人暮らしをしていた時でさえ、卵をゆでる以上のことは出来なかったな。両親が茶道楽だったもので、コーヒーやお茶なら子供の時から上手に淹れられたのだが、それで腹が膨れるわけではないしね」
「大学に入学して1年目は寄宿舎だったけど、2年目からは一人暮らしをしてたんです。毎日自炊してたから、あのころは結構料理してたな」
フェリックスがくすっと笑ってレッケンドルフに微笑みかけたので、相手はその微笑みのまぶしさにどきまぎした。
「僕と仲間のブロイルがそもそもビジネスを立ち上げたのも、僕は大きなキッチンのあるフラットに移りたくて、その資金を集めるためもあったんです。そんなことを言うと、大概の人はがっかりした顔をしますね。食い気が理由でビジネスを始めたなんてね。でも、自分の食い気のためだけでなくて、友達がしょっちゅう僕の料理を食べに来たりしてて、みんなが皿まで食べる勢いで食べるのを見るのが楽しかった。それが一番の理由かな…」
レッケンドルフもふと見ると皿の中がほとんど空っぽであるのに気付いた。最後のひとかけを名残惜しい気持ちですくうと、ぺろりと食べた。
「おかげで美味しいお菓子にありつけた。またもし作ってくれるのなら、今度は私にお茶かコーヒーを淹れさせてくれ。飛び切りの美味いやつを淹れてあげるから。卵焼きは10回に1回は焦がすこと請け合いだが、これだけは自信がある」
「もしかして、父もあなたのコーヒーを飲んだ?」
レッケンドルフは胸に手を置いてため息をついた。
「それだけが私の存在意義だったよ」
「そんなこと言って…!」
気持のいい笑いが二人の間に沸き起こり、青年の軽やかな笑い声が天井にこだました。レッケンドルフは腹の底からふわふわと温まり、思わず向かい側に座るフェリックスの手を取ってその指に接吻した。
我知らず満たされた気分でフェリックスの細くて白い指から顔を上げると、青年の困惑したような表情に出くわした。青年が自分と同じ気分ではなかったらしいことに、残念な思いを抱きつつ言う。
「…フェリックス、私と一緒にいるのは迷惑か?」
「なぜ、そんなこと…! 違うんです、ちょっと昔のことを思い出して、それで…」
フェリックスは相手の手から自分の手を引き抜こうとしたが、レッケンドルフは離さなかった。青年の手に自分の指を絡めて両手で握りしめる。フェリックスはため息をついた。
「手を離してください」
「何を思い出したか言ってくれれば手を離すよ」
フェリックスは途方に暮れたような表情をした。
「大したことじゃないんです」
「以前にも君の手を取って、もう離さないとかなんとか言ったくせに、薄情にも君を捨てて行った奴がいたか」
青年のぎょっとしたような表情に、まさか当たるとは思わなかったレッケンドルフ自身も驚いたが、腑に落ちた。
「そうか、その君をたぶらかした侍従の奴だな」
「たぶらかしただなんて…。ただ夏休みに彼のアシスタントのアルバイトをして。本当に最初は普通に仕事をいろいろ教わったり、休憩時間に飲み物を貰ったり、昼には食事させてもらったり、そんな感じだったんです…。それで仲良くなって、後は普通の付き合い」
フェリックスは手を取られて、困惑した表情のまま話した。
その16のころ、付き合いだしてほんの数か月たったころ、相手が急に付き合いを断ってきた。優しく君のためだと諭されて、フェリックスは何も言えなかった。ところが、どこからともなくランベルツ侍従長が自室に彼を呼んで、しばらく喧嘩のような怒鳴り声がしていたという噂が流れた。彼はそのすぐ後に他部署に出向になった。
ランベルツはフェリックスに対してはさりげなく、付き合う相手を選んでほしい、というようなことを言っただけだった。彼を問い詰めようにももうフェリックスからの通信には応じてくれなかった。
「その後はもう終わったことだと思ってうやむやになったんです。ぼくも新学期になって勉強があったし。だけど、大学に入って一人暮らしを始めたころ、急に彼のことが気になって、会ってみようという気になったんです」
「…君は仕事と天秤にかけられて、言ってみれば振られたんだろう。未練があったのかい」
「そうじゃないんです。なんだかわからないままに終わったのが嫌だったんです。今まで付き合ったことのある他の人とは、今でも友達だったりするんですよ。なのに彼だけ」
「友達ね…。つまり君は納得していなかったわけだ」
フェリックスは彼がよく通っていたバーに行ってみた。16のころには簡単には入れなかった店だが、もう誰も未成年だからだの、坊やだのなどと言ってフェリックスを拒む者はいなかった。何度目かに、首尾よく彼とそのバーでばったり出くわした。
「君と付き合っていたころとずいぶん長く習慣を変えていなかったわけだ。君も来るかもしれないということに気づかなかったとは傲慢だな」
「僕もいずれ大人になるとは思わなかったんでしょう」
レッケンドルフは心の中で顔をしかめたが、フェリックスに対しては静かな声で続きを促しただけだった。
「彼はとてもびっくりしていた。僕が誰だか、すぐ分かったみたいだった。僕はさすがに彼に何と言えばいいか分からなくて、たぶんしかめっ面でもしていたんだと思うんです。そしたら、彼が急に何かに気づいたのか真っ青になった」
不思議とレッケンドルフはその時の情景が目に見えるように思えた。少年期を脱したばかりの、みずみずしく、輝くような若さのフェリックス。対する男は40近く、毎日の仕事にくたびれている。かつて出世と引き換えに少年を手放した、心の弱い男だ。
「そいつはどうしたんだ。君に会って良心の呵責から卒中にでもなったか」
「彼は言ったんです。『何が望みだ』って…」
レッケンドルフは今度こそ怒りにとらわれ、眉を吊り上げた。
「『何が望みだ』…!? どういうつもりだ、そいつは! 君は言ってやったんだろうな、きっぱりと!」
フェリックスはレッケンドルフの剣幕にちょっと笑った。
「まあ、僕に出来たことは彼にはもう興味がないと伝えることだけでしたよ」

