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ただ一度の日

「―ああ、うん、そうだ。今夜は遅くなる。食事の心配はいらん」
『旦那様、今夜は特にご予定はないものと思っておりましたが…』
「出来たんだ、急に。なんだ、何かあるのか。不満でもありそうな口ぶりだな」
『今日は旦那様のお誕生日でございますから…』
「―誕生祝いの言葉はすでに今朝、聞いた」
『はい、ですが、旦那様にわたくしからお祝いの言葉を述べさせていただきました時、ちょうどあの方が降りていらっしゃるところで…』
「あの方?」
『お嬢様でございます。ちょうど旦那様がお出かけになるときに、朝食を取りに降りていらっしゃいまして、わたくしに何のお祝いかとご質問なさいました』
「―本当に何の祝いだろうな」
『そこでわたくしは本日は旦那様のお誕生日であることを申し上げました。そうしましたところ、お嬢様は』
「呪われた日だとでも言ったか」
『旦那様…!』
「―ああ~、分かった、分かった。それで? なんと言ったのだ、お前のそのお嬢様は」
『わたくしの、ではございません。お嬢様は』
「なんと言ったんだ?」
(沈黙)
「おい?」
『旦那様、どうか早めにお帰りください。旦那様はいつもどんなお仕事でも手早く片付けられてしまわれるので、残業はめったになさらないとレッケンドルフさんが』
「お前はいつからレッケンドルフと茶飲み友達になったのだ」
『レッケンドルフさんが副官になられてからです。どうか、旦那様―』
「ああ~、ああ、ああ、分かった。なるべく早く帰る。どうだ、満足か?」
『どうぞお気をつけてお帰りください』
「送迎の地上車に乗っているのだ。気をつけても何も」
『―お車を降りられてから女の方が刃物を突き付けてくることもございます』
「おい!」
『失礼しました』
「……。その刃物女と今夜こそ殺し合いになっても知らんぞ」
『差し出がましゅうございますが、近頃の旦那様とお嬢様のご様子を拝見しますに、そのほうがまだマシかと存じます。1か月近くもお互いにそっぽを向いて一言もお口を聞かないよりは』

 

