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​モーニングコーヒー

元帥府のすぐ近く、ファーレンハイトの官舎からの通勤途中にカフェがある。朝7時から11時までの時間帯にコーヒーを頼むと無料でクロワッサンとゆで卵、ちょっとしたグリーンサラダが提供される。
朝早めに起きて走ってからシャワーを浴びて軍服に着替えると、歩いてカフェに向かうのにちょうどいい時間になる。護衛しづらいという理由から送迎車を使ってほしいと渋る副官に向かって、「俺一人のために人件費を無駄にすることもあるまい」と冗談めかして言い、通勤は自分の足を使うと宣言した。協議の結果、護衛は遠巻きにさりげなくするのであればつけて良い、と副官と折りあったのだった。
開店したばかりのカフェの扉を入って行き、店のマスターや店員に挨拶をする。迷わずカウンターの特等席へ直行した。カウンターには椅子もないのだが手軽に食べるには困らないし、席料が掛からないのでファーレンハイトには都合がいい。そこからは店にやって来る客たちの姿を眺めることが出来る。官庁街が近いせいかパリッとしたスーツ姿の客が多いが、ファーレンハイト同様に時々軍人もやって来る。彼らの多くは店の奥まった場所にいるファーレンハイトの姿に気づかない。もし気づいて慌てて敬礼する者がいても、答礼した後構うなと手を振ってやるのだった。
―お偉い大将閣下とて朝飯くらいゆっくり食べさせてもらいたいものさ。
その時、店内に新たに一人の客がやって来た。夜会服姿のその客はどこに座ろうかと検討するかのようにゆっくりと店内を見渡し、その視線はファーレンハイトの上に止まった。じっと値踏みするような視線を向けられて、ファーレンハイトは知らん顔を貫いた。あまりに綺麗な瞳にまるで路傍の小石を見るように他人行儀な目を向けられたせいか、突如として反抗心が湧いた。
それはくっきりとした色合いの澄んだ輝きを持つ黒ダイヤとサファイアの綺麗な瞳だった。
視線は何事もなかったかのように離れて行き、店のマスターに向き直った。コーヒーを注文した後、彼は通りに面したテラスの席に向かった。
見慣れた軍服ではなく遊び人の貴族めいた姿の彼は前夜官舎ではないどこかで過ごし、今はその帰り道だと思われた。その後ろ姿をファーレンハイトは信じられない思いでまじまじと見つめた。この店は地上車が入り込まない路地に面しており、店先にはちょうどよい木陰があってテラスは気持ちがいい。
だが、テラスの席は追加料金がかかるのだ…!
ファーレンハイトは目の前に置かれたクロワッサンをちぎって、一口食べた。少し塩気のある生地の旨みが口の中にじんわりと広がる。無心に食べながらも彼の後ろ姿から目を離さすことができなかった。
店内に入って来た彼は明らかに自分に気づいたくせにつんと冷たい視線を向けたので、こちらも相応に答えたつもりだった。だが、テラスにいる彼がこれほど気になるなら気軽に隣に呼んだらよかったのだ。
今さら声をかけるのは業腹な気がした。そもそもテラスに席替えするならその分料金を払わねばならないだろう。
サラダとゆで卵をほとんど無意識のうちに口に運び、ぽろぽろとクロワッサンの皮をこぼしながらちぎって食べた。ほぼ食べ終わったところで、新たに淹れたコーヒーのまろやかないい香りが漂って来たのに気付いた。マスターがゆっくりとコーヒーを入れる様子を芳醇な香りを楽しみながら眺めることが出来るのが、カウンター席のいいところだ。
この香りはきっと彼も気に入るに違いない。先ほどまでの想いを忘れてコーヒーを手にした彼の様子を早く見たくなった。
香ばしい香りを漂わせながらマスターがカップを持って彼のもとに運んで行った。もう一方の手にはサービスの朝食セットを乗せた小さなトレイを持っている。
