top of page

執務室に入った途端にベルゲングリューンは盛大な咳をし、ぜえぜえと息をついた。
「お大事に! 風邪をひかれたんですね。…息苦しそうですが大丈夫ですか」
ベルゲングリューンはくしゃくしゃになったハンカチで鼻を覆いながら、レッケンドルフに答えた。
「昨日トレーニングの後で夜風に吹かれたのが良くなかったのか、朝起きたら喉が痛いわ、鼻が出るわで…」
ベルゲングリューンの声を聞いて、レッケンドルフは少し心配げに眉をひそめた。
「ひどい声ですね。今日は無理なさらず、ご自分の執務室でお仕事をなさった方がいいですよ。お呼びいただければ伺いますので」
「いや、別に息苦しい以外は大したことない。閣下の元に参上するくらいなんでもないことだ」
かすれて聞き取り辛い声で答えると、レッケンドルフの眉間のしわが深まった。慌ててベルゲングリューンは話し辛いのを堪えて言葉をつづけた。
「もちろん、風邪のウイルスをまき散らさんように気を付ける。同盟との戦の前に閣下にうつしでもしたらことだ」
「これから間もなく戦が再開することは確実ですしね。でも、大丈夫ですよ」
レッケンドルフが心得顔で請け合った。
―何が?
ベルゲングリューンはそう問いかけたかったのだが、喉が塞がっているかのようで簡単な言葉すらうまく声にならなかった。しかし、疑念の思いは顔に出ていたらしく、レッケンドルフは言葉を続けた。
「風邪のウイルスは何万とあるそうですからね、年齢によっても罹り易いウイルスは違うとか。で・す・か・ら、ベルゲングリューン閣下の風邪は閣下には罹りませんよ」
「…そんな根拠のない話は…」
強く吐き出すように言ったはずがかすれて弱々しい反論になった。
「実体験ですのであまり間違ってもいないと思いますよ。閣下が風邪をひかれると治られる頃には私も風邪をひきます。逆もしかりです。私も気をつけてはいますが、閣下と1日でも離れて過ごすことは稀ですから」
―はいはい、そうですか! そりゃ卿は副官だから、閣下のお側を金魚のフンみたいについて回るのが職務だからな! どうせ風邪をひくなら閣下の身代わりになればいいだろうに!
喉が痛んで、悔しいことに簡単な叱責の言葉さえ口にするのが辛かった。すまし顔のレッケンドルフには睨み付けておいて、心の中で毒づくくらいが関の山だ。『金魚のフン!』と二回繰り返すことで留飲を下げた。
子供じみているうえに馬鹿げたことだと分かっている。このロイエンタール閣下の副官が良く出来た部下であることはよく承知している。とにかく、ベルゲングリューンに対して時にロイエンタールを間にして張り合うような態度をとることは問題だ。何とか言ってやりたい。
しかし、ベルゲングリューンは不調もあってあえて何も言わず黙っていた。普段は真面目できっちりとした仕事ぶりの彼ではあるが、鼻詰まりのせいで息苦しくて頭が重く、倦怠感が全身を覆っていた。
「今日は早めに退勤されることをお勧めします」
何も言わずにむっつりと黙り込んでいる様子に、レッケンドルフがいたわりの言葉をかけた。ライバルの不調に張り合いのなさを感じたのかもしれない。
その時、執務室の扉が開いてロイエンタール上級大将が颯爽と現れた。珍しく慌てた様子で自分のデスクに向かうと立ったまま、端末を操作し始めた。
「レッケンドルフ、緊急で次の会議がある。こちらは卿も出席しろ。今、卿の端末に概要を送った。5分前までに把握しろ」
「はっ、承知しました」
何か事態の変更があったらしい。ベルゲングリューンは「何事かありましたか」、と急ぐ風情の上官にさりげなく言葉をかけようとした。しかし最前同様に喉が塞がって痛み、音声にならずにふいごのような息が出て、ベルゲングリューンは咳き込んだ。
ロイエンタールは端末から束の間顔を上げると、拳で口元を押さえるベルゲングリューンをちらりと見た。
「風邪か? 卿は留守を頼む」
かろうじてベルゲングリューンは咳を止めた。
―風邪などひきましてお恥ずかしい次第です、しかし、任務に支障を来すようなことはしません、私も会議に出席いたしましょう。
如何に忙しそうな上官が不機嫌な顔をしていても、そのくらいの言葉を普段ならばすらすらと淀みなく言えただろう。だが、実際に出てきたのはかすれた、「私は…」という尻切れトンボな言葉のみだった。
「よい。ウルヴァシーの地上に降り立つについての実務的な会議だ。卿が必要になるのは後だろう」
上官の言葉にきびきびと答えたはずの返事は「しょう…しま…た」と途中が途切れて、ベルゲングリューン自身の耳にも頼りなげに聞こえた。
ロイエンタールが初めて端末から体を起こして、自身の参謀長をまっすぐに見た。彼の澄んで輝かしい力強い瞳と正面から目が合い、ベルゲングリューンははっとして吸い込もうとした息が止まった。
途端にこれまでにない咳に襲われた。
「…も、申しわけ…ご…」
まるで血でも吐かんばかりに痰の絡んだゼエゼエという咳は、あまりの激しさに鍛え上げられた戦士たるベルゲングリューンの体躯を二つ折りに折り曲げた。すでにくしゃくしゃになったハンカチの中に咳と鼻水を押しこめて、「しつ…、しつれいを…」とようやく言うと、あっけに取られて見つめる上官とその副官に背を向けた。
「ベルゲングリューン閣下、大丈夫ですか?」
心からの懸念に曇ったレッケンドルフの言葉が降って来たが、ベルゲングリューンは相手にする余裕はなかった。
ようやく咳が止まり顔を上げた時、百戦錬磨の帝国軍人の顔は真っ赤になっていた。
ベルゲングリューンが顔を上げるのを辛抱強く待っていたロイエンタールは、眉をひそめていた。
「卿の顔、真っ赤じゃないか。さっきまで何ともなかったのに、みるみるうちに頭に血が上ったみたいだぞ」
それは少し面白がっているように聞こえた。顔が異様に熱く、突然体中が痛み出したベルゲングリューンには、健康美に溢れる上官の涼やかな表情が憎たらしく見えて来た。
しかも上官は労わるどころか、冷たい声で病身の参謀長に「帰れ」というのだった。
「いえ…わた…しは」
ロイエンタールの侮蔑の色が濃くなった気がした。
「そんな真っ赤な顔をして、声も出ておらんし、しかも目が潤んでいるではないか。かなり熱があるに違いない。邪魔だから部屋へ帰れ」
悄然とベルゲングリューンは頷いた。どのみち、痛み出した頭と体を抱えて書類仕事に精を出すのは無理だった。
「ベルゲングリューン閣下の副官には私から閣下が早退されることを連絡しておきます。閣下はまっすぐご自分の部屋へお帰りください」
レッケンドルフは卑劣な男ではない。ロイエンタールへの気遣いと配慮にはベルゲングリューンも一目置いている。そのライバルの心配げな言葉は恋人の冷たい態度とは裏腹にベルゲングリューンの痛む心にしみわたった。
「すまん、そうしてくれるか」
とぎれとぎれながらそう言うと、頷くレッケンドルフに気づきもせずに部屋を退出した。