エルフリーデは書斎の椅子に座って、デスクの上に置いてある卓上型のカレンダーをじっと見ながらぼんやりとしていた。
9月以来、夏の疲れが残っていたせいか、毎朝気分が優れない日が続いていた。今朝、ようやく少し体調がいいような気がして、早めに起きてみる気になったのだった。階下におりようとすると、ちょうどこの家の主人が出かけるところで、彼が玄関を出る後姿を見送ってから、階段を下りていった。
―今日は誕生日だと言っていた。祝いもしないなんてあの男らしい。きっと私が今日誕生日だって聞いたら、『呪われた日だ』とでも言いそうだと思うに違いない。
執事から今日は誕生日だと聞いた時、ふと考えたのは彼の母親の事だった。赤ん坊にナイフを向けたという母親だ。ナイフを持って彼に迫った、自分とその母親とのなんという符合。
今の彼にだったらナイフを向けることをためらわない。だが、赤ん坊の彼はまさか、今の彼のように鋭い舌鋒は持ち合わせていなかったはずだし、あんな皮肉の混じる嘲笑を向けてはこなかっただろう。何も知らない、純粋で無垢な存在に、ナイフを向けるなどとても想像が出来なかった。
―私だったら…。どんな事情があったって赤ちゃんに乱暴するなんてできない。赤ちゃんに刃物を向けるのに正当な理由なんてない。
何か温かいフワフワしたものが自分の腕の中に感じられるようだった。彼はどんな赤ん坊だっただろう。大人になった彼はいつも不機嫌で怖い顔をしている。しかし赤ん坊のころはそれこそ可愛らしいところもあったはずだ。
―赤ちゃんはどんな子もみんなかわいい…。彼もきっと…。
ダークブラウンの髪をぽやぽやと生やして、まるまると太った赤ん坊を腕の中に抱くところを想像してみる。
彼がそんな無邪気な存在だったことがあるなんて信じられない。
その子がにっこり笑ってエルフリーデを見るところまで考えて、はたと気づく。なんとなく青い瞳の赤ちゃんを想像していた。
彼のような青い瞳だったら天使のように綺麗な赤ちゃんになる。神秘的で賢い感じのする黒い瞳でも構わない。どちらにせよかわいい赤ちゃんに決まっている。
そこまで考えてエルフリーデはぎょっとして立ち上がり、胸の前で丸めていた腕をパッと広げた。彼と自分との子供のことを想像していた!
急に立ち上がったせいか、目の前が真っ暗になり、みぞおちから胸元にかけて吐き気が広がった。
ゆっくり椅子に座りなおし、目をつむって手で顔を覆う。頭を支えるようにして両手に額を預けると少しずつ気持ち悪さが退いていった。
そろそろ現実と向き合わねばなるまい。
知り合いもおらず馴染みもないフェザーンの街で、どこに行ったら自分の状況を相談できるのだろう。彼に相談するわけにはいかなかった。
エルフリーデは再びカレンダーを見た。
―今までもかなり遅れることがあった。今回もただ遅れているだけかもしれない。オーディンからフェザーンまでかなり急いで旅をしてきたし、急に土地が変わったせいで身体が疲れていて…。
だが、2か月も来ないということはよくあることなのだろうか? 何か別の重病かもしれない。それを確かめるためにはやはり医者に行かなくてはならないのだろう。医者に診てもらうためには金が必要だが、自分は一文無しだ。ロイエンタール家の執事は自分に親切にしてくれるが、使用人に婦人科について相談するなど、恥ずかしくてできるはずがない。それに執事に相談すれば、当然、その話は主人にまで伝わるだろう。
―彼がもし知ったら、どうなる…?