コーヒーが手元に届くより先に香りが彼の鼻をくすぐったようだ。彼は形の良い頭を振り向けてマスターがやって来る姿を見ていた。受け取って礼を言い、満足そうに香りを嗅いだ。
だが、マスターが小さな丸テーブルに置いたトレイの上のサービスの品々を見て眉をひそめた。
マスターに何か言っている。トレイを押しやろうとしている様子から、注文していないものは受け取らない、と言っているようだ。
マスターは笑って遠慮せずにどうぞ、というように両手を振ると店内に戻った。他にも客が待っているのだ。
彼はコーヒーにも手を付けず、じっとトレイの中の朝食セットに目を落としている。腕を組みどうしようかと考えている風だ。やがて、トレイをちょっと向こうへ押しやるとコーヒーのカップを手に取って一口飲んだ。そのまま視線を空に向けてぼんやりと見ている。
コーヒーは気に入ったようで、一口ずつゆっくりと飲んでいる。だが、トレイの中身には手を付けなかった。
ファーレンハイトはマスターにお代りのコーヒーを注文し、それを手にカウンターから離れた。
「おはようございます、ロイエンタール提督」
通りを見ていたロイエンタールは色違いの瞳をファーレンハイトに向けた。
「…おはよう」
追い払われないうちにとファーレンハイトは向かい側の席に座った。
「こんなところでお会いできるとは奇遇ですね。よく外で朝食を召し上がるんですか?」
にこやかに問うと彼は肩をすくめて答えた。
「いいや、たまたま通りがかったら表の通りに看板が出ていて、コーヒーが飲みたくなったから」
「ここは見つけにくいのに偶然? 朝からついてますね」
大げさな、と言いたげに彼はちょっとだけ肩をすくめた。
「ここのコーヒー、美味しいでしょう」
「そうだな。卿は常連なのか」
「近頃何度か。出勤途中で立ち寄るのにちょうどいい場所なので」
ファーレンハイトはさりげなく言葉を続けた。
「サービスのクロワッサンも美味しいのですが、提督は召し上がらないのですか」
ロイエンタールはコーヒーカップの中に視線を落とした。
「朝は食べない。…だが、サービスだと言って出されて困っている」
「美味しくて評判ですから、マスターも提督に食べて欲しかったんですよ」
ロイエンタールは首を振って、「卿が欲しいならやる」と言った。
平素は貰えるものは遠慮しない主義だが、一方でお気に入りのカフェの朝食を彼に食べて欲しいと思った。
「そうだ、ワンちゃん袋に入れてもらったらいいですよ」
「なんだって?」
突然の言葉にロイエンタールは眉をひそめて言った。
「ワンちゃん袋に入れてくれって言えばマスターが袋に詰めてくれますから、持って帰って後で食べたらいいですよ」
「…察するにその何とか袋は持ち帰り用の袋か。別にいい」
「ぜひ持って帰ってください、美味しいんだから食べないのはもったいない」
「卿にやるから、卿がマスターに言って持って帰ればいい」
つんとして言うロイエンタールにファーレンハイトは笑って答えた。
「嫌ですよ。まるで私が提督にたかるようじゃないですか。提督がご自分で言ってください」
「…何とか袋なんて言葉、聞いたことがない」
「ワンちゃん袋。よく使う言い回しですよ」
だが、彼はレストランで食事をして余りを持ち帰ったことなどないのかもしれない。彼が行くのは高級レストランが多いような気がするし、残り物をありがたがる育ちではなかっただろうことは容易に想像できた。
「ではおれから言って袋に詰めてもらうから、卿が持って帰れ」
二人して店内を振り返ると、いつのまにかカウンター前には客が数人列をなしていた。混雑し始めたようだ。だがロイエンタールが軽く左手をあげると、接客は若い店員に任せてマスター自らすぐにやって来た。
ロイエンタールはトレイの中身に手を振った。
「先ほど薦めてもらったこの食事だが、こちらの同僚はこれを気に入っているようだ。私にも今食べないならば美味いから持ち帰ればいいと言うのだが」