ベルゲングリューンの足取りは重かったがしっかりとトリスタンの艦の床を踏みしめて…、いるつもりだった。参謀長が立ち去る姿を見送る目にはその後ろ姿はひどくふらついて見えた。その視線の主は参謀長を追いかけるように執務室を出た。廊下を行く参謀長の後姿が曲がり角を曲がるまで視線は追いかけ続けたが、ベルゲングリューンが気づくことはなかった。

自室に辿り着くころにはベルゲングリューンの身体はこれまでにないほど痛み、まるでカプチェランカの地表に裸で放り出されたように冷えていた。とりあえずカラカラに乾いた喉を潤そうと痛みをこらえて水を飲む。のろのろと軍服を脱いで畳みもせずにベッド脇の椅子に放ると、上掛けをめくってガタガタと震える身体を横たえた。
ベッドの中でベルゲングリューンは何度か呻いた。身体は疲れ、節々は痛み、頭は鉛を仕込んだように重い。トリスタン艦内は廊下へ一歩出れば多くの士官たちが行き来し、運行中の戦艦が立てる微かな物音と振動に支配されているが、高級士官たるベルゲングリューンの自室は完璧な静けさを保っている。照明を落として横たわっているとやがて優しい眠りの手がベルゲングリューンの瞼を覆い、ようやく眠りについたのだった。