彼が母親の話をしたときに見せたあの暗い瞳。表面上は皮肉めいて笑うだけだが、その底に複雑なものを隠しているようで恐ろしくなる。そんな瞳を自分にも向けて…。
―なぜ彼がどう思うかなんて気にするの? 彼はきっと怒るだろう! どうせ私のせいだとでも言うだろう! 私一人で出来るはずもないのに…!
8月のあの日、彼は酔っぱらって上機嫌で帰って来た。おそらく、執事が教えてくれた通り、親友のミッターマイヤーという人と楽しく飲んできたのだろう。酔いのせいかいつもの鋭さはなく、どうしたことかエルフリーデに対してさえ優しいともいえるそぶりだった。いつもと違う様子に彼女も調子が狂ってしまったようだった。
彼が手を伸ばしてきたとき、彼が何を望んでいるのか分かっていた。もうすでに初めてではなかったのだから。その時、逃げることは容易かったはずだ。
なのにその手に絡めとられて、身動きできないふりをした。
翌朝、彼がことさら不機嫌だったのは、酔っぱらって彼女に優しくしてしまったことが不本意だったせいかもしれない。彼女はと言えば、彼に答えてしまった自分が恥ずかしくて仕方がなかった。彼ともう一度顔を合わせたら、今までのような厳しい表情を保てるか分からなかった。
それ以来、彼とは顔を合わせてもなるべく口をきかない。彼の方もめったなことでは彼女に近づこうとしなかった。
フェザーン行きについても、転居の準備に忙しい屋敷の様子に気づき、執事に問いただしてようやく知った。主人が何も言わないため、善良な執事は彼女をどう扱うべきか分からずにいたらしい。エルフリーデが自分から丁寧に説明を求めたので、ほっとしたようだった。
わずかな荷物をトランクに詰めている彼女を見つけて、彼はフェザーンにまでついてくる気かと聞いた。
―もちろんよ。お前が破滅してみじめな最期を迎えるところを桟敷席から見届けるつもりなのだから。
彼の方を見ずに精いっぱい強い口調で答えた。彼はその答えに満足したようにククッと笑った。
彼が望むとおりの言葉だ。
彼女は貴族の特権意識に凝り固まり、復讐だけを生きがいとしている。
彼に最初にナイフで挑んだときの彼女は確かにそのような生き物だった。家族や友人との紐帯を断たれた若い娘には、それだけが前を向いて歩くための支えだった。
彼と会う前と後と、いったい何が違ってしまったのだろう。彼に会う前の何も知らないままでいれば、彼にナイフを突きたてる夢を見ながら、ただ復讐だけを胸に温めて、何も考えず、何も感じずに過ごすことが出来ただろう。
―だけどもう、私は考えだしてしまった。彼に会う前は手に持ったナイフ以外、何も感じずにいることが出来たのに。でももう遅い。
一度走り出したブレーキのない車輪は後戻りできない。もし、その速度が遅くなればグラグラとバランスを崩して行く手を失うだろう。
決して立ち止まってはいけない。今までの憎々しく猛々しい貴族の娘のままで突き進まなくては、きっとくずおれてしまう。
エルフリーデは顔を両手で覆った。彼に会う前には痩せてこけていた頬は、ふっくらとした娘らしい丸みと柔らかさを取り戻していた。以前はあまりかまわずにいた白銀の髪は、ブラッシングの時ももつれる前にさらりと解け、輝きを増していた。そのほっそりした身体には以前と同じ、あるいはそれ以上に贅沢なドレスを着ている。その姿はきっと以前とは全く違って見えるに違いない。
デスクの横には大きな窓があり、夜の帳に彼女の姿を反射して映していた。
泣いている? 笑っている? 彼女は自分の姿を見ようと顔から手を降ろし、窓ガラスに目を向けた。