マスターはびっくりしたように微笑むとまずロイエンタールへ、次いでファーレンハイトに頭を下げた。
「ありがとうございます。押し付けてしまったようでしたらすみません」
「いや。同僚が言うように持ち帰っても構わないのならば、袋に詰めてもらえるか」
ファーレンハイトは言葉を添えた。
「ワンちゃん袋ですよ」
「ワン…ちゃん…袋…に」
まさか正気の大人がそんな言葉を使うはずがないと言いたげに、ロイエンタールは疑わし気に言葉を切って言ったが、マスターはにっこりして頷いた。
「すぐワンちゃん袋にお詰めしますよ。ですが早めに召し上がってください。それか、冷蔵庫に入れる方がいいかな。サラダが痛んだらせっかくご贔屓いただいたのに申し訳ない」
「もちろん。ありがとう」
トレイはマスターの手によって下げられ、しばらくして紙袋に入った状態で戻って来た。ファーレンハイトはカウンター内の様子から、トレイに残されていたものではなく新しい朝食セットを袋に詰めたに違いないと確信した。
ロイエンタールは袋を受け取ると、重々しい表情でマスターに礼を言った。コーヒーカップの側にさりげなくチップを置いて席を立つと、袋を手に提げてマスターとファーレンハイトに頷きテラスを後にした。
ファーレンハイトとマスターはそのぴりっとした後ろ姿をぼんやりと見送った。
「あの方も軍人さんなんですか? あのご様子だときっと貴族さまですね。だけど変に偉ぶってないし、格好いいし、物腰の丁寧な立派な方だ」
男女関わらず彼の醸し出す雰囲気に魅せられる者は後を絶たない。
「ああ、貴族だけど庶民を馬鹿にするようなことは嫌ってる、立派な人さ」
ファーレンハイトは自分も彼と同じ帝国騎士という出自は忘れ、遠ざかる彼の背中を見つつ言った。それを聞いてマスターが嬉しそうに頷いた。
「うちのコーヒーを気に入ってくれたならいいですけど。また来てくれるかな…」
ファーレンハイトは彼が誰で、どんな人物か詳しく話したい衝動にかられた。しかしあまり吹聴しては彼の迷惑になるだろう。
「もし忘れていそうだったら俺が連れてくるよ」
急いで行けば彼に追いつくかもしれない。通りに出ると、たいして行かずに彼がキオスクのそばに佇んでいるのが見えた。
彼の前に立つと、ロイエンタールはワンちゃん袋をぬっと突き出した。
「ほら、これ。走ってこなくてもこれは卿の昼飯だから持って帰らん」
「…どうも。でも、よかったら召し上がってください」
まるで食い物のために急いで来たかのように言われたので、再びファーレンハイトは薦めた。
「いい。やる」
言葉少なに言って袋を胸に押し付けてきたので、ファーレンハイトは受け取らざるを得なかった。ロイエンタールの眉のあたりになんとなく不機嫌の雲がかかって来たように思われる。持って行け、食べろ、などと何度も言われるのが嫌なのだろう。
「仕方ないな。では食べて差し上げます」
少しおどけて肩をすくめ、わざと恩着せがましく言った。
「その代わり、今度ランチを一緒に食べませんか」
「ふうん。それは今日ということか?」
ファーレンハイトはロイエンタールの格好を眺めた。明らかに夜の装いのロイエンタールがこれから元帥府で勤務に就くはずがない。どこかで夜通し遊んで朝帰りの途中、コーヒーの芳香に誘われてふらりとカフェに立ち寄った、というところだろう。そこに偶然か神のお導きか、ファーレンハイトがいたということだ。
「提督は今日は休みなんでしょう。別の日でいいですよ」
ロイエンタールは「ぜひ、そうしよう」とも、「いつにする?」とも聞かずに黙って頷いた。これでは本当に行く気があるかどうか分からない。ファーレンハイトも「じゃあ、来週火曜に行きましょう」、などと言質を取るようなことは言わなかった。そんなことを言って彼を追い詰めた結果断られては悔しい。