 

『やめておきなよ、フェル。その者は君に会いたいのならば、もういつでも会いに来ることが出来たはずだろう。そうではないということは、君のことは昔のこととしてもう忘れてしまったのだろう』
アレク陛下はたしなめるようにフェリックスに言った。
『そうかもしれないけど。でも、よく分からないうちに会えなくなってしまったんだ。彼が僕のことをどう思っているか、気になるんです』
『誰とでも仲良くしたいというのは結構だが、別れた男とまでいつまでも友達でいたいなんて、それは一種の傲慢なのではないかな』
フェリックスが恨めしそうにアレク陛下を見たので、陛下は肩をすくめた。
『もちろん、僕など君に比べたら恋愛の経験は皆無に等しい。それでも君自身には分からないことが外から見た者には分かるんだ。お願いだから、自分から面倒に巻き込まれるようなことをしないでくれよ』
ありがたい親友の言葉をよく聞いておくべきだったのだ。だが、残念なことに自分で直接体験するまでせっかくの忠告を理解することが出来なかったようだ。
「―何が望みだ」
フェリックスはカウンターに座った男を信じられない思いで見下ろしていた。誰もが自分に優しくしてくれて、自分を可愛がってくれる、などと言うのは幻想にすぎないのだとはっきり分かった。ひどい教訓だが、自業自得だ。フェリックスは自分が青ざめているに違いないと思った。
男はといえばその言葉を言ったとたんに後悔していた。かつては優しい笑顔しか見せたことのない温和な若者だった。それが、彼に向かってきりりと眉を吊り上げたのを見たのだ。
フェリックスが投げかけた視線は突き刺さるような鋭さだった。
「望み? あなたに僕が何を望むというんですか。あなたはあの時、僕の望みを聞くことが出来る権利を自分から捨てた」
その言葉は冷笑に彩られて肺腑をつくような棘を仕込んでいた。青年の視線は氷のように冷たく、まるで青い雷光のように煌めいた。冷たい輝きをたたえた青い瞳は男の自信なげにさ迷う視線を捉えて、決して離さなかった。とうとう男はフェリックスから顔を背けて俯いてしまった。
バーマイスターがフェリックスに静かな声をかけた。
「何になさいますか」
フェリックスが華やかな笑顔でにっこりほほ笑んだので、周囲で彼らを見守っていたものは一様にはっと息を飲んだ。
「それではジンを貰おうかな」
フェリックスはカウンターの男の隣の席に座り、マイスターと店の景気やお勧めの酒について静かに話し出した。そこにいる男を完全に無視していながら、まったく自然体で話し続けた。やがて、いたたまれなくなった男が倉皇として立ち去ると、ようやくフェリックスは鎧を脱ぎ、ため息をついた。
「どうも、お騒がせしました、皆さん」
客たちに本当にすまなそうな表情をして声をかけたので、周りの者もほっと一息ついて、一斉にフェリックスに話しかけた。
「お兄さん、あのいけ好かない男は何だい」
「しかし、君もきつかったね、あの男はもうこの店には来れまいよ」
「彼のなじみの店を奪うつもりじゃなかったけど…。でも、僕にも矜持と言うものがありますから、彼に追い立てられて店を出るつもりはなかったので」
しばらくしてフェリックスが立ち上がると、客たちは皆、またこの店に来てくれと言った。フェリックスは首を振って客たちに答えた。
「ありがとうございます。でも、ここで彼の思い出に浸るようなことはしたくないですから」
青年はまっすぐ頭を掲げて出て行った。バーマイスターと客たちは、その様子がまるで誇り高い王侯貴族のようだったと言って、しばらくの間噂した。

 

―何が望みだ?
レッケンドルフは男がなぜそのようなことを言ったのか、少しわかるような気がした。その愚か者が見たのは、おそらく青年自身ではなかった。彼の後ろにいる国務尚書や皇帝の侍従長、そして皇帝自身だったのではあるまいか。青年自身がどのような気持ちで彼に会おうとしたかなど考えもせず、その大きすぎる背景に気を取られ、恐れをなしたのだろう。フェリックスだけを見ていればよかったものを、哀れと言えば哀れだが愚かな男だ。
レッケンドルフはいまだ、フェリックスの手を離さずにいた。フェリックスももう手を放してほしいとは言わなかった。ただ、じっと過去の不本意な出来事を思い出している。
「君の望みは? フェリックス」
その言葉にフェリックスは顔を上げた。レッケンドルフの真摯で穏やかな瞳が彼を見つめていた。フェリックスは少し笑って首を振った。
「何も―。ただ一緒にいてください」
今度はフェリックスがレッケンドルフの指に接吻する番だった。そっと手を引き寄せて、柔らかい唇を年上の男のこわばった皮膚に押し付ける。その時、レッケンドルフがテーブルに身を乗り出して彼の方に近づき、フェリックスの顔に自分の顔を近づけた。
「私はいつでもここにいるよ」
フェリックスは頷いて静かに目をつむった。そして、目を閉じたままレッケンドルフの唇を探した。レッケンドルフの唇がそっと彼の顔に触れ、さ迷い、そしてフェリックスを捉えた。

 

 


Ende
 

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