 

「この部屋に入っていいと許可した覚えはないが」
ロイエンタールが窓際に佇む娘に声をかけると、彼女は細い悲鳴を上げて振り返った。口元を手で覆って、驚きに満ちた表情をしている。どうやら彼が帰って来たことも知らなかったようだ。
なんとなく、彼女が彼の帰りを手ぐすね引いて待っているような予感がしていた。しかし、当の娘の方は彼の帰宅に気づいてもいなかったらしい。
そのことを面白くなく思っている自分がいた。
娘は鼻をつんと上向けて表情を取り繕った。
「私はどこにいようと、そのために許可を得るつもりはないわ」
その言葉は少し上ずって聞こえた。
彼女の青白い肌が常になく輝いて見えることをロイエンタールはいぶかしく思った。フン、と鼻で笑って答える。
「ほう。他人の家にいる時の当たり前の作法も、大貴族の一族の者には無用のものか」
娘は両手を拳に握って、こちらを睨み付けた。青白かった頬が赤くなって、彼女が不作法と言われて喜んでいないらしいのが分かった。
ロイエンタールは少し意外に思った。この娘は今までもこれほど開けっ広げに感情をあらわにしていただろうか? あの憎しみの表情に隠れて、こちらが気づかなかっただけだろうか。
ここのところ、なるべくこの娘と関わることを避けていた。任務の多忙さゆえにそれは容易いことだった。
どうやらしばらく見ない間にこの娘も変わったらしい。その辺の普通の女と同様に―。
ロイエンタールは心の中で嘲笑った。
―どの女も一緒だ。所詮この娘もただの女だ。
今の彼女は初めて彼にナイフを向けた時のような、復讐の念に凝り固まって今にも弾けそうな、よくしなる若木のような娘のものとは違っていた。
その瞳は彼と出会うと戸惑いとためらいを見せて揺れ、上品に伏せられた。俯いた瞼は白く、頬にまつ毛の影を形作り、その情景にロイエンタールの鼓動が一瞬、跳ねた。
この娘のそんな様子など、見たくなかった。貴族のたおやかな箱入り娘のように見える、大事に隠された宝石が姿を見せた時のような、そんな様子など…!
娘はぎゅっと握った拳を解くと、片手をスカートのポケットに突っ込んだ。そこで、まるでギクリ、としたように動きを止めた。ゆっくりとポケットから手を出したが、その手は空っぽだった。彼女は震える握りこぶしを背後に隠して、顔を上げた。
その表情はどうやら以前の鋼の強さを取り戻したようでいて、どこか違っていた。心細さを隠すような、強気を装った表情だった。
ロイエンタールは以前の彼女を呼び起こそうと、何も考えずに言葉を発した。
「―あれに何と言ったのだ?」
虚をつかれて娘が目を見開いた。
「何の話―?」
その言葉は罪のない、普通の娘が無邪気に問いかけたように聞こえた。ロイエンタールはいらいらと前髪をかき上げて言った。
「おれの執事に、今朝何か言っただろう。あれがおれに祝いの言葉を述べた…」
「…別になにも…」
娘はそう言いかけて、ロイエンタールが言わんとしていることを理解したようだった。
急に娘の瞳が輝きを増し、表情が生き生きとしだした。誇らしげに胸の前で腕組みをし、鼻を上向けて口をへの字に押し曲げている表情が、まるで滑稽に思われた。
ほとんど可愛らしいと言ってもよかった。
どうやらナイフに代わる攻撃の手を思いついたようだ。
口を少しゆがめて明るい声音で娘が言った。
「今日は誕生日だそうね。お祝いの言葉は言わないでおくわ、目出度いとも思っていないようだから」
「それはそれは、気遣いいただきかたじけない」
鼻で笑って、胸に手を当てて馬鹿丁寧にお辞儀をしてやった。
ロイエンタールが頭を上げた時、娘は一瞬、悔しそうな表情を見せた。こちらを苛立たせたかったようだが、この程度の皮肉は彼にはなんともない。
だが娘にはまだ繰り出す武器があるようだった。
「お祝いは言わないけど、労わってしかるべき人がもういないのは残念ね。お前の執事に今朝、そのことを話したのよ」
「労わって…?」
彼女が何を言う気か分からず、思わず言葉が漏れる。
娘は真面目な表情になって、彼の正面に堂々と立った。子供っぽさも、可愛らしさも消えてもう震えておらず、その瞳にためらいはなかった。
「そう、お前が生まれた日は、お前の母親が生涯で最もがんばった日。きっととても大変だったに違いないわ。お産のために何時間も耐えて、悲鳴を上げて、命を生み出すためにすべての力を注いだ。よく頑張りましたねって、言ってあげられないのは残念なことだわ」
ロイエンタールは目を見張って娘を見た。
母親を称える日―? どの母親に向かって…!
突然、ロイエンタールが扉をバン! と叩いたので、娘はビクッとして彼を見た。
「ご大層なセリフだな。実際どうだったか知れたものではない」
「分かるわ。少なくとも、無知な男なんかよりよく分かるわ。お前がここにいることが確かな証拠じゃないの」
白い顔をまっすぐにロイエンタールに見せて、娘は微笑まんばかりに柔らかな、優しい口調で答えた。
「―あの女はおれを刺そうとした」
「でもやり遂げることは出来なかった。そもそもお前が言うような事情があったのなら、お腹にいる間にいくらでも、途中でやめてしまう機会があったはずだわ」
夫以外の男と関係したのなら、妊娠中からすでに相手の男の種を宿したのではないか、という疑いに苛まれていたはず…。