―ミッターマイヤー提督が不在で、彼の予定が空いていそうな時に偶然を装って誘う方がいい。
彼が休みだろうが何だろうが、今日の昼を確約してしまえばいいのだろう。だがどのようにするのが一番いいのか、ロイエンタールを相手にした時には常に確信などないのだった。


元帥府への分かれ道でファーレンハイトは手を振ってロイエンタールと別れた。彼の後ろ姿を再び見送り、今日の弁当となったクロワッサンが入った袋を手に提げて行く。
元帥府への道筋にある帝国銀行本店の前の広場に出た。通りは出勤途中の人々でにぎわい、広場から帝国銀行の正門へ続く大きな階段にはさまざまな人々がたむろしていた。特に目に留まるのは道行く人々を対象とした物売りの類で、少年から老人まで幅広い年齢層がいた。
子供の頃は帝国銀行はもちろん、如何なる店先にもカフェにすら足を踏み入れることなどなかったファーレンハイトだが、今は違う。この立派な軍服のお陰で、彼に門前払いを食らわせることの出来る扉などないと言って過言ではなかった。
大きな階段のひとつに道具箱を脇に置いた一人の少年がいて、パリッとした服装の恐らくどこかの官庁の役人と思われる男の靴を磨いていた。かつてはあの靴磨きの少年の方がファーレンハイトにとってなじみ深かったこともあったのだ。
少年が靴を磨き終わると男は料金を払って立ち去った。靴磨きの少年は手のひらの硬貨を1枚1枚よく確認すると、ズボンのポケットにしまった。だがそこに別の中年の男が現れ、少年の肩を小突いた。男も小脇に道具箱らしき箱を持ち、日々の労働で荒れた手をしている。男は少年に手を突き出しながら何かまくし立てている。
―同業者の縄張り争いか…?
男は少年の様子を見ていたのだろう。少年のズボンのポケットに手を突っ込もうとしたので、少年は暴れた。
男が拳を振り上げ少年を殴ろうとした時だった。二人の間に少年が置いたままだった商売道具の足置きに軍靴の足が大きな音を立てて踏み下ろされた。ファーレンハイトが戦場で部下に命令する時の良く通る声で言った。
「磨いてくれ」
少年は中年男の方を反抗的な目でちらりと見たが、ファーレンハイトに頷いた。
「はい、だんなさん」
「おいおい、旦那、こいつあ…」
中年男は何か言いかけたが、ファーレンハイトの鋭い視線に射こまれて黙った。あるいはファーレンハイトの立派な軍服の肩章が目に入ったのかもしれない。にやにや笑って手もみしながらファーレンハイトに声をかけた。
「ねえ旦那、こんなガキより俺の方が綺麗に磨いて差し上げますぜ」
「いや、結構だ。俺はこの子にやってもらうと決めたんだ。他をあたってくれ」
「そう言わずに…」
だが、ファーレンハイトが相手にしないのであきらめたか、男は離れて行った。広場には他にも客になりそうな相手がたくさん行き来しているのだ。
靴磨きの少年はずっと顔を俯けていた。ファーレンハイトの軍靴にブラシをかけて汚れを落とすと、柔らかい布にクリームを取り出して靴に塗った。程よく塗り広げたところで別のブラシを取り上げて磨き始めた。
「まだこの商売を始めたばかりか?」
少年はブラシを持つ手を止めることなく、ちらりとファーレンハイトを見上げてから頷いた。
「…でも俺ちゃんと練習したし、あんちゃんに大丈夫って言ってもらったから」
「あんちゃんも靴磨きをしてたのか」
「うん」
「この同じ場所で?」
少年は首を振った。
「別のとこで。だけどそこは俺が行ったらもう別の奴に取られてた」
ファーレンハイトは靴磨きの少年の手元から視線を上げて、広場を見渡した。先ほどの中年の靴磨きは別の獲物を見つけてさっそくその靴を磨いている。広場にはブルストの屋台や、花売り、コーヒースタンド、キオスクなどがあり、にぎやかだが客の奪い合いも激しいだろうと思われた。