瞼の上に氷嚢が乗っていた。
それはひんやりとして、なおかつずっしりと痛む頭を押さえつけているが、その重みは心地よさを感じた。身体はまだ痛んでいるが寒さは感じず、代わりにひどく熱を持っているのが自分でも分かった。
冷たい氷嚢は首筋にも置かれ、まるで手で撫でるように皮膚の上を行き来した。
―いや、撫でている…、誰かが…。
ベルゲングリューンは目を覚ました。彼がベッドの枕元に腰掛けて、その冷たい手を眠るベルゲングリューンの頬や首筋に走らせていた。
「起きたのか?」
起きたのを咎めるような口調だったが、ベルゲングリューンの首筋を撫でる冷たい手は止まらなかった。
「あなたの手で…起きました…」
「おれのせいか? ひどい熱だ。薬は飲んだのか?」
「いえ…寝てれば治ります」
「診断が出来るとはお前は名医だな」
彼はベッドを揺らさぬようゆっくりと立ち上がった。冷たくて気持ちのいい手が遠ざかり、ベルゲングリューンは「行かないでください」、と声をかけたかった。しかしまだ喉は痛んで痰が絡んで声が出ずに諦めた。
―あの方が行ってしまうのに引き留めもせず諦めるようでは…。
自分がどれだけ不調であるか実感したがそれ以上は考えることができず、ベルゲングリューンは再び眠りの中に戻った。
次に目が覚めた時には本物の氷嚢を枕にして首の後ろが冷やされていた。彼は枕元に椅子を置いてやはりベルゲングリューンを覗きこんでいた。
注がれる彼の視線が自分を起こしたのだろうとベルゲングリューンは思った。そのくらい、彼の瞳は目を開いたベルゲングリューンの顔に熱く注がれていた。
「チキンスープを持ってきた。食べたら薬を飲め」
彼が身体を支えて起こそうとするのを遮っても良かっただろう。ベルゲングリューンはもう、部屋に戻って来た時ほどの辛さを感じていなかったからだ。ただ、熱はまだ高いらしく少し頭がふらついた。
彼が手に持たせてくれたスープのカップを持つと、熱のせいか手のひらに痛みを感じた。カップの中身を見て恐らく旨いのだろう、ということは分かっても食欲がわかなかった。
「無理して食べろ。空腹で薬を飲むなと軍医に言われた」
無理して…と言った彼の言葉遣いは密かにベルゲングリューンを面白がらせた。彼の存在は心の中に明らかに平穏と落ち着きをよみがえらせている。だが、スプーンを持つ手が上がらない。
「貸せ」
ロイエンタールはベルゲングリューンと向き合うようにベッドに腰掛けると、カップとスプーンを奪った。スプーンにスープを掬い、ベルゲングリューンの口元に突き出した。
思いがけないことに目を白黒させていたベルゲングリューンだったが、押し付けられるスプーンに観念して口を開けた。途端にスプーンがするりと口の中に滑り込み、温かくしょっぱい味が口の中に広がった。口の端からスープが少し零れて、ベルゲングリューンはこぶしで拭いた。
「もっと食べろ」
喉の痛みを我慢しながら、ベルゲングリューンは彼の言う通りにした。真剣な表情の彼はゆっくりとスープを運び続けた。しまいには、ベルゲングリューンはもう食べられない、と彼の手を遮らなければならなかった。まだ半分残っていたが、病人は食欲がないと分かっていたのだろう。ロイエンタールは頷いて今度は水と薬を差し出した。
「飲め」
彼はさっきから短い指示語しか話さなかった。恐らく…。病人に何と言ったらいいのか分からないのかもしれない。だが、今ははっきりと自分に向けられる彼の懸念を感じた。
―心配してくださっているのだ…。あのように冷たく感じたのは俺の心身が弱っていた証拠だ。