―なぜ産んだ?
なぜ? なぜ? 子供のころからの古い謎がロイエンタールの心に蘇った。昔と同じように、真っ暗になった目の前に答えは浮かび上がらなかった。
「赤ちゃんが生まれるまで、9か月かかると言うわ。その間、お腹にお前がいて、嫌で嫌でたまらなかったとしても投げ出したりしなかった。すごいことだわ」
暗くなった視界が開けると、娘がそう言いながら彼を見つめている姿と出会った。その姿はそれまで知った女たちと同じく優しく美しい。だが、その視線はあくまで無邪気で、どこの誰とも違って見えた。
ロイエンタールは先ほどから感じているいぶかしさを隠すこともせず、眉をひそめつつ娘に問いかけた。
「お前の台詞は以前言っていたことと矛盾しているな。おれの母親をたいそう持ち上げているが、あの女が耐え忍んだおかげでおれは生まれ、どうやらおれを刺すことを完遂しえなかった母親のおかげで生き続けた。お前の言葉はまるでそれを喜んでいるように聞こえる」
娘の目が見開かれ、口が小さく開いた。どうやら母親を褒め称えて彼を怒らせるつもりだったようだが、それは諸刃の刃だったことに気づいたようだ。
「そんなこと…!」
娘は今度こそ、彼に初めてナイフを突きだした時と同じように眉をきりりとあげて、激しい炎をその瞳に見せた。
だがその表情を保ったまま、突然瞳に涙が溢れ、滂沱として流れ落ちた。
娘はなぜ自分が泣いているか分からないという風に、おろおろと両手を目元にやった。
女と付き合うことにかけては、誰よりも経験があることを自認しているロイエンタールだが、彼にしても女の涙は苦手だった。
女が泣くとき、嘲笑うか、知らんぷりをするか、どちらかの道しか知らなかった。
今のロイエンタールはどちらの道も取らず、ただ困惑していた。
「なぜ泣く…!」
「…知らないわよ! 勝手に出てくるのよ! だいたい、お前が変なことを言うから、そのせいだわ!」
娘は手を勢いよく振り上げて、ロイエンタールを指さして喚いた。女の涙と同様、女のヒステリーほど手に負えないものはない。
「落ち着け。元はと言えばお前が言い出したことだ。反駁されて泣くなど子供か」
首を振って肩をすくめ、いい加減、娘を書斎から追い出そうと部屋の中に進んでいく。
「来ないでよ! 来ないで!!」
まるで慌てたような言葉が娘から飛び出した。だがその言葉はヒステリーとは違った。ロイエンタールがさらに近づくと、彼が接近するのを防ぐように両手を体の前に突き出した。
―お願い、私に触らないで。
彼女の身体と触れ合う瞬間に言葉にならない声を聞いたと思った。
突然泣き出したときと同様に、娘の涙はロイエンタールの腕の中でぴたりと止まった。嗚咽はまだ残っていたが、一瞬にして落ち着きを取り戻したようだった。なぜ、この娘を腕に抱いてあやすようにその背中をさすっているのか?
娘の微かな囁きが、ロイエンタールがまとうシャツの中でくぐもって聞こえた。
「私のナイフを部屋に置いてきてしまった。あれがなくては…」
あれがなくては、彼が知るあの女と同じ娘でいることは出来ない。
「―そうか。では取りに行こう」
娘はその言葉に従って自分の部屋に行こうとしたようだった。だが、ロイエンタールが彼女の膝の下に腕をまわして抱き上げると、びっくりして彼の首にしがみついた。
階段を昇って行く途中で、ロイエンタールは暗い鏡に映った自分と娘の姿を見た。
娘の顔は彼の広い肩幅に隠されて見えず、ただ白銀の長い髪がたなびくだけだった。
娘の寝室の扉を開き、腕に抱える荷物の重さも感じさせずに、彼女をベッドに運ぶ。枕の下に手を入れると、ナイフは思った通りその下に忍ばせてあった。繊細な細工が施された綺麗なナイフだ。おそらく、娘がほんの数年前にその一族の誰かから与えられたもの。
ベッドに娘を横たえると、ナイフはサイドテーブルのランプの隣に並べて置いた。
小さなフリルのついたブラウスのボタンを外していくと、娘の震える冷たい手が彼の首元に忍び込んだ。何の感情に所以したものか、彼の身体も腹の奥底から震えていた。
「どうして―?」
娘の小さな声が彼の唇の下から聞こえた。
「さあ、分からない―」
―どうして、私たちは。
お互い、同じことを疑問に思い、どちらもその答えは知らない。
この娘も他の女と変わらない。それと同時に何かが違う。その違いは何なのか彼には分からない。

 

二人とも一睡もせずに、闇が覆う部屋の中で寄り添っていた。
互いに何も言わずにじっと見つめ合ううちに、静かに時が過ぎていく。
エルフリーデは彼の瞳を見ながら、暗くてその色が良く見えないのは残念だと思った。
―彼には言わないでおこう。彼が喜ぶようなら誕生日の贈り物に相応しいけど…。
むしろ悲しませたり、辛い思いをさせたりするような気がした。
―もし、彼が知ったらきっと赤ちゃんは…。母親に殺されかけ、彼もまた自分の子を手にかけることになる。
これ以上の辛いことはあるだろうか。
ただ心の中でまだ見ぬ赤ん坊に向けておめでとう、と父親が受けるべき祝福の言葉をかけた。

 

Ende


 

 

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