「ここは客が多そうだが、さっきみたいに取り合いにもなるだろうな。他の場所を探した方がいいんじゃないか」
「だんなさんは知らないだろうけど、店を出すにもいろいろあるんだ…」
ファーレンハイトはよく知っていた。自由な空間と思って勝手にその場所を占有すると、思いがけず地元のチンピラに因縁を付けられることはよくある。その場所の元締めになっている顔役に呼び出される例もままあることだ。
ぼんやりしている間にも少年は忙しく手を動かして丁寧に靴を磨いた。少年の「あんちゃん」は本当の兄なのか、あるいは単に少年に仕事を教えた年長者という意味なのか、とにかく腕のいい靴磨きで教え方も上手かったに違いない。実のところ、ファーレンハイトの軍靴は従卒が週に一回は手入れをしており十分綺麗だったはずなのだが、少年が磨き終わった靴は驚くほど輝いて見えた。
「やあ、ずいぶんきれいになったな。ありがとうな」
少年は照れ臭そうに笑い、靴磨き代の帝国マルクを誇らしげに手のひらに受け取った。ファーレンハイトはまたあの中年男が横取りしに来るのではないかときょろきょろと周囲を見渡した。
―また来たら今度は遠慮なくぶん殴ってやる。
そこでふいにあることに気づき、靴磨きの間足元の階段に置いていたワンちゃん袋を取り上げた。袋にはカフェの店名とビジフォン番号が書かれていた。
―カフェのマスターは裏町のこともよく知っているし、店先は店のものだから靴磨きのためにちょっと場所を提供してくれるんじゃないか…。
店は路地を入った奥まった場所にあるが客の入りは結構あるし、コーヒーのついでに靴を磨くというのはいいアイデアに思えた。
懐からペンを取り出し、ワンちゃん袋に大きく自分の名前を書いた。少し考えてからその下に自分のオフィスのビジフォン番号も書き込んだ。
「これ、この店に行って店先を借りたらいい。そうすればさっきみたいな輩に邪魔されずに商売できるだろう。俺の靴にしてくれたのと同じようにいつも上手に磨ければきっと客もたくさんつく」
少年は目を大きく見開いてワンちゃん袋を受け取った。なぜちょっと靴を磨かせただけの少年に肩入れするのだろう。本当はひどい悪童なのかもしれないのに。
―だが靴磨きの腕前は悪くないじゃないか。カフェに迷惑がかかったらその時は俺がこいつを絞めてやる。
「だんなさん…」
おずおずとした声にファーレンハイトは警戒して答えた。
「なんだ? 堅気の店先を借りるのはまずいか?」
少年は戸惑う風に首を振った。
「俺、字が読めないんだ。どこにある、なんて名前の店か教えてよ」
「…ああ…! それは失敬」
ファーレンハイトは少年に店名と通りの名前を教えた。少年は真剣な表情でそれらを繰り返し、間違えていないことを確かめた。少年の真面目な顔を見下ろしながら、内心自嘲した。
―小公子
先ほど、ワンちゃん袋には自分の名前ではなくその言葉を書こうかと一瞬考えた。
それは子供時代、裏町を裸足で駆け回っていたころのファーレンハイトの二つ名だった。当時の仲間たちによればその名は今でも通用するらしい。袋に書かれた二つ名を読んで立派な軍服の男が実は裏町の出身だったと知って少年が驚く…、という想像をしたのだった。

少年に手を振ってからファーレンハイトは再び歩き出した。裏町から抜け出すため勉強し、士官学校に進んで彼なりに努力し、軍人として大成した己の才には大いに自負があった。だが、あの頃の自分を否定するつもりはないし、むしろ良くやったと我ながら褒めたいくらいだった。
―とはいえ、馬鹿げた虚栄心に惑わされなかったのは上等だ。
「だんなさん…! 忘れ物…!」
物思いにふけりつつ立ち去ろうとしていたファーレンハイトは声をかけられて振り向いた。少年はワンちゃん袋を頭の上に掲げて小さく振った。
「このなかみ、パンとか食べ物が入ってるよ」
ファーレンハイトはすっかり忘れていたことに気づいて笑った。