いや、彼の言葉が冷たかったのは病人に対する戸惑いだったのかもしれない。戦闘による怪我人ならともかく、彼が病人に慣れているとは考えられなかった。
だが、それでもこうして食べ物を運び、薬を飲ませてくれる。
温かいスープを飲んで喉が潤ったせいだろうか、ベルゲングリューンは先ほどよりは簡単に言葉を発することができる自分に気づいた。
「ありがとうございます。閣下…、オスカー」
眉をひそめたので慌てて言い直すと、彼が小さく肩をすくめた。ベッドの対面する位置に座ったまま、ベルゲングリューンをじっと見ている。どうしたものかとベルゲングリューンはぼんやりと考えた。食事の間、何とか起こしていた身体がまた横たわりたいと訴え始めている。だが、上掛けが彼の尻に敷かれていてベルゲングリューンはその中に潜り込むことができない。
「まだ…その…寝ます…」
何も考えることができずに言うと、心得たように彼は腰を上げてベルゲングリューンが体を横たえるのを手伝った。やんちゃで母親をてこずらせた子供の頃に病気になった時ですら、誰かが寝かせてくれることなど経験したことがなかったものだ。
「…だいじょうぶです…」
だが、彼は黙って手を貸した。意外なことにその腕はしっかりと重たいベルゲングリューンを支えてびくともせずに病人を横たわらせた。
だが寝床に背中をつけると、彼もまた一緒にベルゲングリューンの上に横たわった。
「あの…」
「寝ろ」
胸の上に彼を乗せて眠ることなどできるはずがない。だが、彼の両手が顔を覆い、ベルゲングリューンの瞼は閉じられた。
―冷たい手だ…。
彼の手が癒しの手だなどと考える者はいないだろう。自分と同じく敵に向かって剣を振るい、兵士たちを叱咤する軍神の手だ。彼の冷えた手は本来なら温めてあげたい、とベルゲングリューンが切に願うものだ。だが今は彼の冷たい手がこの世で最も尊いもののように思えた。
それでも彼のために言ってみる。
「風邪がうつる…。もう、お行ください…」
「うつるかもな。だが、かまわんさ」
彼が胸の上で肩をすくめるのを感じたが、彼の健康を損なうかもしれないのにそれを看過すべきでない。それははっきりさせておかねば。
「私はかまいます…、レッケンドルフが言うようにうつらない保証はないんだ…」
「レッケンドルフ? 奴は何を言っていた?」
ベルゲングリューンはとぎれとぎれにかすれが残る声でレッケンドルフの『年齢層が違うとうつる風邪ウイルスが違う』説を伝えた。彼はふーん、と言うとベルゲングリューンの瞼から額へ両手を滑らせて撫でた。
「そう言われればそうだな。あいつの言う通りよく一緒のタイミングで風邪をひく。奴の言う通りなら心配することはないな」
「…そんなことは何の保証も…」
その口は柔らかい唇で塞がれた。冷えた手とは裏腹にしっとりとして温かい唇がかさついた唇を覆い、そしてゆっくり離れて行った。
「試してみようか」
―なんてことするんですか。あなたが口の中に入ってきたらさすがにうつってしまう。そんなことは素人でも分かる。
だがベルゲングリューンは彼と言い合う気力がなかった。何か言う代わりに彼の背中に腕を回して抱きしめると、寝心地がいい場所を探してもぞもぞと尻を動かした。軍服を脱いでブラウス姿の彼の身体はいつもよりも冷たく感じられた。とても気持ちがいい。
ベルゲングリューンは彼を腕の中に閉じ込めて、ひんやりした胸に顔をうずめた。
「お休み、ハンス」
彼がそう囁いたので、ベルゲングリューンは眠りについた。

Ende
 

 

Gesundheit! ~お大事に~

bottom of page