「ああ、やるよ。クロワッサンとサラダだが、美味いから食べるといい」
それを聞いて少年はちょっと嬉しそうにしたが、すぐに難しそうな表情を見せた。
「…でも…もうお代はもらってるし…。メシまでもらえない…」
「お陰ですごく綺麗になったからな。チップだよ」
ファーレンハイトは少年の元に戻って小さな声で言った。
「そいつの中身をさっさと食っちまえよ。そして袋は道具箱にしまうんだ。もし、この店に行くつもりなら他の奴らに知られない方がいい」
少年はぽかんとしてファーレンハイトを見上げていたが、真面目な表情になって何度も頷いた。
「ありがと、だんなさん」
少年の擦れていない様子に裏町で暮らすには素直すぎるな、と少し心配になりつつファーレンハイトは再び歩き出した。

しばらくして元帥府への曲がり角を曲がろうとして、思わず立ち止まった。
「なぜまだこんなところにいる。遅刻するぞ」
未だ夜会服姿のままのロイエンタールだった。ファーレンハイトはちょっと腕時計を見ながら答えた。
「走って行けばまだ大丈夫ですよ」
「卿の昼飯がなくなったな」
ロイエンタールはファーレンハイトの手元を横目で見ながら言った。せっかく彼にもらった食べ物を路傍の少年にあげてしまった。申し訳ないような、誇らしいような気持になり、ファーレンハイトは曖昧な笑みを浮かべた。
「ええ…まあ…」
「せっかくのワン…、…袋…だったのにお人よしだな」
この自分がお人よしなどと…! だが、ロイエンタールの言葉が示すものに気づいて、ファーレンハイトは頬が赤らむのを覚えた。彼は広場での一幕を見ていたのだろうか?
「見ていらしたんですか?」
「卿にああいう優しい、親切なところがあるとは思いがけないことだったな」
腕組みして得々として笑うロイエンタールはまるでファーレンハイトの弱みを握ったかのようだ。
「別に優しいとかそういうことではなく…。たまたま…」
「卿が腹を減らしては気の毒だ。昼飯に連れて行ってやろうか」
彼の言葉に理解が追い付かず、息を止めたまま色違いの瞳をじっと見つめた。
「奢ってくれるんですか」
言ってから自分に舌打ちした。別に奢ってほしいわけじゃない…! これはファーレンハイトにとって、考えもせずに言ってしまう常套句のようなものなのだ。
ロイエンタールは急に押し黙ったファーレンハイトの目を覗きこむようにした。
「なんだ? 奢ったってかまわんが、どこか行きたい店でもあるのか?」
「…いえ…。ありがとうございます。でも、一緒に行ってくださるのなら別に奢ってくれなくてもいいんです。美味くて安い店を知ってるんでそこに行きましょうか」
ロイエンタールは眉をひそめて聞いていたが、頷いた。
「昼頃、さっきのカフェで待っている」
「提督はお休みでしょう。もっとご自宅に近いところでもいいですよ」
「構わん。あそこのコーヒーはうまかったから」
そう言うと後ろ手に手を振って颯爽と行ってしまった。
ファーレンハイトは朝の光を受けて遠ざかっていく彼の後ろ姿をじっと見ていた。彼の方から昼に誘ってくれて嬉しかった。あの靴磨きの少年に食事を譲り、店を出す場所を斡旋したお陰だろうか。
―カフェに行ったらあの子が店を開くところに立ち会えるかもしれないな。
彼と二人でピカピカに磨いた靴を履いて出かけるのだ。

Ende
 

ワンちゃん袋:Doggie (Doggy) bagをイメージしています。

余り物を持ち帰り用の袋に入れる、持ち帰ること。

レストラン等で余った食べ物を持ち帰るために、飼い犬のためだから、と言ったことから。でも、この頃は使われることが少なくなった表現のようです。

ロイエンタールに『ワンちゃん』と言わせたかったふぁー様でした。

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